Quantcast
Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
Viewing all 1077 articles
Browse latest View live

お龍、土佐和食(わじき)へ(13)

$
0
0

[坂本龍馬が訪れた赤岡の寺院跡]

(11ヶ月ぶりのシリーズ再開)

小松与右衛門邸の街道を挟んだ向かいには、カトリック赤岡教会(聖ヨゼフ教会)があるが、これは龍馬と交流した須藤楠吉と間接的に関係がある。

 

以前解説したように、楠吉は西浜の浦上キリシタン獄舎の牢番を買って出て、キリシタンらの世話を献身的に行った。それは明治政府や高知藩(明治、土佐藩から高知藩になる)の都合で、自らの寺を廃寺にされ、還俗させられたことから、迫害されるキリシタンの辛さが分かるからである。

 

地元民も賤民として長い間差別されてきたこともあり、キリシタンに同情し、また、その揺るがない固い信念を貫く様を尊敬の念をもって見ていた。その時、赤岡にキリスト教信仰の種が蒔かれた。

 

時を経て昭和7年、信仰の種は開花する。西浜獄舎の浦上キリシタン殉教(十数名が病死)を記念して、この地に教会が建設されたのである。当時はキリシタン投獄のことを知る者も生存していたことから、感慨もひとしおだったことだろう。

尚、教会の建物は昭和末、改築されている。確か、敷地内に保育園か幼稚園があったように思う。寺院でも境内にそれらの施設を建設するケースが全国的に見られる。

 

さて、その龍馬も訪れたことのある楠吉が住職を務めていた寺だが、跡地は伊能忠敬の旧測量地跡の十字路を北に入った突き当たりにある。赤岡小学校がその跡地である。

 

その寺、正福寺は以前触れた与楽寺の末寺で、山号を有せず、来歴も詳らかではない。ただ、赤岡を領していた、武田信玄と先祖が同じ土豪で土佐七守護の一氏、香宗我部氏が創建し、寺領30石を寄進したことは分かっている。

 

境内は東西20間、南北23間の規模で、本堂以外にもいくつかの堂宇があったが、地蔵堂のみ、祠の如く規模が縮小され、校舎南東の移設された墓地の隅(墓地の北西隅=体育館北側)に寺の手水鉢と共に残っている。その手水鉢は龍馬も使用したことだろう。

 

地蔵堂の南には、赤岡初の私塾・北固塾を開設した漢学者、田宮宇内(うない)の墓が移設されている。赤岡の郷士の家に宝暦11年、生まれたが、成人後は江戸に遊学して教史、詩文を学び、その後、摂津に下って幕府官許の学問所・懐徳堂で学んだ。

 

その後、京都四条で塾を開いたが、3年で赤岡に帰郷。文化13年、北固塾を開き、教書や書道を教えた。

 

墓碑の銘は土佐藩校・教授館の学頭でもあった日根野鏡水(弘亨大卿)による。鏡水の先祖は豊臣から徳川家に仕え、延宝5年、土佐藩に仕官した。

尚、鏡水と日根野道場の日根野弁治の先祖が同一かどうかは資料・文献が散逸しているため、定かではない。

 

体育館の建つ地は大立寺跡で、安永年間、与楽寺末寺・持宝坊が寺に昇格して改称した。元は裏町にあったが、宝永5年の赤岡大火災で焼失し、10年後、再建された。明治11年、この地は香美郡役所となり、その後、赤岡町役場と変わった。戦後は赤岡簡易裁判所が新築され、平成26年、現在の体育館が建った。

このようにこの地は歴史の変遷を経ていることから、「歴史の丘公園」として整備され、東隣の検察庁跡に休憩所が設けられている。

 

因みに、小学校の南側石垣の一部も正福寺当時のものである模様。

 

PS:今年は病名が分からぬまま、睡眠時無呼吸症候群に苦しめられていたため、記事作成に長時間かかる(各種文献も読む必要があるため)龍馬等歴史関係の記事は殆ど投稿しなかった。

昨日から本格的治療を開始したため、今後は他の休止中のシリーズものも再開できるかも知れない。但し、予定は未定。

 

他の龍馬のシリーズも再開してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック。

にほんブログ村


高知県野良猫名所一覧プラスPART3と転生した飼い猫

$
0
0

このシリーズは今回が最後になるのではないかと思う。その要因の一つに、私が最近、ネットの猫の里親募集に応募して、子猫の里親になったことが挙げられる。その子猫には35年越しの運命を感じた。

 

(1)  県立春野総合運動公園(高知市春野町)

 以前、恐らく餌場が第9駐車場等にあったものと思われるが、ネットによると、公園側と餌やり側が協議して、餌場を撤廃した模様。何割かの猫は去勢・不妊されている。

 

 確認できた猫は、第5駐車場南西の資材置き場周辺に二匹(写真)と、メイン陸上競技場の南東側の階段下付近に数匹。階段下付近は猫の集会場になっているらしく、一匹の猫を尾行して発見した。

 

 どちらの場所の猫も警戒心が強いが、数メートル位まで近寄って餌を置くと、食べてくれる。

 

(2)  土讃線土佐新荘駅トイレ(須崎市西町二丁目)

無人駅の外にある古ぼけたトイレの入り口から入った所が餌場になっている。すぐ側に小便器があるので女性は近寄り難い。

ここは若い猫が多く、基本的に警戒心は強い。

 

(3)  物部川親水スポーツ広場(香南市野市)

物部川橋西の交差点から北に入った所。トイレのある所から河原沿いへ下った地点の広場や、その一段下等に何匹かいる。

 

ここの情報はネットにはなかったが、野良猫犬保護団体から物部川沿いのいくつかの公園に野良猫がいる旨の情報を得た。

かつて物部川右岸(西岸)は広範囲に親水公園が点在していたが、その殆どが廃れている。

 

(4)  西分庄屋跡(高知市春野町)

 以前、野良猫とは別の記事で、息子が戊辰戦争で戦死した西分庄屋について簡単に触れたが、庄屋子孫の辻氏が昭和期、転居して以降、跡地は数軒の民家と畑になった。

 

 跡地の北西隅の民家(写真の突き当たり右手=現在、物置として利用している可能性あり)が餌やりをしている模様で、何匹かの猫がたむろしており、飼い猫と野良猫の区別がつかない。

 尚、庄屋跡地は私有地と共有地、私道の境界が分かり難い。

 

 

ところで前述の「35年越しの運命を感じた」子猫について述べたい。以前触れたかも知れないが、拙宅が建て替え前の’81年時、近所の家から若い猫を貰った。しかし何ヶ月か経ったある日、その猫は無残な姿となって帰宅した。片方の前足が付け根から足先まで、肉がなくなって骨だけになっており、皮を引きずっていたのである。まるで機械で肉をそぎ落としたように、きれいになくなっていた。

もう手の施しようがなく、翌日、動物病院で安楽死させた。

 

それがトラウマとなり、何十年も猫を飼うことができなかったが、今年夏、世話している野良猫が室内に上がるようになってから、再び猫を飼いたいと思うようになった。

 

しかしその野良は飼い猫にはできなかったため、県内外の野良猫スポットを巡っていたが、なぜか以前だったらいた、簡単に捕まえられるような猫がいない。いても少し目を離した隙にいなくなる。

 

そして今月に入り、猫の里親募集サイトで探すようになった。しかし譲渡条件に、飼育環境を確認後、引き渡しする、というものを入れているケースが多く、憂慮していた。

最近、あるサイトで隣の市の住民が子猫を里親募集に掲載していたため、応募したのだが、結局、拙宅内での引き渡しになってしまった。

 

譲渡主は20代の女性で、母親を連れて来たのだが(私が男であるため、付き添いとして)、なんとその母親は私の姉の小学校時代の同級生だった。

更に譲渡主の女性の下の名に「子」を付けると、私が大学3年時に片想いしていた女性と同名(漢字も同じ)。因みにその片想いの女性は、「スケバン刑事Ⅱ」時代の南野陽子似だった。

 

が、一番驚いたのは子猫の名前。何と’81年に亡くなった飼い猫と同じだったのである。勿論猫種も同じ。これはまるで35年前の飼い猫の生まれ変わりではないかと。つまり、私に会うため、35年かけて転生してきたのではないかと。

 

そんなこんなで、猫と過ごす時間が多くなるため、またブログを書く時間がなくなる・・・?

 

飼い猫との触れ合いとブログ記事作成を両立させてほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

お龍、土佐和食(わじき)へ(14)

$
0
0

[「無人島長平」の船を出した船問屋]

検察庁跡から南に坂を下ってまた土佐東街道に突き当たると、その西側角に「香宗屋」という屋号を持つ「()岡崎水産」がある。ここはウォーキングマップ「ぶらっと赤岡」(絵金蔵等で頒布)によると、赤岡のまちづくりに尽力した「香宗我部七人衆」の一人の屋敷だったという。七人衆とは、香宗我部家の七人の重臣を指しているのだろうか。その一人が岡崎氏だったということか。

 

香宗我部氏の土佐に於ける初代は中原秋家で、建久4(1193)、香美郡香宗我部郷と深淵郷の地頭に任じられ、土佐に入国し、香宗我部氏を名乗った。以後、土着の豪族となり、戦国期には「土佐七守護」の一つに数えられるまでに勢力を拡大させる。

 

しかし七守護の雄、長宗我部氏が台頭してくると、生き残りをかけて長宗我部家と連合すべく、長宗我部元親の弟を香宗我部家の当主に迎え入れた。故に七人衆が中原系の家臣なのか、長宗我部系の家臣なのかは分からない。因みに下の写真は岡崎家の子供たち。

 

岡崎水産の東には池田酒店があるが、ここは以前解説した伊能忠敬に随行した天文方役人らが宿泊した平島屋跡。

天文学の心得がある者は測量作業の見学が許されていたが、山南村の農民、秀助が願い出て、日中は測量作業を手伝い、夜は平島屋の裏庭で測量器具の組み立て等を手伝っていた。

 

