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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(6)

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≪坂本龍馬の御手洗滞在所≫

若胡子屋の斜め向かいが先般より触れている、龍馬がいろは丸衝突沈没事故の件で紀州藩と長崎で交渉すべく、瀬戸内海を船で西進している際、潮待ちで宿泊した金子邸で、屋号を三笠屋という。庄屋でもあった。



鳥取藩士、河田左久馬の書簡に、慶応3430日、潮待ちで御手洗に滞在していたら、偶然、龍馬も上陸し、談笑した旨、記されている。

龍馬はこの後出港すると下関に寄り、三吉慎蔵に、自分に万が一のことがあれば、お龍を土佐におくり届けて欲しい旨、依頼している。つまり、龍馬は紀州藩関係者に暗殺されるかも知れないと思っていたのである。



いろは丸事故についてはこの後、龍馬自然、戦跡、ときどき龍馬-金子邸 ら海援隊側に有利な措置が取られたが、龍馬が京で暗殺された後、慎蔵は奇しくも前述の約束(=龍馬の遺言)を果たし、お龍を土佐へ送り届けることになる。



この金子邸では、龍馬が暗殺されてから11日後、御手洗港で合流した長州藩軍と広島藩軍による御手洗条約が締結されている。長州軍には当然、奇兵隊と第二奇兵隊が含まれている。締結の翌朝、長芸自然、戦跡、ときどき龍馬-天満宮アニメ画 連合艦隊は倒幕のため、出港して京へ向かった。

余談だが、近代、金子家当主は御手洗郵便局長を務めていた。当時の郵便局は金子邸の裏手、現在のJA広島豊御手洗支所の地にあった。



ここの金子家か大長の金子一族かは分からないが、関 西の某大学の金子教授はその子孫である可能性がある。本人は論文で自分は広島県の離島の出身で、伊予の金子備後守の子孫であると述べていた。三笠屋の金子氏と大長の金子一族が備後守の末裔であることは、島の郷土文献で確認している。


が、この前触れた、龍馬に資金援助を行って自然、戦跡、ときどき龍馬-天満宮参道 いた金子氏は大崎下島の系統の金子一族ではない。

今日、戦前に発行された全国の金子一族に関する古書を注文したが、それに記述されていれば助かる。



金子邸の南西の道路向かいにあるのが、「ももへの手紙」に描かれていた天満神社。ももが、サンダルが脱げながら走って参道を逃げていた。それを追う妖怪の一人は、鳥居をくぐらず、玉垣を乗り越えてももを追っかけていた。新興宗教団体の中にも、鳥居をくぐってはならない、という思想を持つものがあるが、そういう輩は妖怪並の心根なのだろう。



参道脇には菅原道真公の巨大な歌碑自然、戦跡、ときどき龍馬-菅公の碑解説板 建立されているが、この碑と碑の解説板も描かれていたと思う。

本殿右横には、道真公が大宰府に向かう折、潮待ちで御手洗に滞在していた際、手を洗った「菅公の井戸」がある。この井戸は元々あったのではなく、菅公が持っていた笏で地面を掘ったところ、清水が湧き出たのだという。それが「御手洗」の地名の由来である。



本殿下は通路になっており、これを「可能門」という。願い事を一つだけ唱えながらここをくぐれば、それが叶うという。大崎下島随一のパワースポットだろう。

菅公の井戸から可能門を抜け、そのまま北上して道路に出れば、神社境内を回遊したことになる。

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愛媛県最大の石灰洞穴・羅漢穴

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≪大石柱と洞内V字峡的景観≫自然、戦跡、ときどき龍馬-入口全景

愛媛県最大の石灰鍾乳洞「小屋の羅漢穴」は、四国カルストの人気観光スポット、大野ヶ原の数キロ西方にあるため、照明設備はなくとも、休日には家族連れやカップルも訪れる。

洞の全長は388mだが、ケイビング熟達者のみが入れる支洞も含めると550mに達する。

また、標高720m地点に位置しているため、通常の洞窟より気温が低く、夏場でもヤッケやウィンド・ブレーカーがないと寒い。



一般観光客は、四国カルストを散策及びハイキング後、そのカルストの尾根上自然、戦跡、ときどき龍馬-凸凹地面に縦長通路 を走る県道383号を西進して県道36号に出て、羅漢穴に行っているものと思うが、羅漢穴のみを目当てに行く場合、道幅が広い道路、つまりドライブし易いルート としては、国道197号で高知・愛媛県境の高研トンネルの西方(鬼北町)まで行き、そこから大規模林道・東津野・城川線(高知県側の入口は現在通行止)を北上、龍馬の脱藩峠「韮ケ峠」まで行き、そこから県道36号に下るルートがお勧め。


因みに私は仁淀川町に用事があったため、国道33号から国道440号を経由し、県道36号に入った。このルートでは幅員が狭い36号を走る距離が長くなるため、お勧めできない。ちんたら走る車が自然、戦跡、ときどき龍馬-右洞の行き止まり 多いため、いらつき度はMAXとなる。



韮ケ峠から700mほど北上し、ヘアピンカーブの三差路を前方左に入る。左ヘアピンカーブを過ぎて数百メートル西進すると、右に折り返す矢印表示の羅漢穴道標があるが、その右に下りる道路は更に幅員が狭く、車の退避所 もないため、県自然、戦跡、ときどき龍馬-分岐点の石柱 道をもう少し進んだ所にある道標から歩道を下った方が良い。



洞穴入口には案内図板が設置されている。入口から少し先までは天井が低く、背をかがめないと進めないが、ほどなく広い通路に出て、天井も高くなる。ここは帰路、少々迷う場合が多いが、焦るほどではない。自然、戦跡、ときどき龍馬-壁面と同化する石柱



入口より約120メートル、正面の壁面に張り付いた石柱があるが、ここで洞は左右に分かれる。まずは「右洞」を往復されたい。氷柱石や石筍はあまりないものの、兎に角洞が大きいため、それなりの迫力がある。壁面には、くじらのように長く伸びた生成物もある。

地面に開く直径数センチから10自然、戦跡、ときどき龍馬-V字峡的通路 ンチ未満の穴は、天井からの水滴によって抉られた痕である。

壁面に浮き出た毛細血管のような模様 は、石灰成分と泥からできる二次生成物で、「バーミキュレーション」という。



写真ではその規模が分かり辛いが、涸れ沢のV字峡のように通路が狭く、両壁面が切り立った箇所もある(「左洞」だったかも)。

分岐から80mで風穴という箇所に達し、最奥部は落盤と土砂で行き止まりになっている。


分岐点まで引き返すと「左洞」を進む。地面は泥状態で、ぬちゃぬちゃと気持ち 悪い。所々グアノ(堆積したコウモリの糞)も見られる。しかしこの「左洞」に最大自然、戦跡、ときどき龍馬-大石柱 の見所がある。通路の左寄りにある「大石柱」という、天井から地面まで達した石柱で、高さは2メートル半位ある。

