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坂本龍馬と高杉晋作のファンは下関で新年を・前編

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47ヶ所にも及ぶ膨大な史跡群》

「坂本龍馬と高杉晋作のファンは○○で新年を」シリーズ第二弾はご存知、山口県の下関。無名史跡では、龍馬等と関わった長府藩士邸跡が多く挙げられます。それだけに前回の琴平とは違い、数日で全てを見て回るのは無理。



初詣神社としてはまず長門国一の宮の住吉神社が浮かびますが、ここはあえて二の宮である、長府の忌宮(いみのみや)神社を推薦します。



それは龍馬の脱藩の道長州路である山陽道沿いにある点や、「坂の上の雲」にも登場する乃木将軍の復元家屋が近所にあり、長府藩の本拠地ということが重要視されるからです。



では、市内に残る晋作と龍馬関連史跡を、脱藩の道に沿って列挙します。

(1) 奇兵隊本営跡・末富家(看板あり)

吉田には奇兵隊の吉田陣屋跡のほか、各小隊が屯所にしていた寺院がいくつもある。

晋作の葬儀もこの庄屋宅から出している。



(2) 東行庵と東行記念館

庵は晋作の愛人・うのが晋作らの墓守をしていた晩年の住居。

記念館の方は以前も触れたように、去年の春の時点ではリニューアル作業が遅延していたが、現在、再オープンしているか否かは不明。勿論、リニューアルしてなくても入館はできる。



(3) 清水山奇兵隊墓地と晋作像

晋作やうの、白石正一郎、晋作の挙兵時にも参加した、伊勢屋小四郎の親戚(本家当主であったにも拘わらず、伊勢家から分家した小林氏の初代当主の妻の弟)である末永徹三郎の墓、晋作と途中で袂を別って後に捕らえられ、斬首された赤根武人の墓等。



(4) 奇兵隊吉田陣屋跡



(5) 木屋川沿いの古道自然、戦跡、ときどき龍馬-木屋川沿いの龍馬脱藩の道

龍馬の脱藩の道・長州路(山陽道)の内、下関市内で古道が残っている箇所は三ヶ所しかないが、その一つが木屋川口番所跡(石垣が現存)南方。上り口には大師堂がある。



(6) 白石正一郎宿営地跡(看板あり)

晋作の挙兵からほどなくして、それに同調した奇兵隊が兵を動かした時、正一郎等四名の奇兵隊士が宿営した。



(7) 移築された白石正一郎邸浜門(国道沿いに看板あり)

場所は去年解説したが、看板は門の反対側にある。



(8) 日原素平邸跡

これも去年解説した。一時期、龍馬とお龍が滞在していた頃、お龍が癇癪を起こして龍馬愛用の飯碗を割った場所。



(9) 梶山鼎介邸跡

これも去年解説済み。鼎介は報国隊軍艦、野々村勘九郎の命令で晋作等の暗殺を目論み、流罪に処されたが、刑を解かれて以降、考えを改め、龍馬に西洋の実情を学びたい旨、相談していた。

屋敷門が現存しており、子孫の方が暮らされている。



(10) 福田扇馬(おうま)邸跡(字が消えた木製看板あり)自然、戦跡、ときどき龍馬-福田扇馬邸跡

扇馬等、数人の長府藩士が龍馬の指示で、海援隊に於いて操船技術を研修した。



(11) 熊野直介碑(忌宮神社境内)

龍馬と長崎の丸山亭で同席。龍馬とは報国隊軍監時、四境の役・小倉口の戦いの際、知り合ったと言われる。



(12) 三吉慎蔵生家(小坂土佐九郎邸)跡と養子先の三吉邸(慎蔵の自宅)跡

これも去年、詳しい場所を解説済み。小坂邸跡は土塀が何割か残っている。



(13) 品川省吾邸跡

報国隊斥候兼応接係。小倉口の戦い時、龍馬と打ち合わせをしている。



(14) 印藤聿生家跡

長府藩士の中では、最も早く龍馬と知り合ったことは去年解説済み。慎蔵と同様、龍馬が最も頼りにしていた藩士。



(15) 大庭伝七邸跡(看板あり)

白石正一郎の弟。藩内の佐幕派が台頭し、晋作が九州へ逃れた時も随行し、よく助けた。



(16) 功山寺

晋作の史跡では欠かせない場所。境内には晋作もよく飲用した湧き水が湧き出ている。



(17) 修善寺跡

晋作が九州から戻り、諸隊幹部を召集して挙兵の必要性を説いた場所。ここで赤根武人と対立することになる。



(18) 功山寺墓地

三吉慎蔵、印藤聿、三吉周亮、野々村勘九郎等の墓がある。去年春時点では勘九郎以外、一切、案内板は出てなかった。



(19) 万骨塔

全国の幕末の志士を鎮魂する古墳型の塚で、元志士の桂弥一が建立した。全国各県の各志士ゆかりの地から「霊石」として石を送って貰い、志士や隊の名を刻んで、塚の周囲に設置している。



龍馬ゆかりの京都伏見の江崎家から送られた石と、「二十三士」が処刑された高知県奈半利町からの石に龍馬の名が刻まれている。

香川県琴平町の日柳燕石の住居、呑象楼の沓脱ぎ石も霊石として設置されている。



(20) 三吉周亮邸跡

慎蔵の本家筋にあたる長府藩家老。長府藩海軍の強化を図っており、龍馬が周亮に会おうとしたことや、海軍についての周亮の考え等が龍馬の手紙に記されている。

広大な周亮邸跡一角には「そば処・はつ花」が営業している。



(21) 時田少輔邸跡

慶応元年5月初旬、少輔が大宰府に出張した折、龍馬の元を訪ね、挨拶が終るといきなり、薩長同盟の必要性を話し始めたという。自然、戦跡、ときどき龍馬-広瀬武夫碑



(22) 福原和勝邸跡(大まかな場所のみ)

長州側の資料では、慶応三年4月、和勝は藩命で龍馬と共に上海を視察に出向いた旨、記述されている。



(23) 辻堂坂(辻堂峠の古道)

上り口の手前の二行橋袂には「坂の上の雲」で知られる、広瀬武夫海軍少尉の碑が建っている。武夫の人柄が偲ばれる碑の建立逸話は拙著を参照されたい。



(24) 駕籠立場砲台跡下方の古道

山陽道沿いの砲台については、去年、列挙しているので参照されたい。



「後編」は次回。

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