池田酒店の東隣の旧家は船問屋・松屋跡だが、かの「無人島長平」こと、野村長平が漂流した船はこの松屋の船だった。長平を主人公にした小説「漂流」は1981年、監督・森谷司郎 、主演・北大路欣也で映画化されているので、歴史ファンならずともご存知の方は多いだろう。

 

赤岡町の東隣、香我美町岸本の水主だった長平は24歳時の天明5(1785)129日、和食(わじき)と手結の御蔵米を田野と奈半利に廻漕した後、荒天となり、船は室戸の羽根沖まで流され、梶を破損、漂流が始まる。

 

213日、何とか鳥島に漂着したが、過酷な無人島生活故、2年以内に仲間は全て(3)死去する。

その後、大坂や薩摩の船も漂着したため、共同で小船を造り、寛政9(1797)68日、14人で島を脱出。13日、青ヶ島に到着し、島民の協力で八丈島へ向かった。その島で長平は亡くなった仲間を弔った。

 

94日に島を出航、17日、浦賀に入港して番所で取り調べを受けた後、江戸に行き、再度取り調べを受け、翌月、土佐藩江戸上屋敷へ引き渡された。上屋敷では山内摂津守等の接待を受け、漂流談でたちまち「時の人」となった。

 

江戸を出立したのは翌年15日で、約一ヶ月かけて土佐の浦戸港に入港、その翌日、岸本に帰郷することになる。

土佐でも人気者となり、翌月には藩主に召しされ、二の丸で鳥島の模型を使って漂流生活について説明した。以後、「野村」姓を許され、藩から年間米三俵を支給されることになった。

 

次回、いよいよ赤岡を抜け、香我美町岸本へと入る。

今年中にこのシリーズを完結させ、他の中断しているシリーズを再開してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

四国三県の寄り道イルミネーション

$
0
0

もうイルミネーションがともる季節だが、私は基本的に夜、出歩かないため、イルミネーションを目的に出かけることはない。しかしどこかに行った帰り道、見かけると寄ることがある。そこで「たまたま寄った」高知・愛媛・香川県のイルミネーションを簡単に紹介したい。

 

(1)  田野イルミネーション・フェスタ(高知県田野町)

○点灯時期: 11月末頃から翌年1月中旬。

○電飾球数:15,000

○場所:田野町役場西側

 

「天使になれるイルミネーション」があることで知られる。他に光のトンネルや雪だるま、くじらが潮を吹く電飾等あり。

尚、この地は以前解説した、魚梁瀬森林鉄道の田野貯木場跡の一角。つまり廃線跡の探訪がてら寄ったもの。

 

(2)  水車亭イルミネーション(高知県四万十町)

 ○点灯時期: 1112日~平成29131

 ○電飾球数:17万球

 ○場所:国道56号沿い水車亭(みずぐるまや)周辺

 

三角屋根型電飾「けんぴタワー」を中心に光のトンネルやイルカや海亀が泳ぐ電飾等がある。また、店のシンボルである巨大な水車も色が変わるライトによってライトアップされており、独特の雰囲気を醸し出している。

 

水車亭は塩ケンピやチョコ・ケンピ等が有名な菓子店だが、イルミネーション点灯時期は駐車場を開放しており、21:30まで楽しむことができる。

ここに寄ったのは、以前紹介した土佐清水市松尾の海中洞窟「海老宿」に行った帰り。

 

(3)  あけはまシーサイド・イルミネーション(愛媛県西予市)

 ○点灯時期: 124日~平成29214

 ○電飾球数:10万球

 ○場所:あけはまシーサイドサンパーク

 

30mの光のトンネルを始め、各施設への道沿い、大早津海水浴場のヤシの木等が鮮やかに照らされる。

園内には塩風呂、レストラン、民宿、歴史民俗資料館や遊具等があるが、他にも未整備ではあるが、石灰炭鉱施設跡が園沿い斜面から南西の小岬にかけて点在している。

 

また、駐車場には「四国西予ジオパーク」の「大早津石灰岩」の看板が建っていたと思うが、現地への道標はない。そこへ向かうには、塩風呂施設から上る車道を進み、下方にグランドがある谷を越えて、次の右ヘアピンカーブの少々手前から右に入るコンクリート車道に入る。その終点の採石場沿いにある。

 

ここへ寄ったのは元旦で、宇和島市のコンクリート防空壕や覗き岩、以前紹介した西予市の超古代遺跡である鉾岩と机岩、河童の狛犬等を探訪した帰り。

 

(4)  ウィンターファンタジー(香川県まんのう町)

 ○点灯時期: 1119日~平成2913(但し毎週火曜と年末は休園)

 ○電飾球数:55万球(四国最大)

 ○場所: 国営讃岐まんのう公園(入園料と駐車料金は有料)

 

園内の「エントランス広場」、「緑と石のヴィスタ」、「昇竜の滝」、「風花の庭」、「芝生広場」の一部、「ドラ夢の家」等で点灯されるが、四国最大の規模だけに圧巻。芝生広場は電飾の花畑と化し、電飾滝が遊歩道沿いに衝立のように聳える。

 

その他、高さ10mのシンボルツリー、約100mの光のトンネル、高さ5mのシャンパングラスタワー(常時水が流れ落ちている)等がある。

 

私は駐車料金を節約するため、西口ゲート前から南東に折れる車道の路肩に駐車したと思う。が、閉園(2000だが正月三が日は21:00)後、周辺は街灯一つないため真っ暗となり、持参の登山用ヘッドランプを使用しても駐車地に帰り着くのに難儀した。

 

ここに寄ったのは、以前解説した、坂本龍馬が丸亀や江戸に剣術修行に行く際、通過した番所が移築されている高松市の四国村や高松平家物語歴史館を見学後、綾川町に移動し、イオンモール綾川内のロゴスショップに寄ったため、隣接するまんのう町のイルミネーションでも見て帰ろうと思った次第。

 

四国のマイナーな場所のイルミネーションを探訪して、その一覧を投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

鉄道公園の超ミニ鉄道廃線跡(観音寺市)

$
0
0

10年ほど前、香川県観音寺市の住宅地図を見ていると、「かんぽの宿・観音寺」東の新興住宅地(池之尻町)の一角に「鉄道公園」なるものを見つけた。その時、興味はややあったものの、その後、近くの観音寺海軍航空隊の基地跡の壕群(二枚目写真は三谷池南東の尾根下の塹壕らしきもの)を探訪時も時間がなかったため、訪れることはなかった。また、ネットで検索してもこの公園関連のものはなかった。

 

が、先日、近くの野良猫スポットを訪れた際、寄ってみると、想像していたものとは異なっていた。てっきり、SLでも展示されてあるものと思っていたが、実際公園にあったのは、機関車の車輪一つ。

 

写真を撮り終えて帰ろうとした時、ふと地面を見ると、レールが公園を周回して敷かれていることが分かった。しかも一般的なミニ鉄道(下の写真は愛媛県砥部町「道の駅ひろた」対岸のこども列車)よりかなり細い。軌間は20cmもないだろう。これを走っていた超ミニ機関車は園児を乗せることができたのだろうか。それともペット専用列車か。

 

いずれにしても枕木が外れている箇所があることから、何年も前に廃線になっているのだろう。それに公園名すら表示がなく、土曜の午後なのに遊具のある園内に人っ子一人いない。

機関車を拝みたかったが、コンクリート造りの機関庫は鍵がかけられており、内部を窺うことはできなかった。

 

公園には駐車場がないので、マイカーはかんぽの宿西の観音寺市総合運動公園に駐車した。

駐車場(正門側の)から東方の三谷池の堤防道に上がり、北東に進む。

車道に出ると南下し、かんぽの宿上り口を過ぎて一つ目の左折道に入る。四差路に突き当たると左折。ほどなく左手に公園が見えてくる。

 

因みに観音寺市総合運動公園は母神山(はがみやま)古墳群の何割かを崩して造成しているが、鑵子塚(かんすづか)古墳は内部調査されて駐車場東に保存されており、他にも自由広場の一角に複数の古墳や、移設された石室がある。

 

起点から終点へと綿密に探査する鉄道廃線跡の新シリーズの投稿も開始してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

1,280円!冬の藪山登山向きアウター最安値

$
0
0

[破けにくい裏フリースブルゾン最安値]

以前私は、冬山でも上着は裏地がぺらぺらのナイロンのリップストップ構造素材(引き裂き強度が高い素材)のものを着用している旨、記述したが、年齢を重ねるにつき、身体の基礎代謝力が低下し、それでは寒くなってきた。

 

故に20142015年にかけての冬場、標高千メートル以上の無名雪山登山時は、裏地がフリースのリップストップ素材のアウターを着用していた。しかし表地はリップストップ・ナイロンなので、軽防寒商品になる。それは何度も述べて来たように、登山ウェア着用の基本はレイヤリング(機能的重ね着を行うこと)であるため。だから中綿入りのアウターは着用しない。尚、下の写真は国道から登れるいの町の黒滝山山頂(1210.3m)。コースガイドは→こちら。

 

中着はフルジップのマイクロフリース。ベンチレーション(汗による熱気の排出)のない安価なアウターでも、この中着やその下に着用する長袖フリースで、ある程度の汗は吸収できる。

 

そんな裏地がフリースのリップストップ・アウターで最安値なのが、作業着店の全国チェーン(厳密に言うとチェーン展開ではなく、代理店制)「ワークマン」の取扱い商品「リップ裏フリースBOX型ブルゾン」で、価格は1,280円。

 

左胸にファスナー・ポケットがあるため、防水メモ帳やコースサイン・テープ等を入れることができる。

カラーはブルー、ネイビー、ブラック、チャコールの4色だが、チャコールは若干グリーンがかって見える。

 

一応、私は全色購入しているが、茶系がないため、それについてはネットで「アイトスAZ- 50111」のオレンジ(写真ではイエローに見えるが実際は普通のオレンジ)を購入した。カラーリング以外はワークマンのものと変わらないように思う。但し価格はBOX型ブルゾンの約倍。それでもネットでは2,000円台半ば位からあるので安い。

 

 

 

ただ、リップストップでも過信は禁物で、尖った枝や有刺鉄線のようなものに引っ掻けてしまうと、破ける可能性がある。

 

