《頼山陽の宿に泊まり、各志士の無名史跡を巡ろう》
(※後の方に史跡一覧を列挙しています)
水曜日、「美馬君田 墓所」による検索訪問がありました。君田のことは今まで何度も触れてきたので、改めて解説するまでもありませんが、龍馬が文久二年1月、長州萩で久坂玄瑞から琴平の日柳燕石を紹介され、活動資金援助を申し込むため、訪れたところ、燕石は経済的余裕がなくなっており、代わりに美馬君田が知己の阿波の鎌村熊太を紹介し、龍馬は無事熊太から資金を得ることができ、帰国の途に着いた、というもの。
琴平には君田、燕石、龍馬、高杉晋作らの史跡・伝承地が
数多くあり、且つ、文人で学者の頼山陽の自画像を収蔵する、頼山陽宿泊地跡に建つ安宿もあり、四国一崇敬を集める金刀比羅宮で初詣することもできることから、龍馬や晋作ファンにとっては、香川県の
肝心の君田は元々徳島県美馬市の願勝寺の住職で、嘉永元年、琴平へ移って来たことは以前触れました。元々勤王思想を持っていた君田は、勤王侠客の燕石とはすぐ打ち解け、常に行動を共にするようになります。
慶応元年5月、高杉晋作が報国隊等に命を狙われ、燕石を頼っ
てきた時も協力し、燕石と共に命をかけて、高松藩の捕吏から晋作を守り、無事、伊予へと逃れさせたことも有名。
維新時、燕石は戊辰戦争へと従軍して行ったのですが、君田は持病のため叶わず、家塾で子弟の教育にあたり、その後、旧琴平小学校の初代校長となっています。
では、金毘羅門前に龍馬、晋作、君田、燕石の、どんな史跡があるのかを列挙します。
(1) 宿屋・藤の棚跡(標柱あり)
晋作と燕石の密会所→去年、「坂本龍馬と高杉晋作が歩いた金毘羅街道」シリーズで解説済み。
(2) 興泉寺
燕石寄進の井戸枠あり。「日柳政章」というのが燕石のこと。住職から呑象楼を譲り受ける。
(3) 呑象楼跡(標柱あり)
燕石の住居跡。龍馬や晋作が燕石、君田等と密会していた所で、近郷の志士がよく集まっていたところ。
燕石の以前の住居跡。
(5) 佐野屋跡
琴平での最初の君田寓居跡。
(6) 君田家塾跡
(7) 松里庵
晋作の潜伏地の一つ。隠し部屋もあるが見学不可
(8) 芳橘楼跡
龍馬や晋作、桂小五郎等が宿泊したことのある、琴平屈指の大旅籠跡。
(9) 才谷屋助十郎寄進燈籠
(10) 坂本龍馬の旅姿の銅像
金毘羅の裏参道の一つ、牛屋口に建つが、以前、何度も触れたように、龍馬は牛屋口を通っていない。それでも見応えのある大きな銅像だけに探訪することは悪くない。
(11) 美馬君田墓所
こんぴら南駐車場南のY字路を山際の道の方に進んだ先にある柳谷墓地にある。北側に無人の墓地管理事務所があり、その前の小径を上がるとすぐ右手に「美馬家之墓」があり、その墓碑の左手に「美馬援造」という人物の墓があるが、これが君田の墓。
駐車場は道路を少し南下した所にある。
(12) 旧琴平小学校跡
(13) 長谷川佐太郎邸跡
佐太郎は燕石を兄のように慕っていたが、経済的に苦しくなった燕石の支援もしている。現在の丸尾本店が跡地で、佐太郎時代から現在まで酒造会社を続けている。晋作滞在所跡でもあり、隠し部屋もあるが非公開。高松藩の捕吏が踏み込んだ際、晋作は酒樽の中に潜んだ。
(14) 移築された呑象楼(標柱あり)
規模は多少縮小されているが、どんでん返し等の壁が残る。私的見学は不可。
(15) 燕石生家跡(標柱あり)
(16)燕石墓所(現地に解説板あり)
燕石は戊辰戦争の従軍先で病没したが、同郷の志士によって遺髪と爪が持ち帰られ、墓が建立された。
龍馬や晋作とは直接的に関係ありませんが、文人、頼山陽の宿泊地跡が金毘羅表参道口の一之橋袂にあります。橋本屋旅館です。
ここには山陽が訪れるより前の1700年代、橋本屋前身の旅籠に俳人、与謝野蕪村も宿泊したことがあり、直筆の漢詩と自画像が描かれた掛け軸が伝わっていることは以前も解説しました。
ここは安宿で一泊二食6,500円。勿論駐車場代無料。和室ですからトイレは部屋の外ですが、男子トイレの大便所は、体格が大きい方は座りにくいかも。
以上が目ぼしい史跡ですが、前述の「坂本龍馬と高杉晋作が歩いた金毘羅街道」で解説したように、金毘羅と丸亀を結ぶ金毘羅参詣道・丸亀道沿いには各種晋作の伝承地や龍馬が試合を行った道場跡(戦前は龍馬の対戦成績が記された試合表が残っていたという)もあり、数日間滞在して、色々と巡ることができます。
但し、上記に列挙した史跡の殆どは地元でもあまり知られておらず、自治体が発行している金毘羅街道のマップも完全ではありません。全ての史跡や街道を完璧に巡ろうと思えば、拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」を入手するほかありません。
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