《貴重な歴史資料と判明!》
先日、坂本龍馬と文久元年初頭、宇和島城下の多都味道場で試合をした、土居通夫の書状を入手した旨、投稿しましたが、宇和島市では通夫のことを研究している者が皆無で、真贋の判断ができないため、せめて、紙質や文章面から、その判断をして戴こうと、今日、高知市にある公的施設、土佐山内家宝物資料館に出向き、学芸員の方に書状を見て戴きました。
私は当初、シミ一つないきれいな書状だけに、本当に明治期に書かれたものなのかどうか少し不安だったのですが、書状や裏打ちの紙質は、まさに明治期、よく使用されていたものであるとのことでした。
日付が月日だけで年号の記載がない点も、明治期からこのような記述をするようになったとのことで、逆に明治の手紙で、年号の記載があると偽物である可能性が高いとのこと。
この書状は、通夫から佐野徳二という人物に宛
てたものですが、直接送付はせず、竹内という知人に送って貰ったもの。勿論、そのことも追記されています。
内容は、「徳二さんが来坂されるということで、私は伏見等を案内しようと思っていたのですが、早く行かないともう暑くなってしまいます。
私は先日、高野山や吉野、月瀬(恐らく奈良の月ヶ瀬)、和歌浦(和歌山市の名勝)等を見物してまいりました・・・・・・・」
とあり、追伸として(恐らくこれが本題)、銀行株を二十株売却して貰えないか、と依頼しています。
文章は全42行で、何枚もを横に繋ぎ合わせ、巻物にしています。
学芸員の方が言うには、「このような何気ない内容の書状の贋物を作ることは、まず考えられない、これは本物と思っていいでしょう。」とのことでした。
但し、学芸員の方も通夫の名を聞いたのは初めてとのことで、いくら龍馬や中岡慎太郎、後藤象二郎等の土佐の著名人と交流していたとは言え、高知県下では全く無名。
これでは私がいくら郷土のためにどこかの資料館や博物館に寄託しようと思っても「誰それ?」となってしまいます。
やはり、宇和島市の龍馬や通夫の史跡、伝承地を全て明らかにした上で、いつものように高知新聞さんに取上げて貰うしかないでしょう。
ps:当初、この書状の真贋の判断を、宇和島市の元教育委員会関係者に依願しており、その方がこの話を宇和島市立伊達博物館の学芸員の所に持って行ったところ、その学芸員は、自分より郷土歴史研究では何年も先輩にあたるその方に対し、
「なんでそんな民間人ごとき頼みを私が聞かなければいけないのだ。全くもって迷惑。私の名(志後迫)を相手方に出したことも不愉快極まりない。」と言い放ったとのこと。
後でこのことを教委関係者に聞くと、
「あの学芸員は自分の受け持つ仕事以外のことはやりたがらないのだろう、また、通夫のことについても殆ど知識はないだろう」とのことでした。
土居通夫と言えば、幕末から明治に活躍した宇和島市出身者の中では、最も成功した人物で、宇和島の誇り、と言ってもいいほど。
にも拘わらず、郷里の宇和島には通夫の遺物が殆ど残されていない、と、なると私の入手した書状は、宇和島市の文化財指定を受けても可笑しくないほどの代物。
が、給料を貰うためだけに博物館で働いている下卑た学芸員には、郷土愛のかけらもないのでしょう。
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