《宇和島ルートの伝承》
本来、ブログ半休止中の身ですが、先日来説明している、坂本龍馬と文久と慶応期、交流した土居通夫の書状が本物であることが判明したため、龍馬の宇和島脱藩の概要について、集中的に投稿することにします。
先日も触れたように鬼北町日吉や西予市城川には、古くから、龍馬が地元を通って宇和島へ行ったことが伝承されていました。しかしその説はメジャーにはなりませんでした。なぜなら、宇和島へいってから宇和島港から長州へ渡った、とされていたからです。つまり、この説は文久二年3月の本格脱藩時のこととされていたのです。
が、宇和島港から長州に渡ることは距離的にも地理的にもあり得ないことから、全ての龍馬研究家から無視されてきました。
宇和島ルート説に於ける伝承としては、脱藩の道九十九曲峠説ルートの西予市
ここに龍馬他、四人の侍が宿泊した、とい
うもの。当時の主人、河野氏の家族の者が龍馬の容姿を覚えており、後年、髪が縮れていたことを述懐しています。
この旅籠や宇和島行きの伝承については、昭和期に旧
県境の九十九曲峠から愛媛側に下って行った麓の川津南集落には、吉村虎太郎や伊予の志士も度々密会していた勤王医者・福松氏宅があることから、龍馬は道案内を伊予の志士に依頼していたのかも知れません。
しかし私は、龍馬は宇和島へ行く際、九十九曲峠ルートは辿らなかったであろうと考えています。それにこれは長州へ脱藩した時ではないことは明らか。
その根拠が去年の春に投稿した記事で述べた、龍馬が高知県四万十町大正の県境(愛媛県鬼北町との境)の山、佐川山に潜伏し、のまず食わずで山道を歩いて行った、という口碑。
この国境の山での行動は、脱藩以外に考えられません。しかもこの時、「才谷梅太郎」の変名を使用していたというのです。国内で活動する場合、変名を用いる必要はありません。
いや、これはただの口碑ではありません。慶応三年9月下旬、龍馬が土佐藩に新式銃を売却するため、土佐に帰国した折、龍馬から直接、この話を聞いた者がいるのです。その人物こそ、その時、龍馬からお土産としてギヤマンの鏡を貰った少年なのです。
この逸話は去年も触れたとは思いますが、次回、更に詳しく、その時の龍馬の言動や少年について解説しましょう。
ps:今日、ママライター・ミカさんから、河野水軍関係者に土居姓があることから、土居通夫はその後裔ではないかとのコメントがありましたが、宇和島城下に土居姓は多く、また、私自身、通夫の先祖について解説した文章に触れたことはありません。ただ、先祖は戦国期の武将かその家臣だったようです。だから水軍関係者であることも否定できません。
また、同関係者に得能氏もいるとのご指摘もありましたが、通夫と同じ宇和島藩士の志士で、慶応時代、龍馬や後藤象二郎と交流した得能亜斯登(あすと)もいます。
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