≪子孫の枕元に立った奇兵隊士の霊≫
明治のある夜、下関市在住の藤井氏は不思議な夢を見た。
夢の中には、物悲しそうな若い男が現れ、自分は先祖だと言う。そして次のことを語った。
「有明山(戦前、大歳神社があった山)の下の海に私の墓が沈んでいる。こ
のままでは安らかに眠ることができない。よって、何とかしかるべき場所に祭って貰いたい。」と。
明くる朝、目覚めた藤井氏は、早速夢で告げられた海岸沿いの海底を探した。すると、墓碑表面に「長陽義民居子」と、法名が刻字された墓が発見されたのである。
それを陸揚げし、水で洗ってみると裏面に俗名も刻まれていた。そこには「奈良屋源兵衛」と記されていたのである。そう、教法寺事件の折、撰鋒隊に拉致されて拷問死した、白石正一郎邸の人夫で奇兵隊輜重小使だった人物である。
そこで藤井氏は長府の功山寺の自家墓所に手厚く祭った。
時は流れて昭和46年。その年、市内吉田の高杉晋作の墓前では、晋作105年祭が執り行われたが、これを執り行うにあたって、墓守の東行庵主谷玉仙尼は、墓所の清水山を大々的に造成し、各地に散逸していた奇兵隊士の墓を集め、供養した。
105年祭以降も玉仙尼は広く呼びかけ、他の隊士の墓も移転させるようにした。
そして昭和55年1月、源兵衛の墓を祭った藤井氏の孫、藤井郁子氏もこの運動に賛同し、源兵衛の墓を清水山墓所に移したのである。
源兵衛の墓は墓地の上から二段目の右端から四基目にある。
藩、いや、日本のため、維新を切り開いた奇兵隊その他諸隊。しかし明治期、彼らは悲劇的結末を迎え、多大な犠牲を払うはめになってしまう。
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