昨日の山陽地方に続き、四国の坂本龍馬の無名史跡・伝承地を住所入りで列挙します。
[凡例]
キ=古文献等に記録があるもの。
デ=伝承や口碑によるもの。
シ=伝記や郷土書、歴史関係の書物等に記述があるもの。
ア=現地に案内板や解説板、碑、道標等があるもの。
ブ=当ブログで過去に解説または簡易紹介したことがあるもの。
ダ=拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」に収録してあるもの。
ミ=未探訪のもの。
[愛媛県]
(1) 宇和島城下町会所跡(宇和島市
本町追手2丁目3-21~23)
デ・シ・ミ
文久元年初頭、龍馬が宇和島城下に才谷梅太郎と変名して訪れ、児島惟謙や土居通夫らと剣道の試合をし、日本の行く末を語り合った、という伝承は惟謙や通夫の伝記、関連文献に記述されており、司馬遼太郎も短編小説集「幕末」で通夫を題材にしている(名前は変えている)。
伝記等ではその時龍馬は、宇和島城下の町会所の二階に滞在していた旨記されている。
デ・シ・ブ・ミ
前述の宇和島藩士たちと試合をした道場。
(3) 板屋跡(久万高原町中津岩川2452・※枝番不明)
デ・ブ
龍馬滞在の伝承がある旅籠。板屋は久万街道で土佐から伊予に入って最初の旅籠になる。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」連載時、注目を集め、地元マスコミにも取り上げられた。それ故、遼太郎はこの道が脱藩の道であろうと考え、高知県教委に板屋の調査を依頼していたが、当時、板屋の親類である中津窪田の住民が長期入院中であったため、調査は立ち消えとなった。
その後、梼原町の九十九曲峠脱藩説が有力視されたことから、県教委もその説を採るようになった(脱藩古文書の写しが発見される昭和末まで)。
久万街道は松山街道同様、土佐から松山城下へ行く際や、三津浜港から長州へ脱藩する際、利用されていた道である。しかし松山街道ほどの大道ではない。
越知町広報紙平成24年12月号の「博物館だより」に当方の名と共に板屋のことが記されている。
(1) 鎌村熊太邸(美馬市美馬町坊僧231)
デ・ブ・ダ
文久2年2月下旬、関西を発った龍馬は丸亀港から琴平を訪れ、美馬君田から紹介状を渡され、熊太邸を訪ねた。そこで龍馬は国是七条の内容を聞き、それが後の船中八策の元になったという。熊太は前年秋、越前で七条策定者である横井小楠と会い、国是七条草案創りについて協力したとされる。
屋根裏に龍馬の隠し部屋、使用した番傘、掛敷布団、枕、携帯便器の残骸が残っている。見学申し込みについては四国ツーリズム創造機構
(←クリック)のサイトを。尚、クリック先が変更されていた場合は、創造機構の「サイトマップ」(右上)から「四国の龍馬スポットめぐり徳島編」をクリックのこと。
熊太邸の近所には龍馬を土佐まで道案内した佐藤兄弟、二人それぞれの家跡もある。
(2) 岡氏邸跡(つるぎ町貞光岡388)
デ・ブ・ダ
龍馬が熊太邸を訪問した際、熊太は隠
し部屋作りと提供する資金の調達のため、一両日ほど、龍馬に知人である岡家で過ごすよう、指示する。
一両日経って龍馬が岡家を発とうとした時、粉雪が舞っていたため、岡氏は龍馬に番傘を貸したという。それが鎌村家屋根裏に残る番傘である。
岡氏の主、長坂氏の先祖の長坂三郎左衛門は、元和元年(1615)5月11日、京都八幡で長宗我部盛親公を捕らえた功により、貞光岡他の土地を加増されている。長宗我部宗家を滅ぼした原因を作った人物である。
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