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坂本龍馬の宇和島短期脱藩説の概要(2)

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《坂本龍馬から鏡を貰った少年は龍馬の兄弟子の孫だった》

暗殺される約二ヶ月前の慶応三年923日、龍馬は大政奉還が失敗した時のことも考え、土佐藩の軍備増強にと、藩に新式銃を売却するため、震天丸で高知市の浦戸湾に入りました。



船は御畳瀬(みませ)の袂石の所に付け、そこから上陸、中条家に入り、食事と入浴をし、しばらくして去り、小島家(種崎地区)に寄っ自然、戦跡、ときどき龍馬-中城家 た後、船に戻った、ということは去年1115日頃、投稿した記事に記しました。



その小島家当主のこともその記事で触れたと思いますが、当主・亀次郎は山内容堂公の御髪方で、妹は龍馬亡き後の新海援隊隊長・長岡謙吉の母、妻は龍馬の継母・伊与の前夫の家、川島家当主・猪三郎の妹であり、龍馬にとっては親戚同然の家でした。



但し、昨日触れた、龍馬から鏡を貰った少年と龍馬が小島家で会ったのは、23日かどうかは不明。24日である可能性もあります。と、いうのは、その少年が小島家を訪れた時、龍馬はそこでも入浴中だったというのです。自然、戦跡、ときどき龍馬-川島家


また、23日、藩の要人らと会うため、各種活動をして汗をかいたため、二回入浴した、とも考えられます。



龍馬が中条家を訪れた時も小島家を訪れた時も氏神の神祭(じんさい)日だったと言います。神祭は何日か続くことがあるので、同日とは限りません。

23日も24日も龍馬は種崎に投宿していたとの記録もあります。



兎に角、龍馬は23日か24日、小島家に寄ったことは事実。

土佐では神祭時、親戚一同を呼んでお客(宴会のこと)をする慣わしがあり、その日、小島家にも多くの親類、知人が集まっていたのですが、夕刻、親類の一人、土居楠五郎(後に「土居保」と改名)が複数の孫を連れて訪れました。



亀次郎は楠五郎たちを見ると、孫の方に向って

「えい(いい)ところへ来た、早うお入り。いんま(今)、坂本のおんちゃん(おじさん)が来たところや。」と言ったのです。



浴室を覗くと、そこには懐かしい顔があり、その「顔」は優しく微笑み、手招きをします。

その時、その「顔」龍馬は肩や背中の刀痕を少年に見せたと言います。



龍馬は入浴を済ませ、楠五郎と対面すると、手を握り締め、涙を流して喜びました。去年の記事でも触れたかも知れませんが、楠五郎は日根野道場での龍馬の兄弟子だったのです。



そして龍馬は積もる話を楠五郎にし、それを横で孫たちは聞いていたのですが、ここで「佐川山」での出来事が語られるのです。



才谷梅太郎と変名して佐川山に潜んでいた時は、飲まず食わずであったこと、その時は山道が凍結しており、差していた刀「行秀」を抜いて、一本歯の足駄を引きずりながら歩いて行ったこと等々。



楠五郎たちが帰る際、龍馬は持っていた三枚のギヤマンの鏡を楠五郎と二人の孫に土産として渡したのでした。



これらのことは、昭和期、元朝日新聞記者その少年、木岡一氏に取材して書籍に収録したもの。一氏は後に高知市常盤町で木岡電気を営んでいましたが、子息には海軍大佐になった者もいます。



余談ですが、この元記者が著した書籍こそ、龍馬の文久二年3月時の脱藩の道須崎廻り説の根源となっているのです。これが説の唯一の根拠です。



私はこの逸話だけで、龍馬が佐川山に出向いたのは、文久元年1月ないし2月であると断定しました。その根拠は次回。

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