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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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真実のよさこい伝説紀行(4)お馬一家の夜逃げ

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人通りが比較的多い津野山街道(坂本龍馬の真実の脱藩道)沿いの正尺に引っ越したお馬一家でしたが、父の大野新平の鋳掛屋稼業は軌道に乗らず、生活は益々困窮してしまいます。



困り果てた新平はあろうことか、客から預かっていた道具類を勝手に売り飛ばす等するようになったのでした。当然、新平の評判は更に悪くなります。そしてとうとう、一家は夜逃げすることになったのです。



一般のよさこいファンにとっては、衝撃の事実かも知れませんが、これは旧葉山村史に記述されてあることです。

お馬一家の新天地は高知市五台山の南麓で、字(あざ)五台山鳴谷です。ここは五台山の鳴谷参道沿いであり、人通りもある程度はありました。以前も述べたように、現在でも鳴谷には多くの大野姓の住民が居住しています。



因みに鳴谷の南西には、一昨年、解説した(と思う)龍馬が暗殺される二ヶ月前、藩に新式銃千丁を売却するため一時帰国し、藩の要人と密会した茶屋「半船楼」がありました。跡地は更地になっています。



お馬一家は、鳴谷での生活も長くは続きませんでした。自然、戦跡、ときどき龍馬-偽のお馬生家の井戸 流石にここでは客の道具を売り飛ばすような真似はしなかったと思いますが、再び転居するようになった理由は、新平に副職の話があったことによります。遠州時代からの山内一豊公の家臣、小倉一族累代の墓所の墓守をすることになったのです。



そこで一家は五台山鳴谷から五台山長江に移ることになるのですが、この長江の家跡に以前触れた「偽」の復元された「お馬生家の井戸」があるのです。一般のよさこいファンがお馬生家跡と思い込んでいるところです。


この長江の家は五台山長江参道沿いにあるのですが、鳴谷よりこちらの方が人通りはありました。その参道は後世、「お馬路」と呼ばれるようになります。



尚、長江の家の北には、土佐での初代小倉氏自然、戦跡、ときどき龍馬-小倉井戸小倉少助の隠居屋敷跡の一部の敷地(細長い果樹畑跡・お馬生家の井戸のある民家の三軒北)が今でも残されており、通称「小倉井戸」もあります。

少助は藩の元和改革に参加して成功させ、藩林制度を整備し、木材の売買で藩の財政を立て直し、野中兼山の補佐としても采配を振るっています。



井戸以外にも無名史跡はあります。屋敷跡の一つ東の道路東方、送電鉄塔が建っているのが分かると思いますが、道路自然、戦跡、ときどき龍馬-小倉馬場跡 から鉄塔の南までの東西に長い地が、小倉家の馬場跡です。



お馬は高知城下追手筋の小倉一族、小倉六右衛門の元へ行儀見習いを兼ね、女中奉公することになります。奉公期間を終え、自宅に帰ってきてから、お馬は運命の出会いを果たすことになるのです。



PS:長江の家跡への行き方については、第一回目辺りに記したと思います。

明日、よさこい祭り前夜祭、そして金曜と土曜が本祭です。私は科目修得試験でそれどころではないのですが。

ブログの正式再開は8/15以降になります。

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