以前、毛利父子らが関ヶ原の戦い後、土佐藩の山内一豊公の預かりとなり、土佐に入国し、勝永の父、吉成勝信は土佐で没したことを記述した。今日は大河ドラマ・真田丸の総集編の放送があることから、昨日の夕方、勝信の墓を訪れた。
一豊公が徳川家康に毛利父子ら一族を引き取りたい旨申し入れ、それが叶えられた理由の一つに、家康が勝信に「借り」があることが挙げられる。
勝信が豊臣秀吉の伏見城築城の普請奉行だった頃、家康の危急を救ったことがあると言われているのである。
その勝信の墓だが、大まかな場所は分かっているものの、登り口や道順が分からない。場所は、高知市の秦泉寺山の四方に伸びる尾根の内、北西に伸びる尾根の付け根に近い辺りである。
また、現地を訪れて分かったことだが、勝信の墓のすぐ近くには、以前「坂本龍馬の天神大橋逸話を伝えた者」の記事で触れた、龍馬脱藩須崎ルート説の根源とされる安田たまきの言を後世に伝えた一人、谷民衛の先祖の宗家墓所があったのである。
市街地で駐車場所がない故、毛利勝永の土佐脱出経路探訪時同様、今回も後で買い物をすることにし、イオン駐車場に駐車させて貰った。しかし日赤病院の移転建設工事で、イオンの駐車場は随分狭くなってしまった。
奏小学校(古代港・中津港跡)北西角の信号を北に入り、突き当たりを左折。「カーサ秦泉寺」東端の向かいから北に折れる狭い道路を上る。終点には軽四が一台駐車・転回できるスペースがあったが、この手前から秦泉寺山に登った。山頂の標高は50mもない。
尾根に上がると遠回りになるため、途中から斜面を適当にトラバースして、東方の峠道に出ようとしたが、既に廃道化していた。それでも峠自体はその雰囲気が残っており、祠もあった(一枚目写真)。
その先の道も廃道になっていたので、最初、尾根直下を北進し、途中から墓が点在する尾根に乗った。
乾家墓所を過ぎるとすぐ左手下に民家が見えたので、「下り過ぎた!」と思い、引き返した。
勝信の墓は「土佐史談選書12・土佐の墓」によると、杉家墓所の南にあるようなので、杉姓の墓を右手(南に引き返している際)に見つけると、墓所奥に入って行った。
目当ての墓は一番奥の真ん中にあった(最後の写真)。その左には子孫が建立した勝信の生涯を簡単に記した碑があるから分かる。この碑がなければ、墓を探すのは困難を極める。なぜなら墓石には法名しか刻字されておらず、且つ、風化して判読できなくなっているからである。その法名は「白雲院殿好雪神儀」という。
勝信の墓の右横には、「毛利十六代」と刻字された森正倫夫妻の墓があった。「もうり」が転化して「もり」になったのだろう。この子孫は傍系ではなかろうか。
余談だが、大坂夏の陣で自害したはずの勝永の墓が土佐市内にあるという。
この杉家先祖代々墓所入口(8枚目写真)から明瞭な道が下っていたので辿ってみると、道はすぐ下の墓所で向きを変えた。目印になるこの墓所(5枚目写真)を確認すると谷家だった。もしや、と思い探ってみると、藩政時代の土佐で最も有名だった儒学者、谷秦山の兄・弥太郎重正六世の孫、谷重喜の墓があった。
重喜は戊辰戦争時、東征土佐藩兵四番小隊長として転戦し、会津戦争で武功を挙げた。以後、大阪鎮台参謀長にまで昇進したが、明治9年、辞職して立志社に加わり、翌年、副社長となり、高知県軍挙兵計画に加わったものの、以前述べた「立志社の獄」で投獄された。
出獄後は高知共立学校校長や自由党総理代理、自由新聞社長代理等を歴任した。
さらに左上に登って行くと秦山の孫・眞潮(ましお)、一番上に秦山の長男・垣守(かきもり)の墓(下の写真)があった。両名共、秦山のように著名な儒学者・国学者だったが、眞潮は浦奉行を務めて野中兼山の右腕的存在となり、垣守は藩に学才を認められ、扈従格にもなっている。
垣守の孫娘の一人の夫が、民衛から四代前の潮江谷家(傍系谷家の一つ)三代目・中庵布教なのである。初代から続く藩医で、参勤交代への同行や江戸勤番も仰せつかっている。
谷家墓所から道を下って行くと、谷秦山邸跡(2枚目写真)に下り立った。流石に跡地は広いが、現在、工務店の私有地になっている。
秦山は儒学以外にも神道や天文学にも精通しており、「式社考」や「神代巻塩土伝」等を著し、高知の緯度を「三十三度半」と観測している。この緯度の精度の高さについては、高知市民なら分かるだろう。
尚、谷家墓所と勝信墓の正規の道順を解説しておく。但し駐車場所はない。が、工務店が許可してくれれば、秦山邸跡に駐車できる。
まず、県道16号と高知北環状線が交差する交差点を北に入った後、左手に二軒過ぎると西に折れる。道は秦泉寺山麓を北西に進む。
そしてサンハイムA棟の向かいから南西に折れる道に入る。数軒先に変形四差路(二方向が私道)に見える三差路があるが、ここを南西に急角度で上がる道路に入る。すぐ先に秦山邸跡の看板が建っている。
工務店の駐車場の南向かいに自然の歩道が上がっている(3枚目写真)が、これを登って行った正面上に墓石が自然石の谷家墓所があり、そこから右に折れたすぐ先に杉家墓所がある。
PS:この投稿が今年最後の投稿になると思う。
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