洞はほどなく右急カーブ後、再び直進し、一の池、二の池、三の池という風にプールが連続するようだが、地面の泥の状態がひどく、最奥地点まで行く気にならなかった。



帰路、入口近くまで戻ると、洞内に大量に水が流れ込む音がする。激しい雷雨になっていたのである。しばらく入口付自然、戦跡、ときどき龍馬-きのこの石づきのような石柱 近で小雨になるのを待っていたが、背後からの冷気が強く、風邪をひきそうになったため、仕方なく雨の中、車まで戻った。



GW以降、洞穴探訪は殆ど行っていなか ったが、やはり夏場は気持ちいい。また、この羅漢穴のように、ある程度整備された洞穴以外は、ネットで公開されているケースが極めて少ないことから、洞穴探訪の再開を考えている。


しかし四国各県の新聞社が発行している万能地図には多くの洞穴が記載されているのに、鉱山や隧道マニアたちは探訪していないのだろうか。それとも探訪していても、ネットに公開していないのだろうか。

四国の洞穴をどんどん公開してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

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解明!坂本龍馬の新たな支援者宅

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≪天正の陣での悲劇のヒーロー子孫≫

先日述べた、金子一族に関する古書が今日(金曜)届いたので、夕方から深夜0時まで、食事をするのも忘れ、その古書の内容と、当方所蔵の各文献との照らし合わせ作業を行っていた。



その結果、藩政期の高知城下家中図に於いて、坂本龍馬に活動資金を援助していた人物の邸宅と、その人物の高知に於ける初代先祖の屋敷を特定することができた。

その龍馬を支援していた人物とは、戦国時代、伊予・天正の陣で最も勇敢に戦って散った金子備後守元宅(もといえ)の長男・専太郎から数えて十二代目当主(実際に当主になったのは明治3)、金子鎰十郎家教。



備後守は秀吉の四国征伐の小早川軍との戦について、勝つ見込がないことは分かっていたが、長宗我部元親との「絆」を重んじ、同盟を組んでいた近隣城主たちと一丸になって戦い、皆、悉く討死した。


備後守には四男一女がいたが、皆、元親を頼って土佐へと逃れた。長男の幼名が自然、戦跡、ときどき龍馬-二代当主・金子傳十郎久宅邸 専太郎だが、専太郎だけは幼少時、人質として元親の元へ送られていた。が、元親と備後守は「絆」で結ばれていたこともあり、元親は専太郎をたいそう可愛がったという。

長女・かね姫は家臣に守られて専太郎を頼って、元親の元へと落ち延びて行った。



専太郎は元服すると金子弥右衛門宅明と名乗った。長宗我部氏の時代から山内氏時代へ移り、正保元年(1644)頃、宅明は30石、五人扶持で山内家に仕えることとなる。一方かね姫も山内家奥女中として仕えた。

かね姫は任を辞してからは宅明と共に金子橋東袂から東へ二軒目の屋敷で暮らし、晩年を送った。その橋はかね姫が所望して架橋されたという。架橋以来、その一帯の地名を「金子橋」と呼ぶようになった。



二代目傳十郎久宅は300石で馬廻に昇進する。幕末期は概ね200石~300石前後で推移している。六代目か七代目頃、鏡川沿いに転居するが、居住していた屋敷跡の西半分の家地に、自由民権家として知られる馬場辰猪の先祖自然、戦跡、ときどき龍馬-十一代当主・金子驥之助邸 が移住してきている。

金子家は八代か九代目頃、更に転居し、帯屋町東端近くに移る。

十二代家教は勤王の志があったようで、龍馬以外の勤王志士にも活動資金を支援していたという。



家教は明治23年、東京に出ている。平成の直系子孫は埼玉県大宮市在住。龍馬との交流のことは代々子孫に口伝されてきたことである。また、古文書類「金子文書」も伝わっている。

金子氏の当初の屋敷跡は大体、現在の住宅地図でほぼ場所は確定済。二度目の転居先、つまり龍馬が幾度となく訪れていた屋敷跡も、明治から昭和中期までの各種地図で調べれば、大体の大まかな場所は分かるだろう。現地へはこの日曜に訪れる予定。



尚、二枚目の絵図写真では「金子藤之助」となっているが、これは絵図冊子「高知城下町読本」の編者である土佐史談会と高知市教委が、原図を見誤ったものであり、正しくは第十一代当主・金子驥()之助宅長である。そこが家教邸である。

その北に二軒目の小倉六右衛門宅は、よさこいのお馬が奉公していた屋敷。金子邸から北西にある吉田元吉は吉田東洋のこと。西端にある南会所には武市瑞山が切腹した牢屋があった。その南東の端にある乾退助は板垣退助のこと。

日曜夜、是非両方の屋敷跡写真をアップしてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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坂本龍馬新史跡・金子家教邸跡

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≪坂本龍馬を援助した戦国武将末裔≫

一昨日触れたように今日(日曜)の雨降る自然、戦跡、ときどき龍馬-馬場辰猪誕生地碑 中、坂本龍馬に活動資金を援助していた、金子備後守の末裔「土佐金子家」十二代金子鎰十郎家教(いえのり→藩政期は「宅教」)の邸宅跡と、初代・金子弥右衛門宅明の邸宅跡を確認してきた。



まず向かったのは宅明邸跡。跡地の一角には、金子氏が転居した後に移転してきた馬場家の藩政期最後の当主で、明治期の自由民権家・馬場辰猪氏保の誕生地碑が建立されているからすぐ分かる。高知市升形の称名寺の道路を挟んだ南東。

自然、戦跡、ときどき龍馬-金子家の最初の居住地跡


私はその西の交差点を南下した路肩に駐車した。以前投稿したように、その東側の路肩は日曜と祝日の720時は駐車していいことになっている。但し、今日(日曜)は雨天だったこともあり、駐車台数が多く、スペースは一台分しか空いてなかった。



ただ、昨日も述べたように、馬場邸敷自然、戦跡、ときどき龍馬-金子橋跡 地は金子邸家地の西半分に過ぎない。金子邸跡の正確な跡地は、道路沿いでは辰猪碑が建っている称名寺駐車場から東の川島アパートまでと、奥は川島家の敷地全てと、高知市立第六小学校敷地にも若干かかっている。


ここに初代宅明が正保元年(1644)に移住し、五代傳十郎宅晴まで、享保年間後期まで居住していた。金子家が鏡川沿い自然、戦跡、ときどき龍馬-金子橋秋葉神社 の錦川町に移転した理由は、一説には享保12(1727)の「高知大火」によって城下の大半が焼失してしまったため、大規模な屋敷替えが実施されたからだと言われている。



