<徳島県唯一の穹窿式複室構造古墳>
一部しか残存していない古墳の中には、一見すると古墳とは思えない景観のものがある。吉野川市の穹窿(きゅうりゅう)式複室構造を持つ忌部山型石室の「西宮古墳」もその一つである。穹窿式(ドーム型)複室構造古墳としては、西宮古墳が県内唯一である(昭和期の文献による)。
この遺跡を最初に知った文献は、古代祭祀関係の書物で、それにはこの遺跡を古墳とは明記せず、「敷地祭祀遺跡」(所在地は鴨島町敷地の標高50mの丘)と記述していたため、記載の図面等から、鍵穴型変形ストーンサークルと二基一組の4基のメンヒル(人為的立石)から成る先史祭祀遺跡、という認識をしていた。特に4基の立石周囲の景観は神霊の依り代、神籬を彷彿させる。
が、自宅書庫の古墳や古代遺跡関係の文献を探して見ると、これは6世紀後期から7世紀前期に築造された西宮古墳の基部の石と玄門・前門の各立柱石(支柱)が残存している姿であることが分かった。
その「姿」は現在、半分以上地中に埋没しているが、昭和後期は地表に露わになっていた。それは鍵穴型に緑泥片麻岩を並べ、円(穹窿式石室部)と長方形(前室と羨道部)が接する部分の両端に天辺が平らな玄門の立柱石(支柱となる石)、その2メートルほど(前室の全長)南に前門の立柱石を配置したもの。
古墳ファンのバイブル「日本の古代遺跡」シリーズや、その記述を引用した山川出版社の「徳島県の歴史散歩」では、前述の4本の立柱石を「4本の玄門石」と記述しているが、この古墳は複室構造であることが判明しているため、後室である玄室入口の石柱の呼称は「玄門石」でも良いが、その南の立石は前室の入口にあることから、正しくは「前門の立柱石」(略して「前門石」)と言うべきである。
尚、「前門」を誤認識によって「羨門」と記している文献もあるが、羨門とは羨道入口の門のことである。この古墳の羨道は全長が56cm しかないから、勘違いしたのであろう。
古墳の一部が残存している姿であると分かっても景観的にはどことなく神秘的な雰囲気が漂い、且つ、前門石と玄門石、基部の石に触れられるのは貴重なことなので、訪れる価値はある。
上り口は徳島病院の北側と敷島神社境内にあるとのことだったが、前者の上り口は車上からでは分からなかったため、敷島神社に向かった。駐車は神社前の広場へ。
元々の上り口は西宮古墳の案内板の左横のようだが、既に廃道化していたため、適当に斜面を上がった。2分ほどで到着する。
古墳は後円部(穹窿部)を北に向けているが、その部分の基部の石は数個ほどしか露出していない。径は3m弱ほどか。
玄門石は天辺が切断されたかのように平らになっており、前門より低い。封土があった頃はしゃがんで入っていたのか。

前門石は両方とも天辺が以前紹介した坂出市の水没古墳のように尖っており、東側の石は地中に半分以上埋没している。敢えて不安定な形状の石を置くことには、宗教的意味があるのかも知れない。他の忌部山型石室の古墳では、玄門石の片方の先が尖り、もう片方が平らになっているものもある。
余談だが、前述の古代祭祀関係の書物は岡山県で発行されたもので、それには信じ難い立地(岡山県内)にある巨大メンヒルのような立石も記載されていた。その探訪記事もまた今度投稿したい。
信じ難いメンヒルを信じたいから投稿を待つ、という方は下のバナーを是非。