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毛利勝永の父と龍馬脱藩須崎説関係者先祖の墓

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以前、毛利父子らが関ヶ原の戦い後、土佐藩の山内一豊公の預かりとなり、土佐に入国し、勝永の父、吉成勝信は土佐で没したことを記述した。今日は大河ドラマ・真田丸の総集編の放送があることから、昨日の夕方、勝信の墓を訪れた。

 

一豊公が徳川家康に毛利父子ら一族を引き取りたい旨申し入れ、それが叶えられた理由の一つに、家康が勝信に「借り」があることが挙げられる。

勝信が豊臣秀吉の伏見城築城の普請奉行だった頃、家康の危急を救ったことがあると言われているのである。

 

その勝信の墓だが、大まかな場所は分かっているものの、登り口や道順が分からない。場所は、高知市の秦泉寺山の四方に伸びる尾根の内、北西に伸びる尾根の付け根に近い辺りである。

 

また、現地を訪れて分かったことだが、勝信の墓のすぐ近くには、以前「坂本龍馬の天神大橋逸話を伝えた者」の記事で触れた、龍馬脱藩須崎ルート説の根源とされる安田たまきの言を後世に伝えた一人、谷民衛の先祖の宗家墓所があったのである。

 

市街地で駐車場所がない故、毛利勝永の土佐脱出経路探訪時同様、今回も後で買い物をすることにし、イオン駐車場に駐車させて貰った。しかし日赤病院の移転建設工事で、イオンの駐車場は随分狭くなってしまった。

 

奏小学校(古代港・中津港跡)北西角の信号を北に入り、突き当たりを左折。「カーサ秦泉寺」東端の向かいから北に折れる狭い道路を上る。終点には軽四が一台駐車・転回できるスペースがあったが、この手前から秦泉寺山に登った。山頂の標高は50mもない。

 

尾根に上がると遠回りになるため、途中から斜面を適当にトラバースして、東方の峠道に出ようとしたが、既に廃道化していた。それでも峠自体はその雰囲気が残っており、祠もあった(一枚目写真)。

 

その先の道も廃道になっていたので、最初、尾根直下を北進し、途中から墓が点在する尾根に乗った。

乾家墓所を過ぎるとすぐ左手下に民家が見えたので、「下り過ぎた!」と思い、引き返した。

 

勝信の墓は「土佐史談選書12・土佐の墓」によると、杉家墓所の南にあるようなので、杉姓の墓を右手(南に引き返している際)に見つけると、墓所奥に入って行った。

 

目当ての墓は一番奥の真ん中にあった(最後の写真)。その左には子孫が建立した勝信の生涯を簡単に記した碑があるから分かる。この碑がなければ、墓を探すのは困難を極める。なぜなら墓石には法名しか刻字されておらず、且つ、風化して判読できなくなっているからである。その法名は「白雲院殿好雪神儀」という。

 

勝信の墓の右横には、「毛利十六代」と刻字された森正倫夫妻の墓があった。「もうり」が転化して「もり」になったのだろう。この子孫は傍系ではなかろうか。

余談だが、大坂夏の陣で自害したはずの勝永の墓が土佐市内にあるという。

 

この杉家先祖代々墓所入口(8枚目写真)から明瞭な道が下っていたので辿ってみると、道はすぐ下の墓所で向きを変えた。目印になるこの墓所(5枚目写真)を確認すると谷家だった。もしや、と思い探ってみると、藩政時代の土佐で最も有名だった儒学者、谷秦山の兄・弥太郎重正六世の孫、谷重喜の墓があった。

 

重喜は戊辰戦争時、東征土佐藩兵四番小隊長として転戦し、会津戦争で武功を挙げた。以後、大阪鎮台参謀長にまで昇進したが、明治9年、辞職して立志社に加わり、翌年、副社長となり、高知県軍挙兵計画に加わったものの、以前述べた「立志社の獄」で投獄された。

出獄後は高知共立学校校長や自由党総理代理、自由新聞社長代理等を歴任した。

 