跡地から西に7軒ほど過ぎた所の前述の交差点が、宅明の姉・かね姫の希望によって架橋された金子橋跡。南北に流れていた堀は、今では細い水路に変貌し、そこの暗渠部に橋の面影を感じ取るしかない。その堀沿いの日曜祝日駐車可の道路沿いには秋葉神社の祠がある。高知城下にはこの社の祠が多いが、秋葉神社は火除けの神であるので、前述の高知大火後に各地に勧請されたことが推察される。



余談だが、堀跡水路の南端三叉路を東に折自然、戦跡、ときどき龍馬-南馬場跡 れ、変形五差路から南東に上がる歩道を辿れば、鏡川堤防沿いに樹林帯がある。現在、樹林帯は忠霊塔の手前で終わっているが、昔は柳原橋袂付近まで続いていた。その細長い地は藩政期の「南馬場」跡である。



ここから龍馬が頻繁に訪れていた家教邸(金子家の二度目の転居先)跡までは遠いが、高知城界隈の日曜祝日駐車可の道路が全て満車になっている可能性があるため、そのまま東方へ歩い自然、戦跡、ときどき龍馬-金子家教邸跡を南側から て行った。


家教邸跡は高知市の中心街のため、昔と土地区画が大きく変わっているため、大体の跡地位しか判明しない。その同定のポイントは二つの堀の交差部である。藩政期は、複数の堀が新京極プラザの地で合流していた。家教邸跡は南北の堀と、現在のはりまや橋公園の前身の堀が合流していた地点から少し距離をおいた西側、道に北面して屋敷が建っていた。


その地は中央公園北口から西の帯屋町ア自然、戦跡、ときどき龍馬-金子家教邸跡を北側から ーケード内の二、三軒目の店舗にかけての地である。家教子孫が在住している埼玉県の郷土文献では、家教と龍馬は親友だったと記述されている。当時、家教はまだ当主ではなく、跡継ぎだったため、龍馬の革新的な考え、若しくは尊皇攘夷思想に共感していたのかも知れない。



但し、家教は東京に転居する明治23自然、戦跡、ときどき龍馬-十三代金子家美氏 まで、ここに居住していたのではない。家教が売却した古文書の一つが東京大学に収蔵されているのだが、その売却年が明治21年で、家教の住所は本与力町となっている。その町は金子家の最初の移転先、錦川町の南に隣接している。


中央公園界隈は明治中後期から近代化の波が押し寄せてくるが、家教も土地開発で立ち退いたのかも知れない。明治以降、この帯屋町周辺一帯は高知随一の繁華街となっていくが、それは今でも変わらない。



家教の祖父の墓は薊野地区の墓地山にあるらしいが、膨大な墓石群の中から探し出すのは至難。折を見て、少しずつ確認作業を進めていきたい。龍馬の生家跡を大正期、購入したと言われる金子家傍系子孫(近年、高知の史家がその購入について異論を唱えた)の墓は分かり易い所にあるのだが。

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四国最大級の民間防空壕と陸軍通信壕跡

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200人収容の巨大コンクリート壕≫自然、戦跡、ときどき龍馬-壕入口
民間の防空壕と言えば素掘りの簡素なものが普通だが、愛媛県八幡浜市幸町には四国最大級、収容人員200人、便所、洗面台装備のコの字型コンクリート壕がある。昭和162月に竣工した「八幡浜第一防空壕自然、戦跡、ときどき龍馬-壕内通路 である。



九州から呉海軍工廠方面へ飛行する米軍機が、そのルート上に位置する八幡浜市街地上空を通過時、機銃掃射することがあったことから、昭和15年、地元の篤志家が防空壕施工費を寄付し、警防団と八幡浜警察署特高係が建設を指導、在日朝鮮人が強制加入させられていた協和会八幡浜支部が工事を強制奉仕(朝鮮人強制労働)させられた。

が、あまり壕が利用されることはなく、病院の薬品保管庫として利用されていたという。自然、戦跡、ときどき龍馬-広間



戦後、この防空壕は人々の記憶から忘れ去られていたのだが、’01年、壕の前にあった貝ボタン工場が取り壊され、再び陽の目を見ることとなった。その後、地元有志たちが壕内を整備、自費で扉を付け、電気も引き込み、照明設備を設け、見学の便を図った。「えひめ博」開催時は相当数の見学者が来訪したという。自然、戦跡、ときどき龍馬-壕出口



壕の出入口の内、どちらが入口でどちらが出口だったかは忘れたが(見学人数が多い場合は一方通行)、西側壕口から入った所に奥行き10m、幅4m、高さ2mの御真影(天皇・皇后両陛下の写真)奉安所を擁する広間がある。

見学は事前予約が必要。連絡は市内の三ヶ所のいず自然、戦跡、ときどき龍馬-天性庵 れかへ。その三ヶ所は此上製あん所、尾崎てんぷら店、柿本農機具店。



壕前の道を北上して行き、突き当たりを東へ上がった所にある天性庵には、陸軍が駐留していた。資料が散逸しているため、具体的な部隊名や上位組織名は忘れたが、航空通信隊で自然、戦跡、ときどき龍馬-通信壕跡 ある。



20数人の若い兵士が宿舎として利用し、本堂裏のコンクリート壕で通信業務を行っていた。現在、壕の出入口は埋められているが、外観は貯水槽のようである。

庵には部隊で使用されていた、俗に言う「軍人精神注入棒」が残されている。海軍で言うところのバッターである。この棒で下士官たちはことあるごとに、尻自然、戦跡、ときどき龍馬-軍人精神注入棒 を叩かれていた。



当時の住職は夏場、壕内や本堂、境内で兵士が蚊を叩いていると、「蚊も一つの命だから殺してはならん」と言っていたという。明治42年創始の小さな庵だが、戒律は厳しかったようである。

住職は特に失敗をした訳でもないのに、尻を腫れあがるほど叩かれる下士官の様をどのような思いで見ていたのだろうか。



PS:最近は体調がすぐれないため、長文や資料の見直しを要する記事は投稿できません。

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ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(7)

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≪伊能忠敬の測量時の宿所≫

天満神社参道口に戻ると、北西のY字路を歩道の方へ右折する。この道は三軒過ぎると十字路に出る。ここから西方の後述する旧柴屋住宅までは、よく観光ガイド書等の写真で写る場所であり、道の両側には旧家がずらっと並んでいる。もしかしたら「ももへの手紙」や「旅の贈りもの」にも一部、登場したかも知れない。



十字路北東隅の北川家住宅(醤油醸造所とは別家)は、入自然、戦跡、ときどき龍馬-ももへの手紙にも描かれた空気弁天蓋 母屋造本瓦葺、妻入りの町屋。表側の部分は宝暦9(1759)の大火直後の建設で、それ以外の大半は藩政時代後期、奥座敷は明治後期の建築。



