[道太郎の伝記から見た坂本龍馬]
先日、「新谷道太郎」での検索訪問があったから、昭和12年に刊行された諏訪正著の道太郎の伝記に見る龍馬について述べ
る。ただ、以前も述べたように、龍馬主導の四藩軍事同盟締結(過去の記事は→こちら
)の日にちや、それに関わった人物が事実とは異なる等、書籍の内容は必ずしも正確であるとは言えない。更に「汗血千里駒」のような伝記小説的色彩を帯びており、大政奉還時は龍馬が直接、徳川慶喜公に奉還を迫る内容になっているのである。
元治元年8月中旬、京で龍馬が初めて西郷隆盛と面会した時のことについてのことだが、後日、龍馬は隆盛の印象を「西郷は馬鹿も馬鹿、大馬鹿である。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く、その馬鹿の幅が分からない。」と語った、ということは有名な話。この文章を見て、ほぼ全ての者が、龍馬は隆盛を寺院の梵鐘に喩えたものと思っているだろう。しかし道太郎の伝記では異なる。
伝記では龍馬がこの言を発したのは、慶応3年3月上旬、呉市大崎下島の新谷道太郎邸、即ち旧本徳寺を訪れた時だとする。『龍馬は仏壇の前の鐘を取り上げ、傍らの火箸を抜いて、
カァンと一つ叩いた。・・・中略・・・次に龍馬は線香を一本引き抜いて、鐘を叩いて音を問ふ。』と記述し、その後にあの隆盛評を龍馬が発したことになっている。尚、この鐘は家庭用の小さな鈴(りん)ではなく、大きい寺院用のものだろう。寺院では鈴とは言わない。
龍馬と道太郎の初対面は慶応3年1月29日、京の伏見だったという。その時、道太郎も大政奉還論を龍馬に語ったという。しかし記録ではこの時期、龍馬は長崎にいたことになっている。日にちや各事象の内容が記録と食い違うのは、道太郎が90代の時に著者が取材しており、道太郎の記憶の混同や記憶違いがあったことも考えられる。
龍馬は道太郎邸を去る間際、外に見える桃の木を見て、開花時期に再度、友人四、五名連れてくるから、その時、宿を貸してくれ、と言ったという。四藩軍事同盟の密約が成立するのは、4度目の道太郎邸訪問時であったとしている。龍馬と道太郎が会ったのは京での初対面時を合わせて5回のようである。
邸で本当はどんな密議があったのだろうか。
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