[龍馬の勤王活動開始時期=宇和島脱藩時期]
前回のベたように、龍馬が慶応三年9月の帰国時、小島家に於いて土居楠五郎に語った佐川山での行動についての記録(聞き取り筆記)は僅かしかありません。
しかしその僅かな文面で、十分龍馬の短期脱藩時期を特定することができるのです。それは
《変名の使用》
前回も説明したように、龍馬は楠五郎に、佐川山に潜んでいた時は、才谷梅太郎と変名していた旨、語っています。
変名を使用するということは、藩の掟に背いて行動することを示しています。つまりそれは脱藩しての勤王活動です。才谷梅太郎の使用=脱藩なのです。
《佐川山の山道の凍結》
佐川山は、去年解説したように、四万十町大正と愛媛県鬼北町との県境にある霧立山と地蔵山を結ぶ稜線から東側の佐川(河川名)上流周辺の林野名。
稜線の標高は千mを超える箇所があり、私が'90年代の3月下旬、地蔵山に登った時でも稜線はすっぽり雪に包まれていました。
前回、説明したように、龍馬は佐川山の山道が凍結しており、難儀した旨、語っています。
つまり、龍馬が登った時期は冬の積雪期に限定されます。
《勤王活動開始時期》
前述のことから、龍馬は佐川山登山時、勤王活動を既に開始していたことが分かります。では、いつから開始したのでしょう。
これを解明する手がかりは安政から万延時代の記録にあります。
まず、安政五年(1858)11月23日から24日にかけて、龍馬は大豊町立川の木屋岩吉邸等で、水戸藩士の住谷寅之助や大胡聿蔵らと会見したことが吉田健蔵日記や住谷信順道中日記、維新土佐勤皇史に記載されており、そこで寅之助は龍馬の印象を「誠実だが、世の事情を何も知らない者」と評しています。
つまり、この時はまだ龍馬は勤王活動をしていなかったことが分かります。
その約二年後の万延元年7月、武市瑞山は岡田以蔵らの門弟を連れて九州遊歴(藩の許可を得て)に旅立つのですが、この時、それを聞いて龍馬が発した言葉が維新土佐勤皇史に記載されています。
「龍馬之を聞き、今日の時勢に武者修行でもあるまいに、と嘲り」
当然、瑞山一行は武者修行なぞに出たのではありません。その年の三月、幕府のナンバー2にあたる井伊直弼が暗殺され、世が混沌とする中、諸藩の情勢を探りに旅立ったのです。
それが分からない、ということは、勤王活動をしていなかったということを示しているのです。
が、瑞山が旅立った後、後に土佐勤王党に加盟する志士が多数所属していた日根野道場や武市道場の仲間から龍馬は、瑞山一行の遊歴の目的を聞いたはずです。
翌年の文久元年3月3日には、藩の上士と郷士を二分する事件「永福寺事件(井口事件)」が起こり、龍馬も当事者の郷士の家にかけつけています。
この事件が、多くの郷士が勤王に傾倒する要因の一つになったことは有名。
文久二年の1~2月は龍馬は長州、関西、讃岐、阿波とせわしく勤王活動に於ける情報収集を行っており、3月には本格脱藩(長州下関への)することになります。
以上のことから、龍馬が佐川山へ行ったのは文久元年1月若しくは2月(新暦では2月若しくは3月)と断定できるのです。
では、脱藩してどこへ向おうとしていたのでしょうか。諸藩の志士が集う勤王藩である大洲でないことは明らかです。大洲へ向うには、もっと北の峠を越える必要があります。
大洲藩以外の土佐西部に近い藩の中で勤王を推進、若しくは理解のある、それなりの規模の藩として真っ先に浮かぶのは、山内容堂公と共に「四賢候」に数えられている藩主を頂く宇和島藩ではないでしょうか。
《地理的見地》
佐川山を伊予側へ越えた麓の道は現在、県道285号が踏襲しており、鬼北町の樋鼻を越えると宇和島城下へと直結している国道320号に出ます。その分岐の1キロほど北に龍馬が宿泊したと言われる日吉屋があったのです。
つまり、佐川山、日吉屋、宇和島城下は一本の線で繋がっているのです。
また、高知城下~佐川山~宇和島城下のルートは、距離的にも理にかなっています。
更に宇和島藩士・土居通夫の伝記本や小説のほぼ全てと、児島惟謙の一部の伝記、地元で発行される歴史や史跡関係の書籍等に、文久元年、龍馬が才谷梅太郎と変名して宇和島城下に現れ、地元の志士と交流していたことが記述されており、この伝承は古くから自治体も把握しています。
これらのことから文久元年1月ないし2月、龍馬は佐川山から脱藩し、宇和島城下へ行った、と、断定できるのです。
現在、私は龍馬の止宿した会所跡を、現在の地図で番地まで特定しています。
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