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速報!龍馬と交流した者の遺物を文学館に寄託

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[山口彦作の親類の漢詩人も龍馬と交流]幼少期の山口槃礀
当方ブログや事務所には毎年、記事で触れた歴史上の人物の子孫から連絡があるが、先週、龍馬の脱藩初日、レンゲ汁を馳走した佐川町斗賀野の山口彦作の親類、山口槃礀(ばんかん)の傍系子孫から事務所に電話があった。



以前触れたかも知れないが、山口槃礀(本名:正徳)は明治期、漢詩人として活躍した人物で、明治期に斗賀野から東京に移った。晩年は高知市鷹匠町に居住し、

漢詩誌「南海漁唱」を主宰していた。

奈良県斑鳩町に在住の槃礀の直系子孫からは2年ほど前、連絡があり、拙著「龍馬が辿った道」を購入したことは述べたが、今回連絡戴いた晩年の山口槃礀 のは槃礀の十男(槃礀には十男六女がいた)の孫で岡山市にある理系の大学の准教授。驚いたことに、鷹匠町の槃礀の屋敷は、十男が引き継いでおり、現在でもその子孫の帰省時の居宅として存在していたのである。勿論、戦後、邸宅は建て替えられており、敷地も縮小されている。



その准教授である山口氏が言うには、親戚が言っていたこととして、槃礀も龍馬と交流していた、というのである。ただ、「交流」という表現は正しくないかも知れない。

と、言うのは龍馬の脱藩時、槃礀はまだ
11歳か12歳の元服前の子供だったから親交があるはずはないのである。考えられるのは、慶応39月、龍馬の帰国時、龍馬からギヤマンの鏡を貰った土山口方介とその家族 居保(楠五郎)の孫のように、龍馬が脱藩時かそれ以前に斗賀野の彦作邸か槃礀の生家(当時の当主は方介)を訪れた際、槃礀と言葉を交わした、ということだろう。



槃礀の漢詩その他の紀行漢文には、田中光顕、西郷隆盛、楠木正成を始めとした勤王志士の名が多く登場する。これは槃礀の父・方介の影響が大きいだろう。拙著でも解説したが、佐川の土居付き家老、深尾氏は桂浜の龍馬像訪問の漢文 家中裁判権を巡って高岡郡奉行や吉田東洋と対立しており、そのため、東洋や藩の重鎮に対する反対勢力である土佐勤王党やそれを支持する家臣の勤王活動に理解を示していた。方介の親類の山口彦作の聟は葉山勤王党の片岡孫五郎でもある。脱藩以前にも、龍馬が彦作邸や方介邸を勤王活動で訪問した可能性は十分あるのである。



ところで、今回、山口氏が連絡してきた用件だが、槃礀自筆の漢詩その他の漢文、手紙や家系図、各種写真等を県民に広く知らしめ、各書簡の内容も解読した
い旨のようだった。それにはどこかの博物館に寄託するのが一番だが、歴史系博物館では槃礀の名を知る学芸員等はいないと思われるので、少々思案した。その結果、高知県立文学館なら興味を持つのではないかと思い、連絡してみると実際、興味を示し初代山口弥三郎から三代彦作 た。そこで山口氏に連絡し、当方が仲介するような形で
320日、山口氏と共に文学館に行き、槃礀資料一式の寄託契約が交わされたのである。



学芸員の方の話では、もし企画展を開催するなら再来年以降になり、常設展の一部に展示するようになれば、漢文解読後、しかるべき期日に行うという旨だった。館では拙著「龍馬が辿った道」も槃礀に関連する郷土文献という風に捉えていたので、快く寄贈した。そして槃礀の企画展開催時は、斗賀野の槃礀関南馬場跡からの山口邸の裏庭 連地の写真を提供させて貰う旨、学芸員に伝えた。



館を出た後、鷹匠町の山口邸に行き、敷地に残る槃礀時代の遺物を見せて戴いた。玄関前の蘇鉄は、槃礀が植えたものだと言う。裏庭の西の塀側には、槃礀時代の枯死して土くれになった梅の木が残っていた。

私有地なので詳しく確認できなかったが、東隣のM氏宅敷地内の東側にある家屋も、当地が山口氏の屋地だった頃のものだという。戦前の屋地は、西は高石パーキングから東は「ドミトリーすみれ」まであった大邸宅だったらしい。南山口槃礀が植えた蘇鉄 側の一段高くなった東西に長い地は藩の「南馬場」跡である。



余談だが槃礀は山口県下関市の陸軍下関要塞の司令官とも親交があったことが漢詩や写真で分かる。桂浜の龍馬像を訪れたことも漢文で記している。龍馬のことは「龍馬先生」と表現している。もしかすると資料の解読作業が進むと、歴史的発見があるかも知れない。



またまた余談だが、前述の土居保邸跡付近は、先月か先々月、大森山から蛸ノ森を縦走回遊する際通った。その山行では道路沿いにある石灰岩の無名の洞窟も見つけた。但し、蛸ノ森周辺にあると言われるかまぼこ型トーチカは発見するに至らなかった。蛸壺壕とトーチカとの間(あい)の子のような壕は’06年頃、見つけていたのだが。

山口槃礀が植えた梅の木 の山行では慶応4215日に起こった「堺事件」関係者の墓も複数巡ったが、山行記録は今週か来週、ヤマケイサイトに投稿予定。



今回の件とは別件だが、今年1月には、高知市春野町の荒倉神社神主関係者が拙宅を訪れ、神社周辺から仁淀川に到る龍馬が通った道筋(土佐西街道)について質問があった。その道筋周辺に龍馬の資料館を併設した龍馬の神社を建立したいとのことらしいが、土地取得が思うようにいかないということだった。



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