その西向かいの高田家住宅は安永6(1777)建築の町屋。その西隣が、豊町観光協会が入る潮待ち館。この建物は近代のものか。観光協会は電話では驚くほどの無愛想だったが、実際に訪ねると自然、戦跡、ときどき龍馬-正面に柴屋 愛想は悪くなかった。営業の仕事をしていた時も、このような経験は何度かあった。

館内では島の特産品が販売されているが、ももの家のモデルとなった飛彈家住宅が記載された史跡パンフレットも置いている。



潮待ち館の対角線にある川崎家住宅は天保年間(183044)の建築。主屋と蔵が連続した珍しい構造。

その二軒西の突き当たりにある旧柴屋住宅(菊本家住宅)は、文化3(1806)230日より33日まで、伊能忠敬がとびしま自然、戦跡、ときどき龍馬-柴屋住宅内 海道の各島を測量時、滞在した旧柴屋本宅。柴屋の高橋家は御手洗の初代町年寄で、文化7年には、広島藩8代藩主・浅野斎賢公の本陣にもなっていた。当時は東隣の家や南向かいの家、前述の川崎家も家地だった。



しかし高橋氏は文化6年に大崎上島で開始した製塩業が失敗、家屋は全て差し押さえられ、没落した。

屋敷は幕末、大長出身の菊本伝助が買い取り、米問屋を営み、大正期は船具・金物店に転じ、昭和50年代後期まで続いた。


現在の家屋は文化年間初期位の建物で、自然、戦跡、ときどき龍馬-子連れ狼休憩中 奥座敷は藩政時代後期に増築されている。内部は資料館のようになっており、近代の生活道具等が展示され、無料で見学できる。

蔵のような建物は伊能忠敬のミニ資料館になっており、藩政期から近代の測量関係の道具等が展示されている。



柴屋西隣の今崎家住宅18世紀前半の町屋。切妻造平入りで本瓦葺屋根の厨子二階をもった二軒長屋。

今崎家西の三差路は右折し、一軒過ぎた先の三差路も右折して海岸沿いの県道に出るとまた右折する。そこからほどなくして、「ももへの手紙」や「旅の贈りもの」で描かれた風景が広がってくる。

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歴代シングル曲ベスト10・アニメソング編PART2

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久方ぶりの第二弾だが、まだまだアニソンの名曲はある。

10位「海のトリトン」秀夕木(ヒデ夕樹)

‘70年代半ば頃の、手塚治虫原作の海洋冒険テレビアニメの主題歌。言葉をしゃべるイルカに乗った少年が繰り広げる物語だが、あまりにも古いため、内容は覚えていない。

曲の作りは誰もが、「サビへの導入部が早いのでは?」と思う構成だが、歌謡曲に若干クラシック要素が加わっている、と言えるかも。歌手は日立CM「この木なんの木」で有名。
ヒデタ樹 スーパー・ベスト~海のトリトン/人造人間キカイダー~



9位「ヘヴィ・メタル」ドン・フェルダー

‘80年代前半、全米で公開された同名劇場アニメの主題歌。日本での映画館公開はなかった。アニメの内容は具体的には覚えていないが、地球外生命体が地球の乗っ取りを企てるような内容だったかも。曲はヘヴィメタルではなく、普通の聴き易いロック。アーティストはご存知、イーグルスのメンバーで「ホテル・カリフォルニア」の作曲者。
Heavy Metal: Music From The Motion Picture



8位「まかせて!チン・トン・シャン」田村英里子

これはかつて元気が出る曲シリーズで解説した、「少年アシベ」の二代目主題歌。ノリノリのJポップ。アニメのように、ゴマフアザラシの子供をおんぶしてみたい。

田村英里子 ゴールデン☆ベスト



7位「逆転タイフーン」早坂好恵

この曲も元気が出る曲編か女性アイドル編で紹介した。’91年のNHKアニメ「秘密の花園」主題歌。元気はつらつアイドルがはっちゃけて歌う。
Myこれ!クション 早坂好恵 BEST



6位「横倉の風」新屋まり

‘08年の高知放送テレビアニメ「土佐むかし話」スペシャル『安徳帝四国潜幸説』エンディングテーマ。アニメは安徳帝が屋島から越知町の横倉山に潜幸し、生涯を終えるまでを紙芝居風に描いたもの。安徳帝伝説紹介番組とセットでDVD化され、越知町中心部の喫茶店で販売されている。

アーティストの声は中島みゆきに似ており、歌謡のこぶしも効いているニューミュージック歌謡。アルバム購入はアーティストのホームページへ。シングルは越知町観光協会へ。



5位「君をのせて」井上あずみ

ご存知『天空の城ラピュタ』の主題歌故、説明不要。



4位「少年ケニヤ」渡辺典子

この曲も以前触れた。’80年代前半の同名劇場アニメの主題歌。原作は’51年から5年間産経新聞に連載されていた。終戦後、親と離れ離れになったなった日本の商社マンの息子がケニアの部族に育てられ、成長していく。監督は大林宣彦。ケニヤの大地で繰り広げられる愛と勇気の物語を、宇崎竜童の音楽性と渡辺典子の透明感ある歌声で表現している。
渡辺典子 ベスト



3位「風になる」つじあやの

ご存知「猫の恩返し」の主題歌だから説明不要。



2位「異次元ストーリー」ポプラ

‘80年代前半のテレビアニメ「夢戦士ウイングマン」の主題歌。アニメは俗悪アニメの部類に入ると思うが、曲はニューミュージックにソウルフル・マインドを加味した感じ。ボーカルもハスキー。
〈ANIMEX 1200シリーズ〉(14) 夢戦士ウイングマン 音楽集



1位「夏のしずく」大山百合香

この曲も以前紹介した。劇場アニメ「河童のクゥと夏休み」主題歌。アニメのエンドロールに流れることで初めて、物語の余韻と共に曲の良さが伝わってくる。まるで草原に吹くそよ風のよう。
海の青~Singles And More~(DVD付)



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去年、坂本龍馬脱藩の峠に碑と共に設置されたもの

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≪記念撮影に最適≫

先日述べたように、西予市の羅漢穴から自然、戦跡、ときどき龍馬-韮ケ峠に建立された碑 の帰路、坂本龍馬脱藩の道・韮ケ峠を通って大規模林道を南下した。

峠に寄り、去年の龍馬脱藩150周年記念の一環で建立された碑を確認したのだが、他にも峠には新たなものが建てられていた。


それは最も有名な龍馬の写真に写っている「肘置き台」。但し、屋外のため、木製では腐るから石造になっている。形状等は本物に近いのではないだろうか。故にコスプレ記念撮影に最適。自然、戦跡、ときどき龍馬-碑の裏面