ワークマンは高知県では、高知若松店、高知一ツ橋店、高知南国店の三店舗があるが、若松店では別の商品を交換して貰う際、店長(代理店社長)から「メーカーに在庫がないから交換はできない」と嘘をつかれた。しかしワークマンのサイトでは交換できることが明記されていた。面倒な作業はやりたくなかったのだろう。

 

本部に抗議して交換して貰ったが、それでも若松店の社長(代理店制だから実質的には「店長」ではない)は謝罪もしなかった。もし直営チェーン店だったとしたら、こんな対応はあり得ない。

因みに県内で一番売り場面積が広いのは南国店。

 

良心的な店舗で良心的な商品を購入したい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

お龍、土佐和食(わじき)へ(15)

$
0
0

[短命に終わった乗合馬車]

松屋跡から徒歩2分ほど土佐東街道を東進した所の、南北の歩道が交差する十字路北東角の民家沿いに、「江見町馬車立場跡」の看板が建っている。藩政期、「立場(たてば)」とは駕籠を置いて休止する所の意味として使用されていたが、明治に入ると人力車や乗合馬車についても使用されるようになった。但し、人力・馬車の場合は、ターミナル的意味も含む。

 

高知県に乗合馬車が導入されたのは明治20年だが、赤岡には明治末、導入され、江見町馬車立場南東向かいの今西菓子店西隣に馬車会社が設立された。

 

高知城下や下田方面行きの立場(下街道馬車立場)は以前触れたかも知れないが、香宗川橋北東角にあった「待合茶屋」の東隣にあった。

 

この江見町馬車立場は和食(わじき)方面行きで、下街道馬車立場同様、一日三往復の便があった。

馬車は10人乗りで、座席が木製だったため、長距離乗車時は腰が痛くなったという。

 

しかし乗合馬車の歴史は短かった。大正13128日、土佐電鉄の前身、高知鉄道が後免-手結間を開通させたため、馬車会社は大正末までに廃業したのである。

 

そこから更に2分ほど行った所が赤岡町と香我美町岸本(かつての岸本村)の境界なのだが、なぜか境界線が歪になっている。街道から北はグループホーム「香美安心ハウス」の西側が境界なのだが、街道から南の境界線は西にずれており、南北に連なる豪家である二軒の橋本家の西側が境界で、二軒目の橋本家を過ぎると境界線はまた東に戻っている。

 

これは近代以降、境界線上に橋本家が建設されたため、境界線をずらしたのではないだろうか。その証拠に、街道に面する橋本家の門の所に秋葉神社の祠がある。この祠の東沿いが香美安心ハウス西側の境界線の延長になる。

秋葉神社は火除けの神なので、以前触れた赤岡大火後に防火のため、建立したものだろう。同様の祠の秋葉神社は岸本にもある。

 

香美安心ハウスの駐車場を挟んだ東には旧家(上の写真)があるが、ここは中沢医院跡。岸本出身の中沢氏と言えば、中沢薬業()の創業者、中沢寅吉氏(1879-1965)が有名だが、その親戚筋かも知れない。

 

その東方を流れる香宗川放水路は以前陸地で、明神橋北側に土佐勤王党結成の地であり、武市瑞山も足繫く通っていた佐田屋があった(下の写真)ことは以前詳しく解説した。

佐田屋主人の本家(明神橋より東方)は橋本姓なので、前述の橋本氏はその分家かも知れない。

 

次回は佐賀の乱首謀者の江藤新平が護送時に宿泊した屋敷跡を紹介する。

赤岡同様、岸本の各史跡や伝承地にも期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

天空の鳥居三景(神社遺産)

$
0
0

[気軽に絶景神域を探訪]

全国各地の高山の霊山にある鳥居からは絶景が広がっているケースが多いが、気軽に「絶景鳥居」を探訪して戴くべく、数十秒から15分以下で登れる天空の鳥居を紹介したい。

鳥居越しの景色は、鳥居をフレームに見立てることで、より景観が引き立つ。

 

尚、(1)と(2)は朝方、道路が凍結している可能性があるので、各自治体に確認を。

 

(1)  奥神賀神社鳥居(高知県大豊町と香美市との境界付近)

奥神賀山(1442.9m)は観光客にとっては無名だが、高知県内の登山愛好家では知らない者がいないほど有名で、「れいほくネイチャーハント」の山にも指定されている。

 

安徳帝御陵伝説のある高板山(こうのいたやま→「皇の居た山」の転化だと言われる)から奥神賀山~中都山(なかつやま)~神賀山~神賀神社に到る尾根は、修験者が行き交った道であり、各所に祠や奇岩がある。

 

中でも奥神賀山周辺の尾根は展望の優れただだっ広い笹原となっており、一角に奥神賀神社が鎮座する。これは神賀神社の奥の院とされているが、周辺の笹原は平家落人の烽火場跡だと言われている。

山奥の山だが、空気の澄んだ冬場は太平洋も遠望できることがある。

 

アプローチは国道439(酷道ヨサク)から南下するルートや、国道195号から北上するルートがあるが、狭い酷道よりは二車線の後者の国道から北上した方がいいだろう。

 

香美市物部町大栃から県道49号に左折後、韮生川橋を渡り、猪佐古川を遡って林道猪佐古線を上がり、高板山北西の三ノ森登山口周辺の三差路に出ると左折する。

この道の最高所が豊永峠で、奥神賀山最短コース登山口がある。そこから南西に尾根を十数分登れば奥神賀神社。該当地形図は「東土居」。

 

(2)  中津明神鳥居(高知県仁淀川町と愛媛県久万高原町との境界付近)

高知県下の山の中で、車で登頂できる最も高い山「中津明神山(1540.6m」」は、山頂から360度のパノラマが広がっており、石鎚山系や四国カルスト等、名だたる山々を一望できる。

 

山頂には石鎚権現と大山衹神社が祀られており、作業道沿いから山頂にかけていくつもの鳥居が建っているが、森林限界を超えている山だけに、鳥居からも絶景が広がっている。

 

車で登頂できるとは言え、山好きの中には、愛媛県側から登山道を上がってくる登山者もおり、毎年81日に山開きが行われ、信者が石鎚権現の御神体を背負って登り、神事の後、大山衹神への奉納相撲が行われる。

 

アプローチは、仁淀川支流の中津渓谷から吾川スカイパークを経て、道なりに終点まで進むだけ。

中津明神から帰りに時間があれば、以前岩塔の三景で紹介した、これまたパノラマを誇る長坂山(「金綱山」或いは「金鉱山」とも)に登ると良い。その林道分岐には「橘山休養林」(少し文字が違ったかも)の道標が建っている。その林道最高所の「協働の森」の石碑が建つ分岐が登山口。「土佐のマイナー山part2」収録山。

 

(3)  高屋神社鳥居(香川県観音寺市)

七宝山系の一座、稲積山(404m)の山頂には延喜式内社、高屋神社が鎮座しており、その下には約230段に及ぶ長大な石段があり、それを上り切った所に絶景鳥居がある。上っている途中で後ろを振り返れば、観音寺市街地から燧灘の眺望が広がっている。

 

鳥居横の展望休憩舎からは、以前、防空監視哨跡を紹介した「有明富士」こと、江甫草山を望見することもできる。

 

現在、神社まで車道が通じているが、神社関係者以外は手前の駐車場からその車道か、昔からの登山道を数分歩くことになる。その尾根道である登山道を上がった所に「高屋巨石群」があるが、ここから石段の石を切り出したのではないかと言われている。但し、尾根道沿いにはあまり巨石と呼べる石はない。ただ、燧灘の展望が優れた岩場はある。

 

アプローチはまず、観音寺市と三豊市の境界にある県道49号のT字路を、不動の滝カントリーパークの標識を見て、そちらの道に折れる。

後はしばらく不動の滝の道標に従って上って行き、左手に三豊産業豊中採石場のある変形五差路に到ると、小さな高屋神社本宮の道標を見て、その狭い道路を直進する。

 

電波塔の建つ431m峰の北西コルの三差路にまた高屋神社の道標が出ているので、それに従うと、ほどなく神社の駐車場に達する。

 

私はそこから昔からの登山道を上がって神社に登り、帰路は車道を下って駐車場に戻り、更に看板を見て「不老長寿の神泉」に寄った後、一等三角点峰「上芝山(点名:高野山・444.2m)」まで縦走し、それから観音寺市と旧仁尾町、旧豊中町との境界であるピークまで戻り、南東の尾根道を下り、龍王神社に寄った後、前述の431m峰北西のコルに下り、車道を駐車場まで帰った。散策程度で回遊することができる。該当地形図は「観音寺」。

 

他の天空シリーズも作ってほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング


もう一つの「土佐の投入堂」、断崖絶壁の岩屋に

$
0
0

[岩の洞穴をくぐって岩窟へ]

以前、鳥取の断崖に建つ国宝、投入堂になぞらえた越知町の「土佐の投入堂」こと聖神社を紹介したが、大豊町の山中にも同様に、断崖絶壁の岩屋に建立された仏堂がある。それは車で登れる高知県嶺北地方屈指の名峰・梶ヶ森(1399.6m)中腹の「御影堂」。

 

弘法大師空海が若かりし頃、この岩窟で17日間、虚空蔵求聞持法を修し、山の妖怪たちを調伏し、山を守護する善神へと変えさせたという。

この岩窟のある箇所を「仏嶽山」と呼び、藩政時代は藩主、山内氏の所有地で、一般人の入山は禁じられていた。

 

当時もその岩屋に小堂はあったが、現在の仏堂が建立されたのは明治12年。中には「神童の尊(きみ)」と呼ばれる若かりし頃の弘法大師座像を安置しているほか、大師が虚空蔵菩薩から授けられたという「天授の宝剣」と、大師が魑魅魍魎を調伏した際に使用したと言われる「大師御手判の石」も納められているようだが、神童の尊以外は見えなかった。

 

