≪高杉晋作の墓をあばこうとした藩士≫
時を再び教法寺事件直後に戻します。
奇兵隊によって寺で斬殺された蔵田幾之進は以前も解説したように、晋作より家禄が百石以上も多い上級武士。幾之進の遺子で長男の千弥はすぐさま藩に仇討を願い出ます。
しかし藩は仇討を許可しませんでした。代わりに香花料、十両と訓戒状を千弥に送ります。
その書状のあらましは、「奇兵隊は蔵之
進への遺恨があってのことではない。憂国の念から生じた突発的なことである。また、暗闇の中、両者入り乱れての争いでの出来事故、犯人捜しも困難を極める。幾之進は殿の攘夷の意を奉じて死を遂げたのであるから、是非、その遺志を継ぎ、今後も藩のために尽くして貰いたい。」というようなことでした。
が、納得できない千弥は何度も藩に仇討を請願します。そのうち、藩の方も千弥に手をやくようになり、千弥の親類・知人もいつしか、千弥との交際を断ってしまいます。
犯人が判明しないとなると、千弥は晋作に対して恨みを募らすようになります。
しかし晋作は奇兵隊総督解任後も藩の要職に就き、四国(四ヶ国)連合艦隊との戦争終結の講和全権大使等も務める等、とても近づける存在ではありません。
そこで晋作率いる正義党と、佐幕派の俗論党との内訌戦時、俗論党軍に入り、晋作の命を狙う機会を窺います。
が、瞬く間に晋作や奇兵隊等の正義党は俗論党軍を打ち破り、四境の役でも目覚ましい活躍を続け、なかなか晋作を討つ機会は訪れませ
ん。
そのうち晋作は病没、遂に千弥は仇討を果たすことができませんでした。
それならば、と、今度千弥は晋作の墓を暴き、そこで割腹する覚悟を決めます。
が、それに勘づいた母、とみは千弥に家の断絶になるようなことは絶対しないよう諭し、千弥もこれを受け入れます。
その甲斐あって、現在でも蔵田家は存続しています。今でもその子孫は、高杉晋作と奇兵隊に対する憎悪の念が消えることはないと言います。
ps:前回記事の追伸で、この(6)で完結させる旨述べましたが、蔵田家の逸話が長すぎたため、今回もシリーズを完結させることができませんでした。
次回、奇兵隊側の被害者の子孫に起こった事象について語ります。
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