また、二基の簡易トイレも設置されていた。が、「簡易」なだけに、女性の使用に耐え得るか否かは分からない。


しかし元々峠には自治体が建てた木製の門柱を模したモニュメントがあるのだから、できれば未整備の史跡・伝承地へ解説碑や案内板を設置して欲しかった。龍馬を松ケ峠番所まで案内した中岡利吉邸跡や、吉村虎太郎が脱藩前、近隣の土佐勤王党員らと共に別れの宴を開いた市吉屋跡(拙著「龍馬が辿った道」に掲載)等である。


また、話は変わるが、以前、高岡郡内の自自然、戦跡、ときどき龍馬-記念撮影用肘置き台 治体が共同で世界ジオ・パーク登録申請を目指していることを述べた。越知町の横倉山や津野町の天狗高原等の四国カルスト等である。そこで是非再整備して貰いたいのが、以前少し触れた、地表に出た、洞窟を持たない鍾乳石群のある梼原町の自然公園「丸野公園」である。


9年前の登山講師を行っていた時、受講生を案内したのだが、その時は遊歩道や道標は整備されていた。だが、3年ほど前、再び行った時は、下の登山口と上の登山口、双方の登山道が廃道化し、園内の看板の文字も消えていた。洞窟を持たない鍾乳石群は全国的にも珍しいので、是非とも再整備を望む。


尚、下の登山口に建てられている丸野公園の案内板にある「洞穴」とは、丸野洞のことかも知れない。高知大学学術探検部の記録では、全長50mとなっている。同部は本来、高知県随一の洞穴のエキスパートなのだが、数年前、杜撰な調査管理体制により、部員が岡山県内の洞穴で溺死的行方不明(皆の目の前で地底湖に沈んだ)となり、その事後対応についても全国から非難が浴びせられた。そのため、同部はネットから「消えた」。


あの時、大学の学務課や顧問の教授等が探検部に対して、逃げずに「大人の対応」を取るように諭していれば、同部の「疵」は比較的浅く済んだのに、残念な限りである。会社等が重大な事故を起こした時、同部のような対応を取れば、間違いなく倒産する。同部は是非、「禊」をした後、ネットに戻ってきてほしい。

廃道を藪漕ぎして丸野公園内鍾乳石の写真を撮り、記事を投稿してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

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ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(8)

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≪女優とのキスシーンがNGの徳永英明≫

海岸沿いの県道を東に進んだ最初の三差路を右折した右角、「仕出し村吉」は、「旅の贈りもの」で太平シローと若い鉄道マニアが泊まった旅館として撮影されたが、実際、かつて旅館(木村旅館)だった。シローが泊まった(設定)部屋は二階北側の路地沿いの部屋。



しかしながら、シローが近年早逝したの自然、戦跡、ときどき龍馬-木村旅館跡 は惜しまれる。漫才は天才的で物真似(裸の大将等)やコント、何をしても面白かった。また、「男らしさ」もあった。サブローと二人で吉本をやめた後、仕事がなく、サブローは吉本に土下座して再所属したが、シローはそれを潔しとせず、己の信念を貫いた。全国放送でシローを見る機会は殆どなかったが、何をしていたのだろうか。ただ、映画での演技は上手くない。



村吉の東向かいの家は、歴史的景観を活かした島の活性化を推進した郷土史家、故・木村吉聡氏宅。ただ単に歴史を研究するのではなく、それを活かした地域づくりが大事だということを、龍馬研究家を始め、歴史研究家、学芸員たちは学んで戴きたい。自然、戦跡、ときどき龍馬-御手洗港付近の絵



県道に戻るとすぐ東に御手洗港の赤い桟橋が見えている。その前辺りは「ももへの手紙」で、ももが妖怪に追い掛け回された挙句、陽太に助けられ、陽太がももに「島ん中で道に迷ったら海を探すんじゃ。」と言った場所。



そこから右手に三軒ほど過ぎると「江戸みなとまち展示館」があるので、島の歴史を学ぶことができる。但し、職員がいないので、入館料(200円ほどだった)は玄関の料金箱へ。一応監自然、戦跡、ときどき龍馬-御手洗港桟橋 視カメラあり。


展示コーナーは「交易」、「交遊」、「交歓」の三つのテーマに分けて紹介されている。交易は主に北前船に関すること、交遊は遊郭その他歓楽に関すること、交歓はシーボルトや伊能忠敬、吉田松陰、坂本龍馬等、来島した歴史上の人物に纏わること。



展示物では、薩摩や大洲藩等の船旗や藩政期の富くじ箱、おちょろ舟の大型模型、琉球使節団奉納の掛け軸等があるが、あまり観光客の姿は見かけない。



展示館の南裏手には昭和12年から40年頃自然、戦跡、ときどき龍馬-蛭子雁木 まで、映画館や劇場として使用されていた乙女座がある。「旅の贈りもの」で櫻井淳子が古い映画ポスターを眺めながら、猫をなでるシーン等が撮影された。尚、館名は建設当時の町長の母の名「とめ」に因んだもの。現在の建物は平成14年に復元されたもの。



乙女座から県道に戻り、東進を再開すると、蛭子神社の鳥居があり、その県道を挟んだ向かいには藩政期の船着き場「蛭子雁木」がある。「旅の贈りもの」ではこの雁木に徳永英明と櫻井淳子が腰を掛け、スイカを食べた。

この雁木は正徳・享保年間(171136)に築造されたもので、広島藩主が領内の島嶼部視察の折、ここから上陸した記録がある。



余談だが、映画後半の徳永と櫻井のキスシーンは、実際には唇を触れておらず、顔さえ近づけていない。徳永は女優と接吻するのが怖いのだろうか。

そんな恥ずかしがり屋(?)の徳永英明のロケ地はまだ複数あるが、それは次回。

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小豆島の戦跡、閻魔像、洞穴の文献調査開始

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すぐに探訪する訳ではないが、現在、小豆島について文献調査を進めている。同島には陸海軍の戦争遺跡や複数の閻魔王像、洞穴、岩屋群があるからである。


戦跡愛好家ならご存知だと思うが、島には海軍の小豆島突撃隊が進出しており、特攻潜航艇・蛟龍が配備され、付近の山中に壕や隧道が掘られていた。6~7本位の壕の場所は地図上で確認済。


一方、拙著「四国の鉄道廃線ハイキング」の下津井電鉄の項で触れた、陸軍暁部隊の一隊も突撃隊が進出する前年、島に進出し、基地や高射砲台を築造していた。跡は残っているかどうか分からないが、高射砲陣地跡の大体の位置も地図上で比定している。