御影堂へは大豊町町道梶ヶ森線の1129.9m峰南のコルから定福寺奥の院を経て、「ゴロゴロ八丁」を登れば行き着くが、ゴロゴロ八丁は両側の岩盤の間を縫う急坂のガレ場で、ハイカーも利用する者は少なく、踏み跡も殆ど消えている。故に「上り」には利用したくないコースだが、ルートは誰でも分かる。

 

御影堂のやや手前には古びた堂の道標があったと思うが、堂への上り口自体には道標がない。目印は、東側の頭上の絶壁岩盤から少し飛び出た岩(上の写真の右側)。そこからコースに目線を移していくと、岩が平らになっている部分がある。それが参道で岩窟の入口。途中、洞穴のようになっている箇所の梯子を、身をすぼめて上る。

 

御影堂上り口の先だったか手前だったか忘れたが、道標に従って西に折れてシャクナゲの森休憩所方向への道を少し上がると、御影堂を望見できる場所がある。

 

PS:最近、真田丸でお馴染みの明石全登の土佐で最初に滞在した香美市物部町の屋敷跡(推定地)と香北町の直系子孫邸、毛利勝永の高知市内の屋敷跡を地図上で比定できた。

 

勝永の屋敷跡についてはネットで誤った場所(高知北環状線と入明駅から北上する道路が交わる交差点)が示されており、明石全登の物部町の屋敷跡は史上初公開となる。

 

全登と勝永の伝承地については、真田丸最終回放送日までに記事を投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

真田丸・明石全登の香北町の子孫邸と墓所

$
0
0

大河ドラマ「真田丸」に登場する五人衆の一人でキリシタン大名、明石全登。その生涯は各種サイトや歴史本等で紹介されているから割愛するが、その性格はドラマとは異なり、関ヶ原の合戦では東軍先鋒の福島正則軍を撃破する等、猛将としても知られている。

     

全登の隠棲地や墓、子孫は複数の県に伝えられているが、土佐の古文書「南路志」や「続南路志」によると、全登は大坂城落城後、老母、妻、二人の子供を伴い、紀州から阿波を経て土佐に入り、土佐藩仕置役・小倉少助を頼って庄谷相村ウワクボ(現在の香美市物部町に含まれる)に落ちて来たという。

 

小倉少助については拙著や当ブログでも触れたが、よさこいのお馬の奉公先だった小倉家の本家筋にあたり、また、少助(下の写真が墓)とその父の墓所の墓守をお馬の父、大野新平が務めていた。

  

全登はウワクボでその地域の名家の一つ、公文家から養子を取り、その地を譲って自らは現在の香美市香北町に含まれる下タダ村(符内村であるとも)に移り、所持していた黄金のマリア像を村内の山に祭り、これを氏神「天王宮」として崇敬した。

 

その何年か後、全登は家族を残して五台山麓長江の少助の隠居邸(以前、ここの井戸の写真を当ブログで公開したと思う)に移り、しばらく居住していたが、その後、絶海(たるみ)の隠れ家に移った。

   

しかしその3年後、病没したため、少助によって五台山の小倉家墓所上方に埋葬されたという。しかし府内(符内)にも全登の墓があることから、一説には五台山の墓は全登の兄、閑入斉の墓であるという。が、直系子孫宅があるのは府内(現在の字は根須)の方である。

 

後年、天王宮は全登の子孫宅の近くに下ろされたが、黄金のマリア像は盗難に遭ってしまった。分家した子孫は萱原、上原、岡村等の姓になったという。

尚、「全登」という名は土佐ではあまり馴染みがなく、「明石掃部頭(あかしかもんのかみ)」或いは「明石掃部介」の名で通っている。

この全登の各伝承地を調査するにつき、まず、直系子孫邸と墓を探った。しかし旧物部村や旧香北町、全県的な地名辞典等では当該地名が異なっている。文献によって下田村(下タダ村)、白石部落、府内、根須等と記されている。いずれも昔の庄谷相村に含まれる。

 

そんな中、香北町のある文献に子孫の名とその住所が記載されているものがあった。それには「根須27番地」と記されていたため、’90年代の住宅地図を見てみると、確かにその番地に当該子孫の名があった。

   

文献調査を進める内、異なる地名の謎も解けた。まず、「府内」は元々、天正16年の「韮生谷地検帳」に出てくる白石ノ村に属する小村「舟井ノ村」のことであり、これは禰須(根須)村の前身の一つの村だった。そして禰須村は、前述の地検帳時代には存在していなかった下タダ村に属していた時期があった(後に分離)。つまり、どの文献も同じ土地のことを記述していたのである。

  

現在、黄金マリア像を安置していた天王宮の祠の裏に全登の墓がある。墓碑が建立されたのは昭和52年だが、これは徳川時代、キリスト教が禁制だったため、その影響が長く尾を引き、無造作に積んだ自然石墓時代が長かったということ。五台山の墓碑の建立も昭和47年。いずれも建立者は全登一族子孫。

    

根須(香美市香北町)の墓所の場所については、香美市観光協会が矢印つき道順写真を公開しているので、ここで記述するまでもないとは思うが、「府内」バス停の少々手前、国道195号の三差路の擁壁に「府内」の看板が張り付けられているので、そちらに左折する。

用水路の導水管が頭上に架かっている手前左手のコンクリート階段が上り口。その前には車が数台駐車できる広場がある。「府内」バス停から徒歩2分ほど。

   

墓所の手前の家(一番最初に現れる民家=6枚目写真)は分家した明石家。家の横の水路幅は広くなっているが、かつて明石家は牛乳屋を営んでおり、ここで牛乳瓶を洗っていた(上の写真)。

 

墓所の東奥の家は小松家だが、全登は小松家と姻戚関係にあったという。但し、現、小松家当主はそのことを知らないので、ここの小松家は分家かも知れない。

三軒目、最も北奥の民家が全登直系子孫の明石本家である(5枚目写真)。

   

因みに五台山の墓所の方は非常に分かり辛いが、純信とお馬が逢引していた「お馬逢引岩」さえ分かれば容易い。逢引岩は以前、「よさこい伝説紀行」シリーズや著書で解説した(→こちら)が、その岩の手前にある竹内家墓所から東に入ったみかん畑の中に墓がある(一番最後の写真)。

 

共同墓地の中心を貫く道を下って行くと、小倉家墓所があり、少助やお馬の奉公先の小倉家の墓がある。また、一角には萱原家墓所もあるが、これが明石家分家の萱原家か否かは定かでない。

   

次回は史上初公開(地元の郷土史家も皆、知らなかった)となる、全登の土佐で最初の隠棲地「ウワクボ」の屋敷跡や母御の墓所を紹介する。

大河「真田丸」が最終回を迎える前に、全登関連の全ての伝承地に関する記事を投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

新発見の明石全登の伝承地は郷土史家のゲス対応で判明

$
0
0

[史上初公開の旧物部村伝承地]

大河「真田丸」の大坂城五人衆の一人でキリシタン大名の明石掃部頭全登は、前回記述したように、小倉少助を頼ってまず、土佐の「庄谷相村ウワクボ」に隠棲したことが古文書類に記されている。

 

そこで地名に関する文献を調べると、天正16年の大忍庄地検帳に於いて、庄谷相村の小村の一つに「上窪村」という村が含まれていることが分かった。

その後、慶長年間、庄谷相村の東側等が分離して拓村(つぶせむら)となり、上窪村の何割かも同村に属した。

 

明石全登のウワクボ伝承が記されている南路志が刊行されたのは拓村になってからだが、郷帳類では大村としての庄谷相村と小村の庄谷相村、そして拓村を混同して記述しているものが見られることから、南路志も誤って記載したものと思われる。

 

当初、「上窪」は現在、小字名かホノギとして残っているものと思い、香美市教育委員会に照会したのだが、判明せず、担当者は物部町庄谷相の塩の道保存会会長に問い合わせた。私とも交流のある郷土史家である。

 

しかしその方でも分からなかったため、その方が同じく庄谷相在住の「歴史と文化を考える会」会長を教委に紹介した。そして教委から私に同会長を紹介された。

 

考える会会長も全登の伝承地は把握してなかったが、物部町拓にワクボという屋号を持つ旧家があるという情報を貰った。そして現地を案内して貰う約束をしていたのだが、なんと当日ドタキャンされた。理由は「個別に対応するのが煩わしくなったから」ということで、一日中、雨の日なら暇になるから案内してもいい、ということだった。

 

耳を疑うドタキャン理由だったが、この会長は人を年齢や職業、生まれ等で差別する性格だった。当然、私の報道記事や取材番組等は見たこともないから、私のことを知る由もない。

しかしこんな「ゲス対応」をすると、今後、私が教委の職員や塩の道会長に会った際、彼らは私に謝罪しなくてはいけなくなる。自らは何も悪いことをしていないのに。

 

こんな約定を破る人物は信用できないと思い、独自に調査を開始すると、拓地区のある尾根の地籍調査時、「和窪の畝」という名称が用いられていたことが分かった。そして周辺を調査していると、「和窪」という屋号の家の下の屋地に隣接する土地に、上窪村の明石一族の由来を書いた巻物がかつて安置されていた祠と、その側に全登の母親の墓と伝わるものを発見した。地元の郷土史家も皆、把握していなかった伝承地である。

 

和窪屋号の家と先祖が兄弟同士だったという家(弟の方)のご夫人から聞き取り調査をした結果、その方の母方は上窪村の明石一族で、村内の明石氏は「明瀬」と名乗っていたということである。祠の名称も「明瀬八幡」という。恐らく藩政時代、徳川幕府の「明石狩り」を恐れてのことだろう。つまり、全登は家康が恐れるほどの武将だったということである。

 

祠の左横に建つ墓碑は風化しており、刻字に関する記録もなかった。

その更に左、平たい自然石を無造作に積んだ墓が、全登の母、洗礼名を「モニカ」という宇喜多直家の異母妹の墓である。墓碑を設置していないのは、息子の正体とキリシタンであることを隠すためだろう。

 

さて、当の全登の隠棲地だが、やはり和窪屋号の家だろう。「和窪」は「上窪」が転化したものだろう。すぐ下に母親の墓があることから、「上窪村」という村名や「和窪の畝」という尾根名は、全登の屋敷跡の屋号から取った名称とみて間違いない。元々は「和窪」ではなく、「上窪」だったはずである。

