[正確な場所と周辺史跡]
坂本龍馬関連の伝承地の中で、有名なものでも跡地については番地等が曖昧で、大まかな場所しか分からないケースがある。その一つが兵庫県神戸市中央区三宮の海軍塾跡と海軍塾書生寮跡ではないだろうか。
前者については、ネットでも藩政期と現代の地図が添付され、跡地が図示されているケースもある。ただ、番地も正しく表記されているかと言えばそうでもない。
「中央区三宮町一丁目」と表記されているケースもあるが、それは間違いではないものの、100%正しいとも言えない。海軍塾跡地は、阪急三宮駅東端周辺からその北側にかけての地であることは、どの歴史研究家も認めるところではあるが、その跡地の地区としては、三宮町一丁目よりも北長狭通一丁目の方が占める面積の割合は多い。
正確な場所で言えば、北長狭通一丁目2番から1番にかけてと、三宮町一丁目2番である。現在(2011年時)の建物で言えば、さんきたアモーレ広場西の北長狭通一丁目2番の全ての区画(ステラ三宮[上の地図]からシマダビル)とその南の一方通行道路、更に南の阪急三宮駅東端と神戸阪急ビル東館の西半分位の地、そしてその南の線路を含んだ地である。
海軍塾の北沿いを東西に西国街道が走っていた。
この跡地の北方には藩政期の遺物もある。地蔵ビル角にある北向地蔵である。昔、フラワーロード(県道30号)の地を流れていた生田川が何日も降り続く大雨で堤が決壊しそうになった時の逸話。
村人は風雨の中、必死に堤に土嚢を積んだ後、疲れ果てて作業小屋に帰った。その後、その土嚢に流木が引っかかり、堤が決壊しそうになったが、誰も疲労で立ち上がることができなかった。そんな折、風雨の中、堤の方から何かを引きずって川へ沈める音がした。
翌朝、村人が起きてその流木が引っかかっていた地に向かうと、流木はなくなっており、それによって崩れそうになっていた堤の箇所は大きな石が置かれて修復されており、堤の上に見たこともない地蔵が座っていたという。
村人らはこの地蔵が決壊を防いでくれたものと思い、川の西岸の堤上に「北向地蔵」として祭った。
地蔵の隣には「八部 菟原 両郡界生田川」という郡界碑も建っているが、これは明治初期に建立されたもの。八部郡と菟原郡の郡界が旧生田川だったことを示す。当初は旧生田川の堤にあったが、近代、北野川沿いに移設され、更に平成初期、北野川が暗渠になったことにより、現在地へ移された。
次回、龍馬らが宿舎としていた海軍塾書生寮跡と周辺の関連史跡を紹介予定だが、これらを探訪時、丸一日かけて源平や幕末史跡を回遊して巡った。独自設定のそれらの史跡回遊探訪コースを紹介した方がいいかも知れないが、各種文献・資料を見返すのが面倒。
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