閻魔王像も最低三ケ所の寺にあることが分かった。「島四国(霊場八十八ヶ所)」の寺院である。

その小豆島八十八ヶ所では、岩屋や洞穴に仏像を祭っている寺がかなりの数ある。


その境内ではないが、広島県の帝釈峡にある奇勝「雄橋」のような巨大な自然石橋も山中にあることが分かった。鉱山採掘跡坑道の存在も確認している。自然景観について小豆島は特筆すべき奇勝・奇観が多い。一週間位ではとても全てを巡ることは困難である。


出版事業をもし続けていればシルバー・ウィークにも探訪に出かけるのだが、今回も去年のとびしま海道同様、年末年始になるかも知れない。


瀬戸内海の離島にはまだまだ魅力ある史跡や自然がある。「四国の戦争遺跡ハイキング」未収録で且つ、一般にはあまり知られていない戦跡がある離島としては安居島を探訪しているが、未探訪の離島でも情報だけは散逸しがちなものの、持っている。探訪して記事を公開する日が来るかどうかは分からないが・・・。

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病院の薬を待つ間に龍馬関係者宅跡を探訪・前編

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一昨日、一年ぶりにぶり返した頻尿(去年時より症状が悪化)治療のため、高知市大川筋の近森病院へ行った。去年2月の救急搬送時の対応が悪かったため、行きたくない病院だったが、検査データがあるため、通院せざるを得ない。



そんな忌々しい病院だが、いいことと言えば、専用駐車場を終日無料で利用できる点。故に診察が終わってから近くの薬局で薬を渡されるまでの間(調剤時間中)近くの坂本龍馬関係者宅跡を回ることにした。



病院に一番近い所と言えば、大川筋一丁目1-10の岡田以蔵宅跡。跡地は「高知病院」の敷地に含まれていると言われている。その辺りは戦国期位まで、七軒の家しかなかったため、自然、戦跡、ときどき龍馬-岡田以蔵宅跡 藩政期、「七軒町」と呼ばれていた。



以蔵はあまりにも有名過ぎるため、ここで解説するまでもないが、ご存知の通り、「土佐勤王党の獄」で投獄された際、拷問に耐え切れず、勤王党の罪を吐露してしまったことにより、明治期になっても贈位されなかった。但し一説には、以蔵のことを信用していなかった仲間の勤王党員が、以蔵を獄中で毒殺しようとしていたことを以蔵が勘づき、復讐の意味で吐露したと言われている。



次は反対方向に引き返し、同じく勤王党の獄で投獄され、切腹した間崎滄浪(哲馬)邸跡。以前も解説したように、拙宅の近所に間崎一族子孫が居住していたことを知ってから、より興味を持つようになった。屋敷跡は北本町一丁目4-26、龍馬学園南東の自然、戦跡、ときどき龍馬-間崎滄浪宅跡 十字路南西角に石柱が建っている。



滄浪も土佐の幕末歴史ファンなら知らない者がいないほど有名。遠祖は一條氏の家臣。間崎家の本拠は四万十市間崎で、庄屋等を務めていた。滄浪は嘉永2年、江戸に遊学して安積艮斎の門人となり、塾頭に選出される。帰国後は現在の石柱が建っている地で塾を開き、塾生は300名を越え、それが藩に認められ、徒士格に登用されている。それからは各地の役人として転々としたが、須崎での活動はよく知られている。



文久2年には再び江戸へ上がり、時勢分析や情報収集活動、政治工作等を行っていたが、12月には龍馬や近藤長次郎と共に松平春嶽に謁見している。

が、同年末、藩政を完璧な尊攘思想にすべく、京で平井収二郎らと謀って青蓮院宮の令旨を受けたことが山内容堂公の逆鱗に触れ、翌年6月、切腹させられている。



そこから西に歩いてすぐの所が、脱藩の道須崎ルート説根源の・・・「後編」へ続く。

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沢田知可子の無料ライブ開催

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「21世紀に残したい泣ける曲」第一位に選出された「会いたい」のアーティスト、沢田知可子のトーク&ライブ(無料)が9月15日(日)14:30から、高知新聞放送会館西館6階・高新RKCホールで開催される。


但しこのライブは13時から16時までの「高知県・自殺対策シンポジウム・大切な人、そして自分に優しく」 (←クリック)に於いて開催されるもの。だから13時から14:10までは、臨床心理士や法テラスの弁護士による、ストレスによる自殺を予防するパネルディスカッションが開催される。


沢田知可子は「gift」が人間力大賞厚生労働大臣奨励賞を受賞する等し、ソング・セラピー・ライブも実施していることから、今回、招聘された。

「会いたい」はメガヒット曲だから、中年の音楽ファンでは知らない者はいないと思う。恋人が突然の不慮の事故で亡くなり、その心情を歌った曲。


一期一会 プレミアム ベスト

但し、当方は以前も述べたように、知可子の曲の中では、生命保険のCM曲だった「幸せになろう」が一番好き。「会いたい」のような悲愴感はなく、いつでも口ずさめるところがいい。


ところで'90年代半ば過ぎ頃、当方はある東京の自然、戦跡、ときどき龍馬-会いたい・・・ 同人誌で、その「会いたい」を題材にして且つ自己の体験を織り込んだエッセイを寄稿していた。今、読み返すとまるで10代のコが書くようなポエムで、赤面してしまうが、ついでだから画像として当記事に貼付する。尚、このエッセイは拙著「ハートの扉」に収録している。


ところで自殺で最も多いのは中高年層だと思う。リストラや会社の倒産による理由が多い。これを解消させるには、全国的に有効求人率を上げ、年齢に関係なく、求職者が全て就職できる社会を築かなければならない。その際のネックは、工場の海外移転問題だろう。安さで勝負するのではなく、高品質・高価格で勝負できる商品を創らなくてはいけない。それには一企業の努力だけではなく、国の全面的協力が必要不可欠である。


とは言え、一時でも沢田知可子のライブで心安らぐ時間を味わって欲しい。

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ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(9)

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≪尊攘派公卿の無念の史跡≫

蛭子神社東の三差路南東角にある「七卿落遺跡・七卿館」と称する藩政期の建物は、「旅の贈りもの」で、大滝秀治が演じた御手洗(映画では「風町」)郵便局長の自宅として描かれ、靴ずれを起こした櫻井淳子徳永英明が無理やり手当した縁側でのシーンが撮影された。この建物は日中、内部が無料開放されているので、二人が腰掛けた縁側に座ることもできる。



七卿落ち」とは幕末歴史ファンなら周知のこと自然、戦跡、ときどき龍馬-七卿館縁側の徳永と櫻井 だが、文久3年の「八月十八日の政変」により、都落ちした七名の尊攘派公卿の事跡を指す。但し、実際にこの建物(竹原屋)に滞在したのは五卿(五名)である。これは昭和15年、この建物を史跡指定した際、自治体が「八月十八日の政変」とその翌年に起こった「禁門の変」を混同したことによる。