 

ところで和窪屋号の家には幕末、小松勝之進という郷士が道場を開いていたのだが、香北町の文献には前回触れたように、全登と小松家は姻戚関係にあった旨、記されている。その小松家は根須の小松家ではなく、こちらの小松家なのだろう。

 

その小松家の敷地には何十年か前まで、何かの由来を書いた古い石碑があったという。しかし歴史に興味のない当主(小松氏子孫)はそれを壊し、石垣に利用したということである。

また、前述の分家である下の小松家の屋地からは昭和20年代、一朱銀が出土している(下の写真の家屋の屋地=当時、桜の古木があった)。

 

今回、禍、いや、「ゲス対応」転じて福となす、ということで本来、判明することのなかった伝承地が判明した。これまで何回も予定が狂ったことで各種伝承地や史跡等を発見するに至ったことがあるが、本当に歴史調査・研究は何があるか分からない。

 

[和窪伝承地へのアプローチ]

府内バス停より国道195号を北東に2.7kmほど行った所にある「中谷川」バス停先の三差路を右折する。この狭い道路を道なりに琴平山(425.9m)北東の塩の道・文代峠(案内板あり)まで上がり、そこから左後方に折り返す道路を上がる。大きい車両時は峠に駐車して歩いても良い。

 

拓小学校跡碑の先の民家が分家の小松家で、その敷地西沿いに明瀬八幡の参道があり、祠の西にモニカの墓がある。

全登屋敷跡へは、その小松家上の三差路を左折する。前方に和窪屋号の小松家が見えている。

 

ゲス対応より神対応で無名伝承地を発見したい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

12月の満開の桜と案内板から消えた滝(香美市)

$
0
0

以前、高知県いの町の旧本川村一の谷手前にある、紅葉と同時に楽しめる冬桜を紹介したが、その花弁は小さく、花と花の間隔も広かった。

 

しかし、香美市香北町の「土佐十景」(大正15年制定)第三位の「轟の滝」に行く途中(1km位手前の左岸だったか)にある桜は、花弁の大きさや密度はソメイヨシノと大差ない。

 

ただ、旧本川村のものほど本数は多くなく、数えるほどだが、花見が十分できるほどで、展望も優れている。先日の土曜日に行った際は、紅葉も2本ほど残っていた。但し一昨日の雨で何割かの桜は散ったかも知れない。

 

因みに旧本川村の冬桜のような桜は、宇和島市津島町の四国三十三観音霊場第15番金龍山臨江寺境内にもある。→12月でも桜咲く閻魔を祭る寺

 

ところで、何年か前、轟の滝の遊歩道案内図板からある滝の表示が消え、道標も皆、撤去された。日比原川支流に懸かる落差20mほどの「樋の口滝」である。

 

マップから消された理由は、滝壺下方が落石により、道が不明瞭になっているため。しかしアウトドアファンやハイカーなら簡単に登ることができる。その不明瞭な部分は2分位の距離か。が、左岸(北岸)を登ればいいので、ルートは誰でも分かる。

 

道順は現地の案内板の通り、轟の滝展望所上の道路を南下し、道路が左急カーブする手前で南西に折れる。

道はほどなく平坦な未舗装歩道になる。これを終点の沢まで進み、右手の井戸から上に登り、そのまま左岸を進めば、すぐ行き着く。トイレのある轟の滝駐車場から10分ほどか。

 

轟の滝は高知県下ではあまりにも有名なため、解説するまでもないが、景観と豪快さでは四国一だろう。水量も多く、各段の滝壺も巨大で深い。落差こそ82m(3)だが、これがもし関東や関西であれば、必ず一大観光地になっているはずである。

 

因みに車で帰る途中、香北町のアンパンマンミュージアムのイルミネーションに寄った。「電飾橋」が特徴的で、各キャラクター像も照らされている。

 

その何倍もの規模を誇る土佐山田町の高知工科大学のイルミネーションにも寄りたかったが、家の子猫が待ちくたびれると思い、そのまま帰路に着いた。

 

PS:昨日、真田丸でお馴染みの大坂城五人衆の一人、毛利勝永の「正しい」屋敷跡と、土佐脱出時に於ける最初の船の乗り換え地点等を探訪した。これらはネット初公開(一両日中に公開予定)となる。

 

道標が外された滝だけでなく、名のない無名滝も紹介してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

ネット初公開!毛利勝永の土佐脱出経路

$
0
0

大河「真田丸」の「大坂五人衆」の一人、毛利勝永と父・勝信は関ヶ原の合戦後、当初は肥後の加藤家に預けられることになっていた。しかし土佐藩・山内一豊公が自ら引き取りたい旨、徳川家康に願い出て、それが許された。実は一豊公と毛利父子は豊臣秀吉に仕えていた頃、屋敷が隣同士だったことから親交があった。

 

更に一豊公にとって勝永は恩人でもある。合戦以前、石田三成は諸大名の妻子を人質として大坂城に入れていたのだが、一豊公の室・千代が人質になるのを阻止したのが友人だった勝永と言われているのである。

 

毛利父子は慶長6923日、妻子や勝永の弟、家臣団と共に土佐に入国した。そして勝信は高知城二の丸、勝永は城下より西方、久万村久万山の尾根突端部に近い所に新築された館に蟄居することになった。が、「蟄居」とは名ばかりで、毛利一族は何不自由なく、暮らすことができた。

 

勝信はその後、剃髪して一斎と名乗り、小津に移ったが、慶長16年、病没した。

一方、勝永の方は慶長19年の大坂冬の陣に際して、密使より豊臣方に加勢するよう、依頼を受ける。勿論、勝永の心は決まっていた。

 

当時、勝永邸の西から南、東へと久万川が流れていたので、まず、勝永は小船に乗って川を下った。それを見送った監視役である毛利家家臣の山内四郎兵衛は責任を取って自害した。

 

久万川は昭和後期、付け替えられており、当時の流れは一ツ橋町2丁目の落合公園東方辺りから北東にV字型に流れており、三園町と西秦泉寺、愛宕町4丁目との境界に架かる三園橋下へと繋がっていた。

 

現在、三園橋から東方は、西秦泉寺419番地沿いまでは側溝のような水路となっており(9枚目写真)、そこから東はコンクリート護岸の川となって流れ、愛宕山地区からは南東に向きを変え、やがて南下して、巨大な招き猫像がある所の水門で現在の久万川に合流している(16枚目写真)。久万川は国分川に合流し、浦戸湾へと注ぎ込んでいる。

西秦泉寺419番地から東方は一応、「川」として存続しているため、「古久万川」と名付けたい(下の写真)。

 

勝永は現在の久万川に合流する少々手前の「津の崎(角崎)」で大きな八反帆船に乗り換えるのだが、その前に上陸して水杯を土佐での従者たちと酌み交わしている。

 

ところで勝永邸跡については、「毛利屋敷」という通称地名として残っている。しかしネットでは誤った場所(高知北環状線の交差点)が示されている。私は北環状線ができる何年も前、実際に現地を訪れた隣の地区の史談会会長に正しい跡地を教えて貰っている。

 

今回、津の崎跡から古久万川を遡り、毛利屋敷を訪ねたのだが、周辺は住宅密集地故、駐車する場所や有料駐車場がない。そこで、後で五千円以上の買い物をすることをイオンの建物に向かって誓い、イオン駐車場に駐車させて貰った。

 

イオンの南西側入口の信号を西に渡り、更に金谷川橋を渡る。最初の変形四差路から西が津の崎を構成する愛宕山の尾根跡。この東西に走る狭い道路は古代、津の崎が湾に突き出す岬だった時代の海岸線跡。この周辺は明治期の地形図にいくつかの建物マークが記載されていることから、藩政時代もいくつか民家や水主関係の建物があったのだろう。

 

そこから少し進むと成田山不動尊愛宕教会の石標があったので尾根跡一角の道路を上がって寄ってみたが、帰宅後、文献を確認してみると、この寺院は大正15年、移転して建てられたものだった。

 

寺院からは西方の小径に出たが、この道は藩政時代からあった、津の崎の突端から愛宕山山頂の愛宕神社に上がる参拝道の一つ。

参拝道から津の崎跡下の道路に下り(4枚目写真)、西進を再開するとすぐ愛宕小橋(6枚目写真)に到るが、この下を南に流れる川が古久万川で、ここが最も津の崎に接近した箇所。故にこの付近から勝永が上陸したものと思われる。

 

そこから三園橋までは前述の通り、古久万川沿い道路を辿ることができる。

橋から西は流路の痕跡がない(10枚目写真)ので、どのように歩いても良いが、落合橋の架かる落合公園は訪れておきたい。

 

公園西の二車線道路に出ると北上する。この道路が北環状線に合流する交差点が、前述のネットに於ける毛利屋敷の誤った場所(11枚目写真)。正しい場所は、その交差点向かいにある洋風城の塔のような建物西の畑。

 

尾根跡なので高台になっているが、上り口は二ヶ所ある。分かり易いのは、まず信号交差点を北に渡ってから南西に折れる。右手に中久万天満宮上り口の道標を見ると、そこから擁壁を北東に上るコンクリート階段がある。それを上り切った先が本当の毛利屋敷で、一角に祠と崩れた五輪塔がある。

毛利屋敷背後の久万山尾根には中久万地区の氏神・中久万天満宮が鎮座している。創始は詳らかではないが、勝永蟄居時代からあったならば、必ず勝永は何度も詣で、戦勝祈願をしたことだろう。

その背後の神木であるスダジイも樹齢は数百年はあるだろう。

 

余談だが、古久万川と久万川との出合の写真は、駐車場に帰る際、撮ったのだが、無数のオーブが写っていた(下の写真)。勿論、以前解説したように、これは湿気や空気の流れとデジカメのフラッシュが関係した現象。

 

今後も龍馬に関係なく、歴史上の人物の無名伝承地を発掘してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

長宗我部盛親が関ヶ原合戦後に遭った滅亡予兆の怪異

$
0
0

[山岳仏教の一大霊場跡]

