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公開!坂本龍馬の四藩軍事同盟密約所(大崎下島大長)

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≪坂本龍馬の食事を作った女性子孫も在り≫

数年前、広島県竹原市で、昭和初期に発行された、呉市豊町大長(とびしま海道の大崎下島)出身の勤王志士・新谷(にいや)道太郎に関する書物が発見されたことで、慶応三年秋に密約された、龍馬が主導した四藩軍事同盟の状況が明らかになった。その詳細は’10年、中国新聞や隔月刊雑誌「島へ。」(龍馬関連のページは文筆家の穂高健一氏が執筆)へ掲載されたから、ご存知の方もいるだろう。但し、日付が他の記録と食い違う点も若干ある。自然、戦跡、ときどき龍馬-三藩盟約草稿



道太郎は弘化3(1846)、大崎下島大長(「島へ。」では誤って地名を「御手洗」と記している)旧本徳寺の長男として出生したが、勤王の志が強く、15歳時、寺を弟の亀太郎に任せ、江戸へと上った。そこで勝海舟の門人となり、各志士と交わり、後に龍馬とも交流することになる。



慶応3212日、龍馬が当時、大長へ帰って自然、戦跡、ときどき龍馬-旧本徳寺古写真 いた道太郎の元を訪ねたという。龍馬は山内容堂公の密命を受け、「本当の意味での」薩長軍事同盟を締結させたいから、協力してほしいのだという。表面的な薩長同盟は前年、京で結ばれていたが、第二次長州征伐で薩摩藩は長州軍に軍事支援を行わなかった。これはまだ両藩が真の和睦に至ってないからだという。



薩長に土佐と広島藩が加わって同盟を結び、大政奉還の建白を出せば、幕府も受け入れざるを得ず、もしそれが却下されたとしても、四藩が中心となって幕府軍を制圧することができる。

そして龍馬は道太郎と共に下関の高杉晋作を訪ね、毛利公への説得にあたって貰うよう、相談したという。晋作は薩摩藩自然、戦跡、ときどき龍馬-坂本龍馬滞在の棟 次第だと言うので、龍馬が下関から一人で薩摩に向かった。



これが前述書物に記されている一回目の龍馬の道太郎宅訪問だが、この時期の他の記録としては、214日付の河田左久馬宛ての龍馬の書簡に、210日、長崎より下関に帰ってきた旨の記述がある。道太郎宅訪問が事実だとしたら、日程的にかなりハードである。

また、晋作は亡くなる約二ヶ月前のことであり、病床にあったのではないかという疑念もある。



それから約一ヶ月後、土佐へ帰国する途次、再び道太自然、戦跡、ときどき龍馬-龍馬が鐘を叩いた仏間 郎宅を訪問したという。龍馬は、薩摩側と会ってきたが、相手方の考えが今一つ計り知れぬという。この時、道太郎宅、つまり、旧本徳寺の仏壇の鐘を叩いて、仏前に手を合わせたという。そして土佐で所用を済ませた後、今度は数人で来ると言って出立した。

この部分の記述についても、この時期、龍馬が帰国したという一般的な記録はない。



それから幾日か後の318日、龍馬は三人を連れて道太郎宅を訪れた。芸州の船越衛、薩摩の大久保利通、そして長州の自然、戦跡、ときどき龍馬-星野文平碑 桂小五郎である。そして四人は三日間、寝食を共にし、終日、幕府の世を終わらせる方策を練り、四藩軍事同盟の叩き台を作ったという。

一般的な記録では三月、龍馬は下関の自然堂に居ることが多く、324日は中岡慎太郎が自然堂を訪れている。



その後、道太郎は島外に出ていたが、10月末、知人から、11月になると薩長その他の藩の要人が来島するから、島に戻るよう、言われている。そしてその日、113日、13人の志士が道太郎宅を訪れた。広島藩の池田徳太郎、船越衛、加藤嘉一、高橋大義、星野文平(御手洗出身)薩摩藩自然、戦跡、ときどき龍馬-龍馬たちの寝室 の大久保利通、大山格之助、山田市之丞、長州藩の桂小五郎、山縣有朋、大村益次郎、土佐藩の後藤象二郎と龍馬である。




密議は翌日から6日にかけて行われた。幕府軍との戦に備え、京の御所を警護している二千人の兵のため、各藩から百石ずつ兵糧米を送り、戦には洋式の砲兵、騎兵、歩兵を以て対抗する等々。ここに四藩軍事同盟の密約が成ったのである。



龍馬は7日に出立したという。しかしこれらの日にちは明らかに可笑しい。一般的な記録では、龍馬は1028日から111自然、戦跡、ときどき龍馬-龍馬たちが歩いた廊下 まで越前に滞在し、115日、京に戻り、薩長の志士らと新政府の組織作りに関して会談しているからである。また、9月末から暗殺されるまでは、かなり細かい記録が残っており、大崎下島に寄る時間はないように思われる。寄ったとすればそれ以前だろう。



尚、いつの時のことか分からないが、旧本徳寺周辺の女性数人が、龍馬らのため、寺で食事を作って出したという。その内の一人は名が分かっており、越智という苗字の方で、子孫も現在まで続いている。その時、龍馬は乞食のような恰好をしていたという。

尚、現在、旧本徳寺を管理されている方の隣の家も越智氏である。



雑誌「旅へ。」では旧本徳寺の問い合わせ先が豊町観光協会になっていたが、協会に連絡しても内部見学はできない。私は小長(大字は大長)の民宿ふる里さんに自然、戦跡、ときどき龍馬-龍馬らが水を飲んだ井戸 旧寺を管理されている方を紹介して戴いたのである。



旧本徳寺へは、大長の北堀西詰にある村尾昌文堂南の、本徳寺参道の道標に従う。但し、その道標の本徳寺は大正期に寺の権利を譲渡され、別の場所に創建された寺であるので、途中で右折せず、そのまま直進する。昌文堂から数分西進した、三寿ふれあいプラザの東隣の家が旧本徳寺である。(南東側)の左奥にある井戸の水を龍馬らも飲んだことだろう。



西側の家屋が幕末からのもの(サッシに変わってはいるが)で、龍馬たちが寝食した部屋や、鐘を叩いた仏壇跡のある仏間が残っている。探訪時、車は安芸灘交流館の駐車場へでも。最寄りのバス停は「大長港」。



余談だが、旧本徳寺の住人は県外に出ており、高齢でもあるため、旧寺を「龍馬・密約の宿」として、御手洗のような町歩きの拠点にすれば如何だろうか。後日、大長の独自設定の回遊コースも投稿予定である。



因みに御手洗の金子邸(現地に解説板あり)に龍馬が滞在したのは、慶応3430日。いろは丸衝突事故の件で、鞆の浦から下関に向かう途次だった。

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