≪「竜馬がゆく」の久万高原町の龍馬の旅籠跡を特定≫
昨日、愛媛県久万高原町のある滝を探訪したついでに、その地区の源頼政の伝承地に寄ろうと向かった所、その地が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に登場していることを地元民から知らされた。
昭和30年代、司馬は「竜馬がゆく」の連載に際し、高知県周辺の坂本龍馬の伝承を集録していたところ、伊予・久万山岩川の旅籠に龍馬が滞在していたという伝承に接した。
そこで司馬は高知県教育委員会にその真偽を確認したのだが、旅籠を経営していた豪商の子孫は既に明治期、東京へ移転していた。教委はその子孫の家から隣村(現代の大字では同じ地区)の他家に嫁いだ女性に問い合わせたのだが、生憎彼女は長期入院中で遂に話を聞くことはできなかった。
が、司馬はその伝承を「竜馬がゆく」の中に織り込んだという。私は歴史小説を読まないので、どのように記述されているのか知らないが、地元民が言うには、旅籠の名称や、龍馬がそこで食事を取ったことが記されているという。
ここで重要なのは、「岩川」という地である。実は、岩川で宿泊した旨のことは、他の土佐の脱藩した志士関係の文献にも出てくる。すぐ思
い浮かぶのは、那須信吾が吉田東洋を暗殺した後、兄の浜田金治へ送った手紙である。
それには「久万山之内 岩川に着止宿仕候」とある。岩川で一番大きな旅籠が龍馬の滞 在伝承がある旅籠である。その地は土佐の国境を越えてすぐである。その国境越えの道も越知町を通る街道と同じ名称の「松山街道」である。これは仁淀川町から久万高原町へと至る国道33号の前身の道である。阿波北街道のように山肌をアップダウンを繰り返しながら進む。
越知町の龍馬の滞在したという茶屋の場所も、国境からはそんなには離れていない(但し国境は旧池川町界)。つまり、龍馬は越知の茶屋へ寄った時も岩川の旅籠に滞在した時も、目的は脱藩に適した道を探るためではなかったのか、ということが推測できるのである。
久万高原町では、その二本の松山街道を繋ぐ脇道もある。越知から久万高原町を周回して土佐へ帰った可能性もある。
昨日はその旅籠跡を地図上で特定することができ、前述の県教委が問い合わせた家も分かった。更に驚くことに、その当時入院していた女性は、実家(旅籠の屋敷)から、龍馬が滞在した時、食事を乗せて出したおぼんを持ってきていたというのである。しかし残念ながら今、その家にはない。
が、驚きはこれだけではなかった。その女性の嫁ぎ先が、源頼政の母の屋敷跡であるというのである。それを示すかのように、そこの家の地名は「御所」である。
久万山は頼政の領地であり、頼政が以仁王から令旨を引出し、平家軍と戦って敗れ、宇治・平等院で自刃した後、家臣の猪早太が頼政の位牌を中津(岩川の大字)に携えてきて、大寂寺に安置した。
現在、大寂寺は移転しているが、旧大寂寺跡は「御所」の川を挟んだ北隣である。更に移転した大寂寺の西方には、早太の直系子孫が健在である。
昨日は生憎の雨と時間の関係上、龍馬と頼政の伝承地を探訪できなかったが、それらの無名伝承地を公表できるのは、私しかいない。
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