さらに左上に登って行くと秦山の孫・眞潮(ましお)、一番上に秦山の長男・垣守(かきもり)の墓(下の写真)があった。両名共、秦山のように著名な儒学者・国学者だったが、眞潮は浦奉行を務めて野中兼山の右腕的存在となり、垣守は藩に学才を認められ、扈従格にもなっている。

 

垣守の孫娘の一人の夫が、民衛から四代前の潮江谷家(傍系谷家の一つ)三代目・中庵布教なのである。初代から続く藩医で、参勤交代への同行や江戸勤番も仰せつかっている。

 

谷家墓所から道を下って行くと、谷秦山邸跡(2枚目写真)に下り立った。流石に跡地は広いが、現在、工務店の私有地になっている。

 

秦山は儒学以外にも神道や天文学にも精通しており、「式社考」や「神代巻塩土伝」等を著し、高知の緯度を「三十三度半」と観測している。この緯度の精度の高さについては、高知市民なら分かるだろう。

 

尚、谷家墓所と勝信墓の正規の道順を解説しておく。但し駐車場所はない。が、工務店が許可してくれれば、秦山邸跡に駐車できる。

 

まず、県道16号と高知北環状線が交差する交差点を北に入った後、左手に二軒過ぎると西に折れる。道は秦泉寺山麓を北西に進む。

 

そしてサンハイムA棟の向かいから南西に折れる道に入る。数軒先に変形四差路(二方向が私道)に見える三差路があるが、ここを南西に急角度で上がる道路に入る。すぐ先に秦山邸跡の看板が建っている。

 

工務店の駐車場の南向かいに自然の歩道が上がっている(3枚目写真)が、これを登って行った正面上に墓石が自然石の谷家墓所があり、そこから右に折れたすぐ先に杉家墓所がある。

 

PS:この投稿が今年最後の投稿になると思う。

 

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西予ジオパークの二大奇勝と随一の展望所

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2013年、愛媛県西予市全域が「四国西予ジオパーク」として「日本ジオパーク」に指定された。当時、その指定・登録を記念して開催された講演も聞きに行った。

 

以前も触れたと思うが、日本ジオパークと世界ジオパークの指定ジオパークに共通することは、「核」となる特異な地層を主体として、指定エリア内のあらゆるものを対外的にアピールできる点。

 

故に既存の観光地や史跡、伝統芸能、祭り等、地学とは関係のないものもジオパーク関連地に指定することで新たに脚光を浴び、注目されることになる。尤もジオ=大地なので、地学に限定されるものではない。

 

西予市は五つの自治体が合併した市であるため、エリアは広範囲に及ぶが、市を東西に貫く黒瀬川構造体(九州から関東まで総延長1,000km)を主軸にしており、大別すると「北部宇和海エリア」(三瓶町と明浜町)、「肱川上流エリア」(宇和町と野村町西部)、「黒瀬川エリア」(城川町)、「四国カルストエリア」(野村町東部)に分けられる。

 

この全エリアの中で西予ジオパークを象徴するものは、市の黒瀬川構造体の西端になる須崎(すざき)海岸にある、二つの巨大な凝灰岩チャート。地殻変動で西方から移動してきた地層がぶつかって垂直に屹立したもので、一つのチャートには「マンモス岩」という俗称が付けられている。

 

須崎海岸は元々、岬の上に立つ須崎観音が有名だったが、海岸自体が注目されるようになったのはジオパーク指定後。

ただ、残念なのは遊歩道が僅か300mしかないこと。恐らく、ミニ堤防を遊歩道に転用したものではないかと思われ、対向者とのすれ違いもできない狭い堤防上は手摺もない。但し、万が一用の浮き輪が三ヶ所に設置されている。

 

因みに高知県土佐市にも、同様に地殻変動により、垂直になったチャートがあるが、その規模は日本最大且つ、環太平洋地域最大。

 

私は明浜町随一の観光・宿泊複合施設、「あけはまシーサイドサンパーク」内の「民宿故郷」に滞在しており、そこから三瓶町の須崎へと向かったのだが、ルートは故郷東からジオパーク名所の「大早津石灰岩」背後に回り、先に権現山(464m・上の写真)山上の「宇和・明浜山岳公園」に寄った。

 

