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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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吉田東洋暗殺謀議所は土佐勤王党結成地

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武市瑞山、吉田東洋、絵金らと交流した人物

龍馬伝放送時、ネットでも公開されていた(原資料は昭和期の土佐史談)ことだが、商一跡を東から 土佐勤王党の結成と吉田東洋暗殺(詳細は→吉田東洋・暗殺の事実 )の謀議が、香南市香我美町岸本の土佐東街道(阿波路)沿いにあった「支度処(飲食店のこと)・商一」で行われていた、ということがその主人の子孫に語り継がれている。この商一は拙著や当ブログで紹介した、龍馬が脱藩時に食事した津野町高野の旅籠同様、階段がいざという時は取っ払いできる構造になっていた。



商一を営んでいた和田家の初代・和田重助は同じ岸本村の栄徳屋の橋本家から分商一跡を北から 家し、絶家していた和田家を再興し、塩の元売りを行っていた。

重助は天保元年、没するが、二代・茂吉の頃、支度処を始めたという。


この商一に安政34月、武市瑞山(半平太)が西隣の赤岡村を訪れた際、滞在し、以後、山北や野市その他周辺の志士たちと交流を深めていったという。山北には吉田東洋を暗殺した三人の一人、安岡嘉助がおり、野市にはその三人の一人、大石団蔵がいる。徳永千規誌

赤岡の郡奉行所には瑞山の学問の師で後に藩の致道館教授になる徳永千規(ちのり)が勤務していたことから、瑞山は赤岡で剣術を地域の青年らに指導することもあった。



商一には瑞山や間崎滄浪が描いた書画がかつてあったというが、表座敷で土佐勤王党の面々が吉田東洋の暗殺の謀議を行っていた際の、各人の氏名や座していた配置図を記した紙もあったという。更にその東洋の借用証も存在していた。屋敷の建材と基礎の石材の代金で八十数両だったという。豪邸に住んでいた東洋が金に困る、ということは考えられないので、立て替えか何かだろう。



和田茂吉の次男に安次郎がおり、商一の母屋の小道を挟んだ西に邸宅を構え絵金が画房としていた蔵 ていたが、絵金・絵師金蔵こと弘瀬洞意が商一を利用していた縁で、狩野派の贋作を作って城下を追放された際、金蔵は親交のあった安次郎を頼って来て、二年ほど厄介になっていた。そして安次郎や四代・金三郎は金蔵のために、近隣の村々の商家や武家から絵描きの注文を取ってやっていたという。



逆に金三郎は明治初期、金蔵の口利きで、高知市の旅館に板前の見習いに入ったこともあった。そこで修行して一人前になった金三郎は岸本に帰って商一で料理をしていた。そんな折の明治7年、佐賀の乱の首謀者・江藤新平が甲浦で捕縛され、高知市へ護送中の42日、岸本の元郷士・畠中義明邸に宿泊した際、料理人として呼ばれ、新平や来客らのために豪勢な皿鉢料理を作って出した。その料理に新平はたいそう喜び、金三郎に礼状を送ったという。発起人・和田安次郎



商一は明治十年代後半、旅館へと業態を変え、屋号も佐田屋に改称された。が、家屋自体は初代重助時代のままで、間口11m、奥行き95mの敷地に、奥行き14mの土蔵造りの二階建ての旅館の母屋があり、中庭や築山を挟んで北側に別棟が複数棟と蔵が建ち、北端には畑が広がっていた。


安次郎の居宅の北側には金三郎の屋敷があり、金三郎邸の敷地の北端と、前述畑の北端との間の小径の入口には脇門があった。北の香宗川から陸揚げされた米や薪、その他物資等は大八車に載せられ、この脇門から運び込まれた。



そんな佐田屋は昭和7年、当時の入り婿の事業の失敗により破産。和田家の動産・不動産全てが競売にかけられた。谷干城や寺石正路からの手紙等も全て売却され安政地震碑 た。

そして昭和40年代に入り、香宗川の放水路開削工事によって周辺の土地は消滅した。

現在、佐田屋の具体的な跡地は、旧国道(土佐東街道跡)に架かる明神橋の中ほどから東寄りの、橋の北側の川面にあたる。



明神橋の南側の川面の中ほどには、安政59月、一つの碑が建てられた。そこは香宗川の放水路開削工事が始まるまでは、飛鳥神社の境内だった。その碑は安政の大地震を忘れないための教訓の碑で、碑文は地震の体験記「大地震覚書」を記した徳永千規による。裏面の連名された発起人の中には、和田安次郎の名もある。

碑は現在、飛鳥神社境内北東隅に移され、史跡指定されている。



余談だが、商一があった土佐東街道は過去、何度も述べてきたように、坂本龍馬が高松順蔵邸へ行く際、何度も歩い飛鳥神社の桜 た道。商一跡探訪時は時間があまりなかったせいで、明神橋から西の旧赤岡町の一部を足早に探訪したに過ぎないが、その探訪記は今月中に投稿したい。

因みに当日「時間があまりなかった」というのは、地元自治会の総会に出席するため。実は今年度、地区長に選出されているのである。だから今年は忙しくなる。



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