土佐に於ける伝承を探る大河「真田丸」大坂五人衆三人目(最後)は、土佐の領主、長宗我部盛親。大坂城落城後、徳川家康の首を狙って潜伏生活を送っていた盛親を京都で捕らえたのは、坂本龍馬が文久22月、宿と番傘を借りた徳島藩士・岡氏の主、長坂氏の先祖であることは当ブログや自著で述べたが(→坂本龍馬が逗留した長宗我部家を葬った武将家臣子孫邸 )、今回は関ヶ原合戦後の土佐での行動に注目したい。

 

土佐に帰国した盛親は、親交のある井伊直政に、徳川家康に取り成して貰うよう、依頼兼詫び状を出した。後に直政の使者が土佐に下り、盛親に対して大坂に直接来て、申し開きするよう、伝える。

盛親は居城である浦戸城(高知県立坂本龍馬記念館等が建つ地・2枚目写真は天守跡で3枚目は井戸)で今後の身の振り方について重臣らと協議を行う。その結果、上坂することに決した。

 

関ヶ原の戦い時、盛親軍は積極的な戦いはせず、退却時に交戦した程度だったため、当初、家康は盛親を許すつもりでいた。しかし「ある情報」が家康にもたらされると、家康は烈火の如く怒り、盛親から土佐を没収した。それは、藤堂高虎と昵懇の間柄である長宗我部元親の三男で蟄居中の津野親忠(4枚目写真は墓の一つ)を私欲により、切腹させたからだった。

 

親忠が蟄居させられた理由は元親関係の各サイトや歴史本で取り上げられているので、ご存知の方が多いと思うが、元親の跡継ぎ問題でお家騒動となり、何人もの家臣に切腹を申し渡すはめとなったため、元親が憂慮して、盛親の兄たちを蟄居させていたのである。

 

そんな折、元親の重臣、久武内蔵助親直が、親忠は藤堂高虎を頼って土佐を出奔し、土佐の領主にして貰うよう、家康に取り入ろうとしている故、粛清すべきであると盛親に忠告する。

盛親は親忠がそんなことをする人物ではないことは分かっているため、親直の言うことに取り合わなかったが、親直が独断で暗殺計画を実行し、親忠が切腹するに至ったのである。親直は盛親の家来でもあるため、外部の者から見ると、盛親が親忠を私利私欲により、切腹させたことになる。

 

親忠の無念の死後、自分が今後、改易されることになる等予想だにしていない盛親は、元親の代から信仰していた柏尾山中腹にあった真言密教の聖地「柏尾山求聞持院観音正寺」に祈願するために向かった。

 

1kmほど手前に来た際、本堂より二十丈もある巨大な白い布が宙に舞い上がったのが見えた。が、近づいていくと、それは布ではなく、雲だった。やがてその中に観音正寺の観音の姿が出現したが、徐々に雲と共に消えて行った。

 

そして間もなく、寺から火の手が上がった。盛親一行が到着した頃には、寺は灰燼に帰していた。

何の罪もない親忠を私欲にて亡き者にしたことで観音に見放されたのであろう。この時既に、長宗我部家滅亡は避けられない運命となっていたのかも知れない。

 

その観音正寺は通称、観正寺とも柏尾寺とも呼ばれるが、開基が行基なだけに歴史は古い。当初は柏尾山山頂付近にあったというが、考えられる跡地としては、山頂東方のピークの平地か。

 

南路志等に記載されている寺の縁起には柏尾山のことを「神異の高山あり、聖武天皇の御宇、行基菩薩の開発、七郡無双の幽絶の堺也」と記し、寺については「昔日には伽藍甍を並べ僧坊軒を連ね、顕密修学の僧侶経論講説の会場たり」とある。

 

しかし寺は南北朝時代を境に衰退の一途を辿った。が、長宗我部時代が到来すると、元親が霊夢を見て、中腹に再建する。前述の東方のピークから南東に派生する尾根の標高260m前後付近で、跡地は「寺の段」(5と6枚目写真は上段7と8枚目は下段)と呼ばれるように、広大な平地が二段続いている。

 

文禄年間、浦戸城下に移したが、怪異が続いたので、元の場所に戻し、盛親は月参していたという。

盛親が土佐に帰国していた時に灰になった寺はしばらく再興されなかったが、正保2(1647)、土佐二代藩主・山内忠義公が柏尾山に遊猟した際、大木の穴の中に観正寺の観音像が立っていたという。

 

そこで忠義公は参拝し易いように、寺があった尾根の先の方に寺を再建し、現代に至っている。

長宗我部家時代の柏尾寺跡へ登る登山道は、昭和22年発行の地形図に記されているが、登山口周辺は昭和後期以降、廃道となっている。しかし尾根自体は登れるのではないかと思う。

 

また、「春野町芳原まちづくり協議会」が柏尾寺跡の道標を建てており、白土峠の峠道と、春野総合運動公園の第12駐車場西より谷沿いを北上する林道(下の写真の橋は巡視路登り口)を結ぶ送電鉄塔巡視路より登ることができる。

 

但し、後者の駐車場沿いから登る際、標高210m地点に建つ鉄塔北方のY字路(尾根道と巡視路との分岐)に鉄塔道標は建ってなかったように思う。

そのY字路から柏尾寺跡起点の分岐道標に到るまでの間には、巡視路を横断する陸軍の塹壕のようなものがある。

 

長宗我部時代の伝承地も今後、もっと投稿してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

お龍、土佐和食(わじき)へ(16)

$
0
0

[佐賀の乱・江藤新平護送途次宿所]

明神橋を渡った先の県道交差点南西隅に建つ安政の大地震碑に、土佐勤王党結成地の佐田屋の主人や、武市瑞山の学問に於ける師の名が刻字されていることは以前、佐田屋の記事で述べた。

 

そこから土佐東街道を東に進むと、右手に数軒目に空き家の商家があるが、これがその佐田屋主人の本家、橋本家が明治10年に開業した栄徳屋である。明治前期にはこの岸本も赤岡と並ぶ一大商業地となっており、栄徳屋は和紙卸商として、主に東京の紙屋と取引を行っていた他、海産物、砂糖、煙草等も扱い、岸本屈指の商家だった。

 

が、東京を主な市場としていたため、関東大震災で大打撃を受け、廃業に追い込まれた。現存する建物は廃業後に、規模を縮小して改築したもののようである。

その向かいの空き地、若しくはその西隣の地については、橋本氏の居宅跡とも分家跡とも言われている。

 

その空き地(下の写真)ないし東隣の民家(3枚目写真)辺りには、高知市の「西の陽暉楼」に対して「東の〇〇楼」(具体的な名称不明)と呼ばれる、有名な遊郭があったという。

 

ここで少し街道を離れることにし、栄徳屋跡西沿いの小径(4枚目写真)を南下する。すぐ互い違いの変形四差路に到るが、この東方の民家は、佐賀の乱の首謀者、江藤新平(最後の写真)が東洋町甲浦で捕縛されて須崎市へ護送される途中、宿泊した元郷士・畠中義明邸跡。

 

明治6年、参議だった新平は征韓論の議が否決されたため、西郷隆盛らと共に下野し、翌年1月、佐賀に帰郷して「佐賀の乱」を起こす。しかし鎮圧され、高知県へと逃亡。が、乱を起こす前、共に蜂起して与党勢を打倒しようと誓った高知の林有三は新平に同調せず、自首することを仄めかす始末。

 

新平は最早東京に上がり、三条卿等に掛け合うしかないと、高知県を脱出することに決めたが、329日、甲浦で中岡慎太郎の義兄・川村信道武平次に捕縛されてしまう。

護送にて畠中家に着いたのは、42日の夕刻だった。

 

畠中家は豪農でもあり、第13代藩主・山内豊熈公の土佐東巡時の日記にも「其居宅宏壮、観る者、目を驚かす」と記されている。

新平は義明の依頼により、即興で漢詩を作り、揮毫したが、捕吏等、護送する側の中にも新平を尊敬する者が多く、何人もに詩を短冊等にしたため、贈っている。

 

義明は新平を豪勢な皿鉢料理でもてなした。護送する側の殆どが新平に同情的だったため、できるだけ新平の死を遅らせようと、ゆっくりと時間をかけて護送した。

 

高知市からは土佐西街道を西進し、新平は須崎港から護送船に乗せられ、途中、鹿児島に寄港した後、47日、佐賀に到着した。

 

政府も新平には同情的で、征討総督を東伏見宮嘉彰親王に変え、処刑を回避しようとしたものの、大久保利通が総督権限を譲らず、裁判長の元土佐勤王党員・河野敏鎌にも圧力をかけ、形式的な二日間の簡便な裁判を行った後、413日、処刑、梟首に処した。

 

余談だが、有三ら元宿毛勤王党(俗称)を主力とした立志社の武闘派は明治10年、蜂起しようとしたが、武器の調達ができず、且つ、板垣退助や片岡健吉らが言論による政権交代を目指すことを主張したため、失敗に終わり、関係者は捕縛された。これを「立志社の獄」という。

 

武闘派の主要メンバーの中には、坂本龍馬が暗殺された時間帯、下関のお龍と会っていた者がいるが、それはまた別の機会に述べたい。

 

「別の機会」を早く作ってほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ


高知県の1500m級無名峰三山

$
0
0

今日(1220)、テレビ高知の夕方ニュース番組内の視聴者投稿ビデオコーナーで、大王山(1182.5m)から伸びる尾根と、大星山(1431.7m)から伸びる尾根とがぶつかる地点にある無名峰・西大星山(1429m)が紹介されたことに触発されたため、道のない無名峰の中では比較的標高が高い1500m前後の山、三座の登山コースを簡単に紹介したい。

 

但し、どの山も記録を取っていないため、記憶違いがあるかも知れないことをご了承戴きたい。

 

(1)  庵沢山(いさわやま・1463.5m)・地形図=筒上山

椿山と高台越との中間の県境尾根にある山で、愛媛県側では河の子山とも呼ばれる。我が国初の山岳事典「日本山嶽志」(明治39年発行)や、同じく明治期の高知県全図や愛媛県全図にも記載があるほどで、昔は有名峰だったことが窺える。