ここからの展望は、同じくジオパーク名所の一つで以前紹介したこともある(と思う)法華津峠(396m・コースガイド→愛媛屈指の絶景峠と幻の洞窟)からの景色に勝るとも劣らない。

 

西には三瓶から八幡浜市に到るリアス式海岸、その奥には日本最長の岬・佐田半島が遠望でき、内陸部に目を転じると鬼ヶ城山系を始めとした南予の山々も望まれる。

ここの公園もジオパーク指定後、知名度が上がったが、今でも現地へ到るまでの道路の分岐等には道路標識が一切出ていない。

 

この公園は山の尾根を走る県道344号沿いにあるが、そこからは一旦北に進んだ後、道路標識を見て、仁士方向に左折し、県道257号から国道378号に出て、須崎海岸へと向かった。

 

途中、福島(上と下の写真)を望む赤崎と二本松海水浴場(8枚目写真)に寄ったが、駐車場もなく、後者の砂浜は波に削り取られ、大半が消滅していた。

尚、このルートではなく、海岸を走る国道沿いにはジオパーク名所の大崎鼻公園等があるが、それらや福島展望公園(赤崎の上方の尾根)2014年正月時に探訪済。

 

須崎海岸探訪後は、三瓶町中心部まで引き返し、県道26号を北上、和泉河内の川内橋手前の三差路を右に折り返し、ジオパーク名所の奇勝・螺岳(さざえがだけ)に向かった。

 

大昔の南海地震による津波がこの山(地形図での山頂の標高は300mだが、ジオパークパンフでは360mと表記)まで達し、山肌にサザエが沢山付着したことから山名が名付けられたという。

 

これは白鳳の大地震(684)か、高知大学の教授が解明した二千年以上前に波高50m以上の津波を起こした南海大地震により、津波が朝立川を遡り、山裾まで達したということではないだろうか。

 

サザエに山容が似ているとも言われるこのチャートの山は、ケイビランやカノコユリの自生地でもあり、山頂直下まで車道が通じており、1分ほどで登頂できる。

 

山頂には役行者を祭る祠や風化した石塔、井上平太郎氏の頌徳碑、和泉西国観音霊場第一番石仏があり、岩山だけに展望も優れており(上の写真)、宇和海も遠望できる。

 

ミニ観音霊場はそこから東方の小社が祭られている山(上の写真)にかけての尾根上と北側斜面に設けられており(下の写真)、一巡することができる。

 

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利用安宿ベスト&ワースト3

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これまで利用してきた安宿の内、記憶に残っている施設のベスト3とワースト3を公表したい。尚、以前も述べたように私の言う「安宿」とは、一泊二食で6,500円前後以下、素泊まり・シングルで4,000円前後以下の宿を指す。但しこれは2006年以降の要件であり、それ以前は一泊二食9,000円以下の宿に宿泊しており、素泊まりはしたことがなかった。

 

[ベスト3・料金割引且つお土産をサービス]

民宿ふるさと(広島県呉市豊町大長)

以前、ブログでも紹介した、とびしま海道・大崎下島の小長港前にある宿。

料金は一泊二食で6,000円か六千数百円程度だったと思うが、特別に弁当も作って貰った。

 

20122013年の年末年始に三泊ほど利用したが、食事は宿泊客全員と宿の女将の帰省していた家族全員が同じテーブルを囲むという、山小屋のような雰囲気。夕食はカニの入った鍋物が多かった記憶がある。

 

宿泊代支払い時には何と「端数はいらないから」と2,000円安くして戴き、土産に沢山のみかんや自家製みかん餅まで戴いた。想像を超えるサービス。

下の写真は大崎下島西隣、豊島の十文字展望台。

 

[ベスト2・餅のような刺身]

旅館和泉屋(高知県大月町柏島)

この宿も当ブログや著書で紹介した。一泊二食7,000円台だったと思うが、19992000年の年末年始三泊して毎日弁当を作って貰い、それに酒4合、ビール大瓶一本で合計2,4000円弱。弁当や酒類が格安なのが分かる。

 

この宿の特徴は、毎日の夕食時に出る刺身の食感。どの種類の魚ももっちもち。目隠しをされて食べると餅だと思うかも知れない位。

下の写真は大堂海岸の龍ノ浜。但し、現在は木々が茂っているため、このような景色は見られない。

 

