《龍馬と晋作が頼った豪商邸跡に金子みすヾが?》
(25) 火の山 小倉口の戦いで龍馬は参戦後、長州側有利と見ると操船を石田英吉に任せ、自らは火の山に迫撃砲を担ぎ上げ、援護射撃を行ったが、砲弾は殆ど敵艦には届かなかった。 よって諦め、海戦図を描いている。 (26)旧伊勢屋跡(私的標柱あり) 晋作が龍馬に小倉口の戦いへの参戦を要請した場所だが、巌流島での決闘時、宮本武蔵が宿泊した舟宿跡としての方が有名ということは以前のべた。 (27)赤間神宮 宮は奇兵隊が白石正一郎邸の次に屯所にした極楽寺跡に建つ。正一郎が明治期、初代宮司を務めた。 (28)白石正一郎墓と真木菊四郎墓 赤間神宮背後の尾根にある。こちらの正一郎の墓は神式。菊四郎については去年、解説したが、龍馬を兄のように慕っていたにも拘わらず、薩長同盟に反対していた、亀山社中の一人で龍馬の旧友でもある池内蔵太(いけくらた)に暗殺されている。 日清戦争の講和交渉は、伊藤博文と外相の元海援隊隊士・陸奥宗光が行ったが、 その講和会場が再現されている。 尚、この建物は先の大戦時、奇跡的に戦災を免れている。 (30)伊藤九三邸跡(看板あり) ご存知、龍馬とお龍が暮らした自然堂跡。井戸と西郷隆盛寄進の手水鉢が残っていることは去年解説済み。 (31)伊藤九三墓所 山陽道より幾分北方にあるため、私は訪れていないが、地図上では大体確認している。 (32)大坂屋跡 龍馬が伊藤博文や晋作、桂小五郎たちとよく会談していた、下関最大の遊郭跡。跡地に建つホテル等については去年解説済み。 (33)教法寺 晋作の制止もきかず、奇兵隊と撰鋒隊とが衝突した場所。この教法寺事件で晋作は奇兵隊総督を解任された。 (34)入江和作邸跡(金子みすヾの詩プレートあり) 慶応元年閏5月1日、龍馬は萩藩士、小田村素太郎の指示 また、その前年、晋作が挙兵した時、軍資金として和作から二千両もの大金を借りている。 明治期、和作が下関を去って屋敷は取り壊されたが、大正時代、跡地の一角に商品館が建てられた。 この中には「上山文英堂西之端店」という書店が出店していた。ここで一人、店番をしていたのが、かの悲劇の童謡詩人、金子みすヾである。 (35)赤間関在番役所跡(標柱あり) 龍馬が長崎で世話になっていた小曾根英四郎が幕府密偵の嫌疑をかけられ、この役所に拘束された際、龍馬は嫌疑を晴らすため、手紙で報国隊士や九三に協力を要請し、亀山社中の菅野覚兵衛を派遣し、収拾にあたった。 文字数オーバー表示が出て、一度に投稿できなかったため、このすぐ後に後編(2)を投稿します。待ち切れない方は次のバナーをプリーズ・クリックon
で豪商の入江邸を訪問したことが記録にある。
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坂本龍馬と高杉晋作のファンは下関で新年を・後編(1)
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