吉村虎太郎らによる天皇の大和行幸計画により、長州藩は朝廷での実権を握ろうとしていたが、それを恐れた薩自然、戦跡、ときどき龍馬-七卿館縁側 摩藩らは大和行幸を偽勅とし、行幸を中止させ、長州藩と長州側尊攘派公卿七名を都から追い出そうと「八月十八日の政変」を起こした。この時、確かに七卿は長州に落ちた。しかしその際は、御手洗に寄港していない。

その後、七卿の内、沢宣嘉は「生野の変」に参加し、錦小路頼徳は翌年(元治元年)425日、下関の白石正一郎邸の茶室で病死したので、「五卿」になった。



元治元年7月、長州藩は復権を目指し、軍を京へ上らせた。この時の御所での戦いが「禁門(蛤御門)の変」である。しかしまたもや長州軍は大敗、坂本龍馬に脱藩を決意させた久坂玄瑞自然、戦跡、ときどき龍馬-七卿館外観 自刃、土佐の津野山郷の志士らも落命している。

五卿も京に上ろうと芸州・鞆の浦まで行ったのだが、718日、鞆の浦の大田家朝宗亭(昭和15年「七卿落遺跡」として県史跡指定)で協議した結果、長州へ引き返すことになった。この途次の722日、御手洗に寄港しているのである。よって、竹原屋の史跡としての正しい呼称は「五卿館」となる。



竹原屋は庄屋・多田家であり、また、延岡藩指定の船宿でもあったが、瀬戸内海自然、戦跡、ときどき龍馬-旧越智医院 沿岸や九州の船籍の商船とも取引を行っており、当然、当時は今より家地は広かった。しかし県道造成時、敷地を大幅に削られている。

昭和期から平成14年までは「御手洗民俗資料館」として使用されていたが、前回解説した「江戸みなと展示館」が新設されたことにより、展示物は移され、「七卿館」となったのである。五卿が滞在した部屋は二階だろう。



七卿館南の角にある洋館は、町医者役の徳永英明が診察していた「越智医院」(正確には旧越智医院)で、「ももへの手紙」ではももの母親が運ばれた病院として描かれている。残念ながら内部非公開。「徳永英明が診察した病院」として宣伝し、内部を公開すれば観光客もより興味を持って、島を訪れるのだろうが。

現在、越智病院は大長の宇津神社宝物殿東に鉄筋の建物として新設されている。



次回、このシリーズも最終回か・・・予定は未定?

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ももへの手紙&旅の贈りもの・関連地回遊(10・完)

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≪女郎屋の共同組合≫

旧越智医院の道路を挟んだ南西向かいの角にある旧家は、薩摩藩の船宿だった脇屋跡。文政年間(181830)の建築で、間口五間半、奥行き四間半の切妻造本瓦葺平入り。大久保利通が上陸した記録もあるので、ここに立ち寄った可能性がある。



脇屋東隣の空き家は女郎屋「明石屋置屋」跡。すぐ東の分岐は南に折れる。

右手に三軒目の旧家は、幕末の豪商・佐自然、戦跡、ときどき龍馬-脇屋跡 藤氏の里惣(屋号)跡。鞆田氏が明治初年に購入したことから「鞆田家住宅」と呼ばれている。寄棟造棧瓦葺で妻入りの町屋。二階の外壁は海鼠壁になっている。


この道路を挟んだ向かいの大正期の洋館は鞆田氏の別宅で、昭和11年、ここで野口雨情作詞・藤井清水作曲の御手洗節が作られている。



鞆田氏本宅南隣の黄緑色した木造洋館は、芸妓共同組合(御手洗券番)。島に上陸した男たちはまずここを訪れ、女郎屋を紹介して貰うことになる。組合はそのような斡旋ばかりで自然、戦跡、ときどき龍馬-芸妓共同組合跡 はなく、大正12年に設立された、芸妓の人格の修養を目的とした芸妓学校の運営等にも拘っている。これは全国的な女性解放の気運の高まりに影響されたものと思われる。

尚、当初、芸妓学校の学科・教養指導を委嘱されたのは御手洗小学校の校長だった。芸妓は御手洗の経済になくてはならない重要な存在だったのである。



そこから数軒南下すると、大東寺前に突き当たる。寺の東向かいは「ももへの手紙」で、郵便屋の幸市が駐在所の警官に怒られていた、広島警察署豊駐在所。御手洗の歴史的景観に配慮して、自然、戦跡、ときどき龍馬-豊駐在所 旧家風造りになっている。記念撮影にももってこい。

駐在所と寺の前は、道が可笑しな形状になっているが、それは藩政期、高札場だったため。ここで藩の重要な御触書を見ていた訳である。



駐在所前から県道を南下するとすぐ西側に島一番の高級旅館「なごみ亭」が現れるが、この建物も改装はされているものの、築200年ほど。

その南の複数の海運会社が入っている建物は、女郎屋「友上置屋」跡。その南に隣接してかつて、泉安置屋と住岡置屋が並んでいた。



そこから一軒の民家を挟んだ南は通称「三軒長屋」。ここは藩政期、若本屋という船宿で、大洲藩と宇和島藩の自然、戦跡、ときどき龍馬-舟模型製作所 指定になっていた。「旅の贈りもの」では、櫻井淳子多岐川華子たちが回り燈籠に願い事を書くシーンが撮影された。


長屋の主人役は古くからの名脇役の役者が演じていた(名前は度忘れした)が、実際の主人、宮本氏は元船大工。若い頃は遊女とも浮き名を流したという。が、’91年の台風で仕事道具が流されて以降、船大工をやめ、舟のミニチュア作りを始め、現在に至っている。

そこから南、第一回目か二回目に触れた寺本家住宅(まち歩きの案内地図板が建つ家)までも、大半が置屋跡である。



これで御手洗のまちをぐるっと回遊したことになる。現地の観光ボランティアとはまた違うコースと史跡紹介だけに、ある程度関心を持って戴けたのではないかと思う。


御手洗のコースは半日コースにも足りない位だが、大長コースを合わせると何とか一日コースとなる。島一番の安宿は以前も解説した、大長の北側、小長港前(大字は大長)にある民宿ふるさと(TEL0823-66-3953)。女将さんに坂本龍馬の滞在所、新谷道太郎生家の管理者を紹介して貰うと、更に充実した観光になる。

とびしま海道各島の最高峰シリーズの投稿も近々再開しようと思っている。

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病院の薬を待つ間に龍馬関係者宅跡を探訪・後編

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≪否定せずに比定する≫

間崎滄浪邸跡から西に23分、あたご劇場から愛宕病院第二病棟の東半分位までの地が、以前解説した、安田たまき(脱藩の道須崎ルート説の根源となる人物)坂本龍馬の真如寺橋(後に「天神橋」と改称)逸話をもぐさ施術の際、語った相手、谷民衛が幼児期、過ごしていた生家跡である。藩士であった谷氏(先代まで)の屋敷は自然、戦跡、ときどき龍馬-谷邸跡 幕末の高知城下家中図にも記載されている。