[ベスト1・料亭並みの料理]

民宿清瀧(高知県土佐清水市)

この宿もブログで紹介したが、兎に角料理が1泊2食付で6,300(2011年時)とは思えないほど美味しい。吸い物からメインディッシュまで、全てが料亭クラスの味。体長20数センチの海老の塩焼きが出て来たこともあった。部屋の板の間に洗面台があるのも便利。

これまで三回ここを利用したが、これだけ利用した宿は他にない。

 

下の写真は市内以布利にある海食洞。

 

 

[ワースト3・部屋での食事禁止]

民宿故郷(愛媛県西予市明浜町)

前回の記事でも触れた、「あけはまシーサイドサンパーク」内にある宿泊施設。本館和室の他にトレーラーハウスやキャビン棟もある。

 

素泊まりは3,690円から、二食付きは6,930円からで、朝食のみや夕食付のみの選択も可。

この宿の一番の問題点は、本館が全室禁煙且つ、食事禁止になっていること。

 

素泊まりや一食のみの宿泊者は、サンパーク内の入浴施設内レストランで食事できるが、その施設の開店は午後。しかも周辺には飲食店やコンビニもない。

 

第一、ネットで予約時、そんな禁止事項は記されていなかった。これは明らかな法規違反。さらに部屋備品としてポットや茶も記載されていたのに拘わらず、それらは廊下にあり、共同使用だった。

 

因みに私は「法規違反」に従うことができず、部屋でスーパーの弁当を食べたが、ゴミは持ち帰った。

尚、この宿のいい点としては、部屋からの海の眺めがいいことと、正月時の連泊客には地場産品のみかんジュースをプレゼントする点。

 

サンパークは石灰鉱山跡に建設されているが、下の写真は索道による鉱石の輸送船積み込み施設跡。

 

[ワースト2・食べられない肉]

まなべ旅館(山口県宇部市際波)

JR山陽本線宇部駅前にある宿で、一泊二食付き4,500(2010年時)と格安だが、一般の宿泊施設では夕食に出すことが非常識とされるカレーライスが出た日があった。しかもその肉は硬くて歯が立たず、結局「肉なしカレー」となってしまった。まるで飼料なみ。

 

この宿もネットでは記載されてないものを要求する法規違反があった。それは、一日中、部屋にいる際はエアコン代を500円徴収するというもの。幸い、予想されていた降雪は少なかったので、外出することができた。

 

他にも市内の山田屋旅館も安宿だが、団体客が帰った日の夕食は、当日の朝食の残り物だった。

下の写真は市内の石灰記念館内模擬坑道。

 

[ワースト1・メインディッシュはレトルト品]

民宿なかた(高知県大月町弘見)

大月町の中心街にある宿で一泊二食6,500(2011年時)

この宿も料理が最悪だったので、本来、三泊する予定のところ、二泊で切り上げた。

その夕食のメインディッシュは何と、二個で100円位のレトルトのハンバーグ。あの弁当等に入れる薄っぺらいまずいやつ。

 

風呂は道路を挟んだ向かいにあり、いざ行っても先客がいれば入れず、引き返すはめとなる。

女将は金髪に染めた30代前半位(当時)で、部屋の内装等に好みが出ていたが、金髪で客を迎えることが失礼にあたることが分からないのだろうか。

下の写真は2015年時の龍ノ浜。

 

 

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お龍、土佐和食(わじき)へ(18)

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[豊臣秀吉に抗った武将の子孫]

土佐東街道の明神橋西袂まで引き返すと、北に折れてまた回り道をする。

香宗川分流堰の西には、地蔵と祠が祭られているが、この地蔵は香宗川の渡しの安全のために建立されたものだろう。

 

当然、土佐勤王党結成地の佐田屋の主人やそこに寄留していた絵金、武市瑞山らも幾度となく渡しを利用したことだろう。

地蔵の南の家屋は、近代に建てられた中沢医院関連の建物。

 

多分、地蔵の西に架かる香宗川分流橋を渡り、赤岡運動広場北側にあるトイレで用を足した後、香宗川沿いの県道14号を西進したと思う。

 

