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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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大泉洋が怪異体験をした四国霊場寺(2)

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≪崇徳上皇の遺体を浸した泉≫

前回、大泉洋が夜間、四国霊場第79番札所・高照院を訪れ、ビデオ撮影を開始したところ、画像が乱れ始め、画面が真っ黒になり、境内での撮影ができなくなったけれども、その後、車内でのカメラテストでは異常が見つからなかった旨、記述しましたが、その寺の本院、摩尼珠院は、現在の大河ドラマ「平清盛」にも登場する「怨霊上皇」こと、崇徳上皇の遺体を安置していた所。また、生前は上皇自身も頻繁に立ち寄っていました。



摩尼珠院の創始は弘法大師で、大師がこの地を巡錫時、霊感を以て霊木で十一面観音像、阿弥陀如来像、愛染明王像を彫り、堂宇に安置し、更に薬師如来の石像を造り、近くのの側に安置、そこで秘法を修していたところ、金山権現が出現し、如意宝珠を感得。



これに因んで堂宇を金華山摩尼珠院と号しま自然、戦跡、ときどき龍馬-高照院入口 す。当時、高照院の南東の城山中腹にありましたが、廃寺になって久しい現在でも、高照院の奥の院となっており、修行場も現存しています。



崇徳上皇は鳥羽天皇の第一皇子で、保安四年(1123)、鳥羽帝からの譲位により即位するものの、その後、鳥羽院は藤原得子との間に生まれた体仁(なりひと)皇太子を溺愛し、僅か生後三か月で崇徳帝を無理やり退位させ、体仁皇太子を近衛天皇として即位させます。



そんな近衛帝は17歳の若さで崩御してしまいますが、これは崇徳院と藤原頼長による呪詛であるとの噂が巷間に流れます。それを信じた得子は鳥羽院に報告、院もこれを鵜呑みにし、二人は崇徳院への憎悪を募らせます。



近衛帝の次の天皇を決める際も崇徳院側と得子側が対立、それに摂関家である藤原家の内紛が重なり、鳥羽帝没後の1156年、保元の乱が勃発します。因みにこの時、平清盛と源義朝は共に得子・後白河帝側について戦っています。自然、戦跡、ときどき龍馬-八十場の霊泉



この戦に敗北した崇徳院は同年、讃岐に配流されるのです。尚、一般には崇徳院は現在の坂出市松山津に上陸されたとされていますが、その前に離島、直島にしばらく逗留しています。島名を付けたのも崇徳院だと言われているのです。



崇徳院は当初、雲井御所で過ごされていましたが、その後、鼓岡御所に移ります。この鼓岡御所滞在時に、度々摩尼珠院に出かけられ、心を休められていたのです。写経を習われたのもこの寺かも知れません。



崇徳院はこの地に配流されて8年後、崩御されますが、その死は病没とも暗殺とも言われています。地元では暗殺されたとされており、その遺跡もあります。


院の遺骸は当初、ゆかりの摩尼珠院へ安置されていましたが、夏場だったため、京からの検死役人が来るまでの間に腐敗してはいけないと、麓の弘法大師が修法を行った「八十場(やそば)の霊泉」に浸されます。



その後、検死を終えた遺骸は棺に入れられ、荼毘にふす場所まで担ぎ上げられるのですが、その途中、一天俄かに掻き曇り、稲光が走ります。そして棺が・・・・。次回へ続く。



高照院はJR予讃線八十場駅から徒歩数分。八十場の霊泉は寺から西へ約200m

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