一昨日、「兵庫区の坂本竜馬の遺跡」での語句検索訪問がありました。神戸市兵庫区の坂本龍馬史跡と言えば、龍馬ファンなら周知の史跡、生島四郎太夫別邸跡がありますが、ここでは本邸跡等も紹介しましょう。
まず、生島四郎太夫の屋敷についてですが、なぜか別邸跡は有名でも本邸跡が語られることはあまりありません。
手がかりになるものとして、明治初期に描かれた町割り図があります。但し、兵庫区ではなく中央区の三宮。
これには三宮神社の東隣の西国街道(山陽道)沿いに「松屋四郎太夫」という家が描かれています。松屋とは、廻船業や
酒造等を手広く営んでいた生島家の屋号です。
跡地は現在の住居でいうと、F・Oインターナショナル本社ビルから東の道路を隔てた扇陽三宮ビル辺りまで。
四郎は、奥平野村の乾家に生まれましたが、生島家の養子となっています。
文久3年5月29日、神戸村大庄屋且つ、村の大地主でもあった四郎は、和田崎砲台と海軍操練所の工事を検分に訪れた勝海舟と出会い、海舟から西国街道沿いの土地の譲り受けについて、相談を受けています。
その際、海舟から神戸の海沿いの将来性を説かれ、広範囲に及ぶ土地購入も進められていますが、寓居についても相談を受け、別邸の使用を申し出ています。
同年9月、四郎の斡旋で海舟は三宮の西国
街道沿いに土地を購入、私邸と海軍塾舎を建設します。この時の建設費用は、龍馬が松平春嶽の元に行って借用してきた五千両が使われていることは有名。
海軍塾舎建設に伴い、大坂に居た海舟の門弟約90名も神戸に移ることになります。
海舟は私邸完成後も生島別邸に住み続けたと言われており、そこから塾までの道程を馬車で行き来していたと言われています。
海舟を生涯の師と仰ぐ龍馬も足しげく、生島別邸へ通ったと言われています。
その後、海軍操練所も開設されますが、池田屋騒動で自決した、土佐の望月亀弥太が操練所書生であったことが幕府に露見。更に書生の高松太郎が大量に毛布を購入したことが、長州の不穏分子を匿うためではないか、と幕府に密告され、操練所は閉鎖、海舟は失脚してしまいます。
海舟は、この神戸で海軍が誕生した経緯と、それを可能にしてくれた徳川家茂公を称える碑「海軍営之碑」を製作していたのですが、失脚に伴い、設置することができなくなったので、碑の処置を四郎に託します。
そこで四郎は自らの別邸の庭に設置したのでした。
その碑は大正4年、神戸市に寄贈され、市では諏訪山の金星台に碑を設置します。
金星台は中央区ですが、この碑は有名で龍馬関連本にも掲載されているため、ここで改めて解説する必要はないでしょう。ただし、公共交通機関を利用して訪れる際の最も楽なコースを紹介することにしましょう。
市バスの山本通り四丁目バス停からグリーンハイツ諏訪山の西沿いを北西に上がる道路に進み、北から西へと上がって行きます。
道路はやがて小径となり、塚のような様相の碑の建つ土盛りの背後に出ます。
他の中央区の龍馬史跡も紹介してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックon
にほんブログ村