 

支尾根は植林が多いが、稜線は笹が繁茂しており、一部、展望が開ける場所や白骨林もある。

高知県側の登山道は椿山林道が開通して以降、廃道になったが、尾根を忠実に登ることで登頂できる。

 

[コース]

登山口は谷にある708m独立標高点北西の滝マークがある所。その滝は二升淵滝という。登山口には、森林管理署が設置した「歩道」と書かれた白い道標が建っている。

その谷沿いの作業歩道を十数分登った所の歩道最高所の手前が薄い三差路となっており、そこを左折し、南西に伸びる幅広の尾根を登る。上るに連れ、尾根の幅は細くなってくるが、ヤブも出てくる。

山頂へは忠実に尾根を辿るのみ。

 

(2)  下クレ石山(1486.3m)・地形図=日ノ浦

石鎚山系の有名峰、冠山から南に伸びる支尾根上にあり、昭文社の「山と高原地図」に山名が記載されており、(現在は分からないが)かつては冠山足谷コースの途中から分岐する登山道があった。

 

その登山道は廃道化しているが、それより手前から国有林と民有林との境界道(若しくはその境界道に到る踏み跡)が分岐しており、これを峠跡の下方まで利用することができる。

 

[コース]

登山口(足谷川上流)には冠山と平家平の二つの道標が建っている。

冠山と平家平との分岐を過ぎ、谷を越えた先の支尾根手前から冠山登山道と分かれて境界道、或いは作業歩道(踏み跡)を進んだのではないかと思う。道々には森林官がつけた赤いマーキングテープや境界目出し標があるから目印になる。

 

最高所にある目出し標の先の谷状地形のヤブが浅かったので、山頂北の鞍部である峠跡目指して登ったと思う。但し、その目出し標が写真の「二〇〇一」番自然石標だったか否かは記憶が曖昧。

 

峠跡には「87(7|8」だったかも)と書かれた林班境界プレートがある。そこからは笹の稜線を辿るのみ。

三角点の手前には、明治時代、山林局が設置した「次三角点」が残っている。これは民有林と国有林との境界測量を行った際の基準点。

 

(3)  源氏ヶ森(1529.1m)・地形図=北川

‘90年代までは殆ど知られていなかったヤブ山だが、2000年か2001年頃、森林管理署が別府峡沿いの何ヶ所かに建てた案内図板に山名が記載されたことにより、山屋に知られるようになった。因みに私はその原図のコピーを、案内図板設置前に管理署から貰っていた。

 

その地図にはコースが記載されていないが、登山口と山頂との高度差が大きいものの、3時間半あれば登頂できる。登山口は別府峡温泉から奥に続く道路の終点、中尾集落。

但し、終点まで行ってしまうと車の方向転換ができないため、手前の谷付近の路肩に駐車する。

尚、中尾集落に上がる昔の登山道も存続しているため、車の免許がない健脚家なら、「別府」バス停から歩くことも可。その際の登山口は、旧錦渓橋の西側。

 

[コース]

道路終点から概ね北西方向に歩道が上っているので、最初はこれを歩き、左下に民家群をやり過ごしてほどなくの三差路で右に折れる。折れた先に貯水槽がある箇所。

鞍部の峠に出ると、後は尾根を登って稜線に出る。

 

稜線には踏み跡があるが、往路に於いては最初、尾根幅が広いことから気づきにくい。私も見つけることができなかったので、尾根の東直下の踏み跡と尾根上を、ヤブの状態を見ながら交互に登り、登頂した。

 

 

登山やハイキングの記事も定期的に投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

南予のスーパー低山のマイナー海山三山

$
0
0

年末年始は海の展望が開けた海岸沿いのスーパー低山(標高数百メートル以下の低山を指す登山用語)に登りたくなる。それは、冬期は空気が澄んでおり、海と空が美しく映えるため。

 

2014年から今年にかけての三年間の正月期間は、愛媛県宇和島市や愛南町に滞在しているが、その期間に登った、海の景色が優れたマイナーな三座を紹介したい。

 

(1)  権現山(490.7m)[愛南町]

地形図=伊予鹿島

 

旧西海町の船越半島をすっぽりと覆う半島最高峰で、椿、アコウ、ウバメガシ等の自然林が豊富。

 

山頂には岡山神社(福浦権現社)が鎮座しているため、参拝道が存在する。

 

山頂からの展望はないものの、参拝者も訪れない北の470mピーク(「権現北山」と仮称)の岩場からは、周辺の岬群や鹿島その他の離島等、内海の素晴らしいパノラマが広がる。

 

私の登山時は激しい北風が吹いており、吹き飛ばされそうだった。

 

詳しいアプローチや駐車場所、コースガイド、コース図等はヤマケイサイトに投稿済みなので、次のURLを参照のこと。→船越半島最高峰の海山・権現山

 

(2)  三浦権現山(489.4m)[宇和島市]

地形図=結出

 

宇和海に突き出す三浦半島の最高峰。見る角度によっては、ピラミダルな山容をしていることから「三浦富士」とも呼ばれる。

シイ、ウバメガシ、ヤブツバキ、オンツツジ、アカメガシワ等が自生する。

 

山頂には貞知2(1346)に英彦山神社から勧請された嶽山権現が鎮座しており、明治末までは神前で奉納相撲が行われていた。この祠には舌を出した奇妙な面が吊り下げられている。

神社付近からは、宇和海、豊後水道、九州までも見渡せたと思う。

 

この山はヤマケイの「日本の山」(サイトの方)にも記載されており、北東麓の大内からのコースが紹介されているが、あまり知られていない南東麓の国永から登った。

 

[アプローチ]

国永漁港北の北灘公民館東沿いを北上する。広い道路が終わると右折して、大谷川左岸(東岸)を北上、次の橋を過ぎた先のY字路を左に。

ほどなく四差路に出るが、そこを直進した(未舗装作業車道)先の右手広場へ駐車する。

 

[コース]

その四差路を北上する。やがて車道からコンクリート歩道、自然の歩道へと変わる。

標高130m地点の破線のY字路だったと思うが、昔の道しるべが落ち葉に埋もれている(下の写真)。刻字面が西側を向いているため気づきにくいが、その「左 下波」の方へ左折する。

 

その破線道は概ね残っていたと思うが、尾根上がヤブ化している箇所があり、その場合は植林帯内の歩道を上がる。

山は二つの峰から成り、西峰に三角点、東峰に嶽山権現が建つ。展望がいいのは後者。

 

(3)  槙の山(438.5m)[宇和島市]

地形図=伊予吉田

 

礫岩、砂岩等が見られ、山全体がミニ四国霊場となっている。が、この霊場、四国内のミニ霊場の中では最もハードで、一巡するのに6時間近くもかかる。特に復路は上り返しが多く、体力が消耗される。

 

但し、登頂自体(往路)は普通のスーパー低山と同様、容易く、山頂やその手前の展望所からは、鬼ヶ城山系や吉田湾、宇和海等のパノラマが広がる。

 

霊場を周回する際の登山口は北東麓の異瀑山大慈寺。駐車も境内に。

 

参拝道では巨石間を通り抜ける迫割岩や、急角度の梯子を登って垂直の岩盤に上がる箇所もある。

 

巨石の洞門をくぐった先の岩屋に祭られている石仏もあり、霊山の雰囲気。

 

南予以外の海山も紹介してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

半分蘇る高知市一の展望山城跡

$
0
0

[ヤブがなくなった山頂詰の段]

この前触れた、長宗我部盛親が怪異を体験した柏尾寺跡がある柏尾山(323m)には、南北朝時代の柏尾山城跡があり、’90年代は市街地を望む高知市一の展望所だった(2枚目写真)。

 

しかし’99年夏、高知市教育委員会が城跡の調査を実施して以降、地権者の関西採石社が山頂周囲に有刺鉄線を張り巡らせて立入禁止にしたため、一帯がヤブ化していき、パノラマ展望も消えてしまった。’08年に訪れた時は鉄線内部はヤブが密集し、ヤブ漕ぎもできない状態になっていた。

 

それが先日、柏尾寺跡探訪時に再び登頂してみると、有刺鉄線は撤去され、鬱蒼としていたヤブも嘘のように消え去り、山頂詰の段や三角点跡が露になっていた。

 

更に山頂から少し西に下ってみると、かつてのパノラマほどではないにしろ、そこそこの市街地や周辺山並みの展望が広がっていた。これならばハイキング山として推奨できる。

 

因みに、有刺鉄線が張られていた時期、ハイカーは山頂東方の「月石」(13枚目写真。近年看板が設置された)の上に上がり、眺望(14枚目写真)を楽しんでいた。勿論、その眺望は’90年代の山頂からの展望には遠く及ばない。当時、山頂からは春野町側の海の展望も広がっていたからである。

 

ところで意外なことだが、高知市教育委員会が柏尾山城跡の遺構を初めて確認したのは’98年になってから。この城跡は築城時期等、不明な部分があまりにも多いからかも知れない。

 

調査の結果、三ヶ所の郭(4枚目写真は舌状郭の一つ。6枚目写真は詰の段下の郭)、10条の堀切(5枚目写真は往路尾根の堀切)、4条の竪堀等が確認された。最上部の堀切はハイカーなら皆、知っているものと思うが、山頂詰の段への上り口である東側(6枚目写真右上)。

 

詰の段の北と南端にはそれぞれ数ヶ所、竪堀か塹壕のような掘り込みがあるが(上の写真左端)、これは教委のトレンチ調査時の穴ではないかと思われる。

 

詰の段北側の一角にある盛り上がりが三角点跡(上の写真)だろう。ここが最高所になるため、城の見張り台跡か狼煙台跡かも知れない。

 

前述の西側の展望所に到るまでの間にも堀切(11枚目写真)があり、南側斜面には塹壕かトレンチ穴か判然としない溝状掘り込みや長方形の穴(上の写真)が数ヶ所ある。

 