運動広場から三番目の橋、大忍(おおさと)橋北袂の北西の畑沿いに「別所山」の看板が建っているが、その名称は現在、運動広場からこの周辺一帯の小字名になっている。

 

「香美郡誌赤岡町」には、ここに高さ四丈三尺、周囲三丁二間の「別所山」という小丘の段々畑があり、頂上に小祠が祭られてあった旨、記述されている。

 

天正5(1577)、織田信長の命を受け、中国平定のため羽柴秀吉は播磨に入った。秀吉側と播磨の武将たちの間で協議がなされたが、翌年、別所長治が離反し、東播磨を中心に結束して秀吉に対峙し、三木城の防備を固めた。

 

しかし秀吉軍に支城を次々と落とされ、物資の補給路を断たれ、遂に長治は自らの一族の命と引き換えに、家臣や領民を助命して貰うことを条件に降伏する。

 

が、この時、密かに2歳の別所小一郎重治は遺臣に連れられ、阿波に逃れ、赤岡等を領地とする香宗我部親秦に会い、庇護して貰うことを快諾して貰う。そして重治ら一行は土佐東街道を西進して赤岡に入り、正福寺(現、赤岡小学校=下の写真)に隠棲することになる。

 

その後、香宗川北岸の小丘に館が建てられ、重治らは移った。その館を「別所館」、小丘を「別所山」と呼んだ。しかし別所姓を名乗ることを憚り、光吉姓を名乗ったという。

 

貞享4(1678)、重治の孫、甚右衛門は土佐藩山内家に召し出され、御留守組を仰せつけられ、潮江村(高知市)に移った。そして姓を三木に改名し、現在に至っている。

明治44年、赤岡町による土地整理が行われるまで、重治と甚右衛門の父・助之亟の墓は正福寺東隣の大立寺墓地(現、赤岡小学校体育館=上の写真。下の写真は寺跡の一角)にあった。

 

別所山は近代以降、崩されて水田や畑となったが、現在、西側は住宅地になっている。

そこから更に県道を西進すると、赤岡橋北袂の駐車場所である俵屋跡に帰り着く。赤岡町と香我美町岸本の各史跡・伝承地を一日かけて回遊したのである。

 

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高知市のパノラマ展望新名所・七ツ淵三宝山

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[徒歩10分程度で別天地]

以前「高知市三大マイナー景勝地遺産(1)七ツ淵」で紹介した、七つの淵と滝が連続する七ツ淵のハイキングコース(七ツ淵神社参拝道)の分岐に近年、ある手製の指導プレートが設置されたことが分かった。そしてその道を登りつめた所には絶景が広がっている模様。

 

そこは「七ツ淵三宝山」。巨岩や奇岩怪石を擁す標高410m超の山で、山頂の展望岩には三宝高峯神社の祠が鎮座している。県下にこの神社を祭る山は何ヶ所もあり、その山名は大体「三宝山」となっている。

 

三宝高峯神社の総本社は土佐町の三宝山(925m)にある。「三宝山」はこの社の山号。山号があることから、元々は山岳宗教の山だったことが分かる。

作神信仰の山でもあり、昔から土佐一円の農民らに崇敬されてきた。

 

七ツ淵三宝山の登山口は、七ツ淵清水川集落西上の参拝道の変形四差路(三差路に見える)で、標高は370m。ここには南西方向からコンクリート車道が通じているが、駐車場所や車の方向転換に苦慮するため、422mピーク(地形図=土佐山)東下のKDDI高知重倉西局(標高380m・二枚目の写真)の向かいの造成地に駐車し、そこから七ツ淵ハイキングコースを一旦、前述の変形四差路まで下った方が良い。

 

KDDI高知重倉西局の西には、七ツ淵神社参道鳥居と狛犬があるから目印になる。

私は近年、1.5車線ほどの幅員の道路がここまで開通していたことを知らず、清水川集落内の狭い道路を車で上がって行った。

その新設道路の入口は、県道16号の「七ツ渕」バス停から南西に折れる道路に入った先にあり、道路標識も建っている。

 

