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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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初公開!坂本龍馬と試合した剣客の書状

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《明らかにされる坂本龍馬の宇和島藩内伝承地》自然、戦跡、ときどき龍馬-土居通夫書状

相変わらずのブログ半休止状態ですが、今日(11/25)、坂本龍馬と文久元年初頭、伊予・宇和島城下の上級武士の道場で剣術の試合をした、と伝わる宇和島藩士、土居通夫の書状を入手し、且つ、当時の絵図(町割り図)と現在の地図上で、龍馬の滞在所や土居通夫関連地を比定しました。


去年も述べましたが、古くから鬼北町に伝わる、龍馬の宇和島行きや、同町、日吉屋に於ける伝承、伊予(鬼北町)に近い高知県四万十町大正の佐川山に於ける、龍馬の脱藩行動とも言える自然、戦跡、ときどき龍馬-土居通夫書状末尾 伝承、明治期に書かれた土居通夫の伝記に登場する、文久元年時の通夫と龍馬との交流等から、文久元年(本格脱藩する前年)1月ないし2月、龍馬は短期脱藩して、宇和島城下に赴いたことは間違いないものと思われます。


この時、龍馬は隠密として、才谷梅太郎の変名で宇和島を訪れ、城下の窪田派田宮流剣術師範、多都味嘉門の道場で土居通夫(当時の名は中村彦六)と試合をしたとされているのです。


通夫も田宮流の免許皆伝の腕前だったので自然、戦跡、ときどき龍馬-坂本龍馬宿泊の町会所 すが、試合結果までは伝わっていません。

この宇和島滞在時、龍馬は城下の町会所(3枚目画像中央)に止宿していたことが通夫と共に龍馬と会った、児島惟謙の伝記に記載されています。その伝記は関西大学出版部による出版。


また、通夫の伝記には、宇和島滞在時、龍馬と通夫は「日夕往来」した旨の記述があるため、毎日、龍馬は城下北にあった通夫の自宅である御船手組の宿舎に通ったものと思われます。


通夫は龍馬に刺激を受け、慶応元年、脱藩し、大坂につてを辿って行き、金貸しの用心棒となることから、小説等では剣客として描かれています自然、戦跡、ときどき龍馬-多都味氏邸周辺


また、その後、大坂で龍馬と再会を果たしています。

が、明治期になると大阪控訴裁判所判事を経て、大阪商業会議所会頭となり、関西随一の財界人として名を成すことになります。


今日、入手した書状は財界で活躍していた頃、書かれたものとされ、本名ではなく、俳号の一つである「無腸」として署名しています。ただ、月日の記載だけで、何年に書かれたものかは不明。


書かれている内容は分かりかねるため、元宇和島市教委職員の方に、真贋の判断等を相談しています。


私が宇和島市内の知られざる龍馬伝承地を全て明らかにする日も近いことでしょう。
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