因みに民衛の子孫である元高知新聞記者、谷是(たにただし・通称:タニコレ)氏の描いた土佐の著名人の肖像画展が最近、龍馬の生まれたまち記念館で企画展として開催された。



その西の十字路は南に折れ、すぐ先の十字路は西に折れる。左手の月極駐車場から西隣のK氏邸辺りの地が、龍馬が暗殺される二ヶ月ほど前の帰郷時、龍馬と新式銃一千丁の売買について交渉した藩士、渡辺弥久馬邸跡。



龍馬は土佐に上陸した慶応3923日、岡内俊太郎を遣わして弥久馬との面談の約束を取り付けようとしたが、会えなかった。今度は弥久馬が龍馬の乗ってきた震天丸に会いに行ったが、龍馬は上陸中で会えなかった。

結局、二人が対面できたのは25日になるのだが、ここでは銃売却の商談は纏まらなかった。それでも龍馬が土佐自然、戦跡、ときどき龍馬-渡辺弥久馬邸跡 を後にしてからの108日、銃は城に搬入されている。

また、それより二ヶ月半前の、海援隊に嫌疑がかけられた長崎でのイカルス号水兵殺害事件に於いても、弥久馬は後藤象二郎と共に談判委員として参加している。



尚、’90年代に発行された龍馬記念館発行のガイド書や、龍馬伝放送年に高知新聞社が発行した龍馬の史跡ガイド書では、弥久馬邸跡の表記について、前述跡地南東の中の橋ハイツやびーてるビル辺りが同定されるような誤解を招きかねない図や写真が掲載されている。幕末の家中図では、屋敷の北側が北の水路に面している。前述ハイツやビルの地は幕末、川縁ではなかったのだろうか。



ところで、私の病気、頻尿についてだが、診察では心因性の可能性大となった。つまり精神的なことである。私としてはどうも納得いかない。特に就寝時は、膀胱が破裂するほど苦しくなって二回も目が覚めるのに、これがなぜ精神的なことになるのか合点がいかない。



もし心因性だとしたら、思い当たる節は自然、戦跡、ときどき龍馬-ピアステージ駐車場からの虹 二点。まず一つは、出版事業や写真展開催事業を中止して以降、踏査や探訪の名目がなくなり、各地に出かける意義が感じられなくなった点。二つ目は龍馬のふるさと街道プロジェクトが、理想の世界のみの机上論ではないかという不安と焦燥感が募っている点。今日の祝日も、どこへも出かける気がしなかった。

私から「踏査」や「歴史研究」を取ると、一体何が残るのだろうか。その「残りもの」で人生を送ることができるのだろうか。


余談だがこの日の夕方、高知市等から虹が見えた。テレビやラジオでも触れられたが、当方も写真を撮っていたので貼付する。

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「ナニコレ珍百景」で放送の内子町の無名鍾乳洞・前編

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地面から出た煙突と赤いTシャツの意味

今年3月頃、テレビ朝日系番組「ナニコレ珍百景」を見た愛媛県内子町自治体職員や教委、町民たちは驚きを隠せなかった。それは、町史にも載っておらず、町民の誰もが名前さえ聞いたことがない鍾乳洞の映像が流されたからである。

元々この番組は珍奇な景色や特殊な特技を持つ人や動物を紹介する番組で、’90年代初頭、放送されていたウンナンの特報王国に似ている。



その日、番組内で内子町にある「地面か自然、戦跡、ときどき龍馬-煙突のある大屋敷への入口 ら突き出た不思議な煙突」が投稿者情報として流されたのだが、取材班が付近で聞き込みをすると、地元在住の82歳の男性が自費で500万円を費やし、展望台を設置し、その道標の一つとして、その地へ至る道路の起点に煙突が設置されたことが分かった。

更に展望台下で平成元年前後に発見された、「大屋敷鍾乳洞」についても整備していたのだった。



番組放送後、内子町役場には内外から問い合わせがあり、町教委を始め、県内の洞穴のスペシャリスト集団、愛媛大学学術探検部も現地を訪問した。

それだけ注目されたにも拘らず、ネッ自然、戦跡、ときどき龍馬-大屋敷見晴台 トでは展望台のことについて触れた記事は三件ほどしかなく、鍾乳洞に至っては、当方が知る限りでは写真が公開されている記事は一件しかない。



これではいけない、ということで当方が先日、地権者と連絡を取り、探訪したのである。

現地へのアプローチは、愛媛・香川・徳島県在住者なら、松山自動車道内子五十崎ICを降り、国道56号を1キロほど北上した後、知清交差点を右折、300mほど南下したところの三差路を左折し、県道305号へ入る。

数キロ東進し、村前(むらさき)の北深(きたふか)集落を過ぎてほどなくで、前述の煙突が左手に現れる。そこはY字路になっており、右手には、「見晴らし台」や「ミニ鍾乳洞」へ自然、戦跡、ときどき龍馬-見晴台からの展望 の案内標識が張り付けられている。



分岐から延びる車道の終点に展望台である見晴らし台が設置されているのだが、途中、赤いTシャツを「注意喚起標識」として立てている箇所では道路の路面が若干陥没しており、車高の低い車は腹をこすってしまう。



高知県から現地に向かう場合、一般道での最短ルートは、国道33号で久万高原町落合まで行き、落合交差点を左折して国道380自然、戦跡、ときどき龍馬-大屋敷鍾乳洞入口 号を西進する。内子町内で国道379号に合流、五百木和田まで行くと、上和田バス停の箇所で松本橋に左折する。少々先に常楽寺がある町道である。これを上り詰めると県道305号に出るので左折。数分で煙突Y字路に達する。高知市から見晴らし台までは2時間40分ほど。



見晴らし台にはログハウスがあり、駐車スペースもある。見晴らし台は支尾根の突端の標高450m地点に設置されてあり、北方に180度の展望を誇る。

ハウスは施錠されていて入れず、外壁には鍾乳洞(入口は施錠されている)見学者のため、地権者の電話番号が記されている。役場では個人情報ということで番号を公開しておらず、地権者本人も代々的には公開してないようだったので、ここでは公開しない。尚、外壁の電話番号は市外局番が記されていないが、「0893」である。



電話して15分位で軽トラに乗って前述の82歳の大宮氏が現れる。当日は真夏日ということもあり、もなかアイスを戴いた。勿論、大宮氏が用事で来られない場合もあり得る。大宮氏からは、この地で昔起こった悲劇について聞くことになるのである。

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