余談だが、高知新聞社刊の「高知日帰り山歩」ではなぜか、柏尾山登山コースの往路として、途中まで道のない、春野総合運動公園管理事務所が立入禁止看板を設置しているルートを紹介している(一部を辿ったコース→柏尾山塹壕とクロカンコース)。この本はハイキング初心者も読むことから、このルートを紹介するのは問題があるように思う。

 

道迷いを起こしにくい、推奨する柏尾山回遊コースは、往路については柏尾寺跡の記事で紹介した、公園の第12駐車場西沿いを北上する林道から鉄塔巡視路を登り、尾根道に合流すると、25番鉄塔を経由してその尾根道(3枚目写真は尾根沿いの陸軍塹壕)を山頂まで辿るコース。

 

12駐車場へは公園の西端の入口(県道37号沿い)から入るが、この前訪れた際は工事中だったため、その南向いの第11駐車場に駐車すれば良い。

 

公園入口には「奥長谷」バス停があるが、その便数は少ないため、公共交通機関利用者は南方の「長谷」バス停から歩いた方が良い。ただ、春野町内のバスは近いうちにデマンド化される予定なので、自治体に問い合わせを。

 

復路は山頂東のピークまで行き、そこから南東に伸びる尾根を下る。ヤブはなく快適な尾根道。ただ、東のピークから尾根道に下りる箇所はやや分かり難いかも知れない。

 

この前の記事で紹介した柏尾寺(旧観正寺)跡まで下ると、そこから南西下方の鉄塔巡視路に直接下る道があるようだが、私は気づかなかったため、26番鉄塔から更に尾根をそのまま下って巡視路に出て、右折した。

 

往路の25番鉄塔北側のY字路までは上りが多いが、高度差は大したものではない。

この回遊コースであれば、東のピークから下りる地点さえ気を付けていれば、迷うことはない。

 

尚、東のピークから更に稜線を東に(白土峠方向)下って行くと、直径2メートル位の機銃陣地跡か井戸跡かよく分からない擂鉢状穴があった(上の写真)。

 

柏尾山からの展望が「半分」ではなく、完全に蘇ることを期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

2016年至極の探訪地ベスト5

$
0
0

今年も睡眠時無呼吸症候群に悩まされながらも、四国の景勝地や山岳、戦争遺跡、ミニ鉄道廃線跡、マイナー鍾乳洞、史跡、無名伝承地等を巡ってきた。そのベスト5を発表したい。

ベスト5の内、三つは四国のアウトドアファンにはお馴染みの景勝地だが、全国的にはあまり知られていない。

 

5位[谷ではない所から滝が]

   桂川渓谷 (愛媛県西予市野村町)

 

戦国期、婚礼の伝達の不手際から頭を丸めて尼僧になった乙御前姫が身投げした際、頭に付けていたカツラが渓流に流れたことから名付けられた深山ダム上流の桂川渓谷。ここでは40種以上の蝶が確認されており、「蝶の楽園」とも呼ばれている。

 

渓谷の滝や渕の数では隣町の三滝渓谷に遠く及ばないが、「仲の滝」は特殊な滝で印象に残る。谷ではない所から複数条に分かれて落下しているのである。それも渓谷の幅が最も狭く、両岸が切り立った所の崖上から。オーバーハング気味の崖から落下しているため、対岸の遊歩道まで飛沫がかかり、また、その下は轟音を轟かす激流が流れているので、迫力満点。

 

上流には乙御前姫が身投げした「乙御前の滝」が懸かるが、滝壺まで行こうと思えば、頭上の水路を伝って行かなければならない。

その上の山には、御前を祭る乙姫神社が鎮座する。

 

4位[日本唯一の古木のオンツツジ群落]

   船窪つつじ公園(徳島県吉野川市山川町)

 

樹齢300年、樹高6m以上の大木を始めとしたオンツツジの古木の大群生が、標高1000m以上の高地、35千平方メートルもの区域に密生している。このような地は全国に類を見ない。花期は狭い道路が渋滞するほど。

 

近くには弘法大師空海が修行した行場を擁する「阿波富士」こと、阿波の修験道発祥の地・高越山(こうつざん・1133m)があるが、つつじ公園から散策程度で登れる高越山最短コース登山口に到るまでの間にある立石峠からは絶景が広がっている。

 

ここには以前紹介した愛媛の立石峠同様、名の由来となったメンヒルのような立石が立っている。

 

3位[日本八景の海軍地下陣地]

   海軍室戸崎電波探信所跡(高知県室戸市)

 

これは当ブログでも詳しく解説した、室戸岬スカイライン沿いに点在する海軍レーダー基地跡の戦争遺跡の一つ。このスカイラインは高知県民なら全員、車で走行しているものと思うが、地下陣地入口は車の窓からは見えない。歩いて初めて気づくもの。

 

地下道は一直線に進んだ後、コウモリが棲息する広間に突き当たり、向きを直角に変え、傾斜をつけて別方向に進み、谷沿いの山の斜面に出ている。この形状は大洲市の大川鍾乳洞に似ている。

 

日本八景でもある室戸岬は世界ジオパーク指定の室戸ジオパークの中心部でもあるので、是非陣地跡も自治体に整備して戴きたい。

 

2位[お手軽の奇岩怪石霊山]

   岩谷山(愛媛県砥部町)

 

古岩谷川上流に、四国霊場・岩屋寺背後の霊山「古岩屋山」と読み方が同じ礫岩の霊山・古岩谷山(「岩谷山」と呼称されることが多い)がある。

こちらの霊山にも行場があるが、山の標高が200m程度と低く、山中を回遊する行場兼ミニ四国霊場の参拝道は一般観光客でも登ることができる。

 

古岩屋山のような天を衝くような岩塔群はないが、タフォニや岩屋、浸食された岩肌の奇景が随所に見られ、巨石の洞門も二ヶ所にある。

 

因みに下山後は南方の仙波渓谷に移動し、遊歩道を終点まで南下してから、玉谷川沿いの山の斜面を走る「ふるさとかけはしウォーキングコース」を歩き、対岸の道の駅「ひろた」に出て、道路を引き返して回遊した。

 

1位[標高と同じ階段の山はミツバツツジ群落]

   梶ヶ森(高知県大豊町)

 

以前、「もう一つの土佐の投入堂」として紹介した御影堂のある梶ヶ森(1399.6m)は、標高数値の小数点以下を四捨五入すれば1400mとなるが、その数と同じ1400段もの丸木階段が登山道に設置されている。

 

山頂からはパノラマが広がっており、晴れた日には太平洋も遠望できるという。

また、登山道沿いには「日本の滝百選」にも選出されている「龍王の滝」や「真名井の滝」もある。

 

私はシャクナゲを求めてGWに登ったのだが、残念ながら開花期が違ったようで見られなかった。逆に予想していなかった、山の東方の「ふたりの丘」の斜面がミツバツツジのピンクに染まっており、嬉しい誤算だった。

 

この山は車道化されているので、ふたりの丘は園児でも登ることができる。

 

来年も「至極の探訪地」を期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

お龍、土佐和食(わじき)へ(17)

$
0
0

[絵金の弟子宅]

江藤新平宿所の畠中邸の東角でなぜか小径は一旦直角に北に折れた後、すぐ東に向きを戻し、十字路に到る。

 

ここでまた更に寄り道をする。南に折れ、広い道路に出ると一旦東に折れた後、すぐの十字路でまた南に折れる。道が国道55号に合流した地点の西側に、高知市常磐町出身の第32代横綱・玉錦三右衛門(本名:西内弥寿喜・1903-1938)の墓がある。

 

玉錦は大正6年、15歳で上京し、友綱部屋の入門検査に望んだものの不合格。しかし二ヶ所関部屋の親方の目にとまり、入門した。

 

大正15年の1月場所で入幕すると、昭和3年、25歳で小結として三役入りを果たし、2年後に大関昇進、更に昭和81月、高知県初の横綱になると、それから3年間は圧倒的な強さを誇った。

しかし昭和13年、九州場所からの帰り道、急性盲腸炎にかかり、36歳の若さでこの世を去った。入幕後の成績は308勝、92敗、3分け、休場17だった。

 

そこからは一旦北の広い道路に引き返し、東進する。そして住宅街に入る一つ手前のT字路を北に折れる。北方東側に小さな社叢が見えていたと思う。

 

津波避難タワーのあるT字路で再び土佐東街道に合流する。タワーからの写真を撮っていないので、平常、タワーは立入禁止になっていたのだろう。

 

その街道を挟んだ北東向かい、岸本分団消防屯所敷地の南西隅に、近代の里程標である「岸本町道路元標」が残っている。道路元標の解説は赤岡町元標解説時に行ったので省略する。因みに高知市の元標は県庁前の道路沿いにある。

 

そこからは右手に忠魂碑を見て、東街道を引き返す。

栄徳屋の三軒ほど手前右手には商家の「吉川染物店」があるが、ここには赤岡の絵金蔵(えきんぐら)が開設されるまで、内部に絵金資料館があった。

 

絵金の門弟は数百人(絵金の墓碑による)にも及んだと言われるが、主要な弟子の一人がこの吉川染物店当主先祖、吉川金太郎(1837-1901)なのである。弟子の多くが金太郎のような紺屋(染物屋)だった。金太郎は絵金が高知城下在住時、毎日この自宅から通って教えを受けていたという。

 

絵金は弟子らに惜しげもなく白描(彩色画の下絵)を手本として与え、教材にした。また、完成した絵金の芝居絵屏風に弟子らは実寸大の紙を当てて写し取る「巻き写し」を行っていた。

吉川染物店に保管されていた絵金や弟子の作品の殆どは絵金蔵に移されている。

店内には小物的商品も置いているので、絵金ファンには記念になるだろう。

 

PS:本シリーズは来年の春か初夏には投稿が終了すると思うが、それからは2年半ほど投稿を休止していた龍馬の史跡探訪シリーズ(四国の他県)を再開する予定。

 

来年は他にも、しばらく中断していた近代の偉人の関連地探訪シリーズも再開する。また、鉄道廃線跡の新シリーズも開始予定。

 

来年の投稿は期待が持てそう、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

Viewing all 1077 articles
Browse latest View live