純信、お馬、慶全による幕末の恋愛スキャンダル「よさこい物語」を取り上げた本シリーズは4年前、完結したが、その時のシリーズで取り上げなかった香美市の二ヶ所の史跡を紹介したい。
(1) 吉祥寺跡(土佐山田町楠目談議所)
純信は五台山竹林寺脇坊・南ノ坊住職になる前の弘化年間頃、浦照山成就院吉祥寺の住職になっていた。この寺には純信の弟・松蔵(江渕六弥)が寺男として勤めていたから、その縁もあってのことかも知れない。が、松蔵は嘉永元年7月、物部川で泳いでいて溺死している。
松蔵の墓は平成初期頃発見されたが、その墓石に「戸波郷市野々村江渕要作躮(みわけ=せがれのこと)吉祥寺現住純心
弟松蔵墓」と刻字されてあったことから、少なくとも嘉永元年には純信が吉祥寺住職だったことが分かる。
安政2年5月19日、純信はお馬と共に脱藩する際、この吉祥寺に寄って、人夫兼道案内として地元の安右衛門を雇っている。
吉祥寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、境内の西隅に辛うじて観音堂だけが残っている。その下に松蔵の墓がある。吉祥寺本堂跡(下の地図)は田圃になっている。
ところで、寺跡の探訪だけでは物足らないため、そこから北東にある雪ヶ峰城跡を徒歩で回遊してみた。この城跡は昭和期の文献では土佐山田町指定史跡と掲載されていたが、各郭はヤブに覆われている。それでも深さ5m以上の堀切が残っており、それについては見応えがある。
雪ヶ峰(86m)に築かれたこの城の城主は山田元義の家臣・山田監物。主君に代わって長宗我部軍と戦い、討死した。
詰ノ段の北と南に郭を擁し、北端に轟神社が建ち、その北に前述の堀切がある。
コースとしては、本堂跡田圃の畦を北東に辿って道路に出て南東に下る。すぐの三差路は北東に折れる。次の三差路は右折、その次の三差路は左折し、廃墟化しつつある研究棟沿いを北東に進む。
次の三差路に突き当たると、下にカーブを描くコンクリート歩道が見えるので、これを辿る。
道はすぐ轟神社の参道に出るので、これを上がる。
左手に水路道が分岐する所の少々手前に、南東に上がる踏み跡が現れるが、これを上がると詰ノ段に登ることができる。
詰ノ段と周辺の郭を確認すると参道に戻る。
水路道分岐の少々先には水路隧道「神泉隧道」が開口している。
参道の最高所が前述の堀切で、その先に下ると神泉隧道の出口がある。
帰路は前述の水路道を行く。この道は大きくカーブを繰り返して道路に出る。これを下って行くと往路の研究棟沿いの三差路に戻りつく。
尚、吉祥寺跡の最寄りのバス停は「山田堰」。
(2) 笹番所跡(物部町笹土居番)
純信とお馬が讃岐・金刀比羅宮一の坂の旅籠・高知屋で捕縛され、土佐に護送後、城下の山田橋番所で取り調べを受け、山田町奉行・松岡毅軒から判決を言い渡されるが、その判決文書の中に「笹口御境目潜出」という記述がある。これは二人が笹村の境目番所「笹番所」を抜けて阿波方面へ脱藩したことを意味している。
笹番所は藩政時代初期、仮番所として設置され、寛永6年(1629)、本番所となり、明治4年に廃止されるまで代々西尾氏が番役を務めた。西尾氏は昭和末頃までこの地に在住していたが、現在、廃屋となった家屋や便所、井戸等が残る中、一際目を引くのが白壁の蔵。かつてはこの中に刀や槍、鉄砲、弓矢、サス又等が収納されていたことだろう。
屋敷跡の石垣沿いの小径を北に進めば、左手に両側が高い石垣で覆われた道が分岐するが、この道の北側に、平成13年に屋根の葺き替え工事が行われた観音堂が建つ。県の文化財に指定されても可笑しくないほど貴重で重厚なものだが、完全に忘れ去られた観がある。
笹番所跡(下の地図)については県道49号沿いに案内板が建っているが、現在、それは錆び付いて文字が見えない。目印になるのは「笹休暇村直売所」。この斜め向かいの入口に掲示板が建つ、コンクリート車道を上って行った終点に番所跡がある。
因みに直売所の少々手前の南側に、茶色い斜めの屋根が印象的な建物があるが、これは廃業した「笹渓谷温泉」。
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