前述の変形四差路南側の西の斜面には三宝山参道の伏せ石(自然石の石段)が設置されており、道沿いの植林に手製の「三宝様」と書かれたプレートが掲げられている。

 

参道は尾根上に付けられており、コンクリート車道をショートカットして上っている。

上部に来ると高さ1mほどの立石や大きな割石等、奇岩怪石や巨岩が現れてくる。

自然石の上面を加工した手水鉢(上の写真)から先が神域であろうと思われる。

 

祠の建つ展望岩からは北山連山から高知市街地のパノラマが広がっており、浦戸湾や太平洋も遠望できる。まさに高知市屈指の展望。所要時間はKDDI局から10分程度だったように思う。

 

四国の県都(県庁のある市)の旧市域の中では、高知市は松山市に次ぎ、展望所が多いように思われる。大高坂山(高知城)と五台山を筆頭に、筆山(龍馬は筆山と鷲尾山に登っていた)、皿ヶ峰(下の写真は山頂からの展望)、鷲尾山、柏尾山月石、大成園太陽広場上展望台(高知市の南の屋根・南嶺全山縦走&半回遊)、宇津野峠上展望所、大畑山トンネル南西の162mピーク(浦戸海軍遺跡・後編:海軍山脈縦走)、愛宕山(仁井田の)、大平山、龍馬の八畳岩、城ヶ森、鴻ノ森(土佐富士→桜の土佐富士)、北山スカイラインの仏瀬越休憩所と英志台(現況は不明)等々。

 

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ネット初公開!冬でも気持ちいい渓谷上流の無名滝群

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[一つの滝壺に二つの滝が]

冬の渓谷や滝巡りを敬遠されている方もいると思うが、身体が火照れば、滝風や沢風は気持ちよく感じる。つまり、ある程度の起伏のある遊歩道の渓谷は、冬でも心地良い。

 

そこでお勧めなのが、愛媛県宇和島市街地から僅か7km東方にある薬師谷川上流の薬師谷渓谷。ここは自治体が十数年ほど前、2,500万円をかけて木造の遊歩道橋を改修した位の景勝地。

 

両岸の巨大岩盤が岩戸のようになった「岩戸の滝」(2枚目写真)や遊歩道橋下に懸かる「萬代(よろずよ)の滝」、滑床渓谷の同名滝のように岩肌を滑るように流れる「雪輪の滝」を始め、甌穴群の「大瓢箪」や「小瓢箪」等、変化に富んだ景色を楽しむことができる。

メインの滝である雪輪の滝まで行けば、身体も火照ってくる。

 

渓谷遊歩道は大瓢箪先の円筒形の堰の手前で終わるが、宇和島市誌に掲載されている渓谷略図には、更に上流に「オタカ滝」なるものが記載されている。そこでこれを探すことにした。尚、実は本来、この滝を探すために渓谷の上流に分け入ったのではなく、円筒形の堰の先から銭ヶ岳へ登ろうとした次第。

 

しかし地形図に記載されている破線道は廃道化しており、途中で断念して下山した。が、このまま帰ったのでは、観光客と同じように、整備された渓谷をただ探勝しただけで終わってしまう。それでは私がここに来た意味がないので、オタカ滝を探すことにした訳。実際、沢を遡行していくと、三つも滝があり、その内二つの瀑布は同じ滝壺に落ちていた(1枚目写真)。

 

ということで、そのルートを記す。まず、円筒形堰(下の写真)は右岸(東岸)を越える。因みに、右側の堰前にある岩を「風神岩」、左側堰前の岩を「雷神岩」と勝手に名付けた。若しくは「フウガ岩」と「ライガ岩」でも良い(YOUSHOCK)。

堰の上流ですぐ沢は二手に分かれる。東の開けた沢が本流のように見えるが、薬師谷川本流は南の陰気な涸れ沢の方。市誌の略図では俗称の「水無川」として表記されている。

 

最初は右岸(東岸)に作業歩道が付いている。しかし植林帯に入ると消え、沢には水が流れている。そのまま沢沿いを登って行くとほどなく進路に岩が現れるので、そこで左岸(西岸)に移る。こちらは所々踏み跡が残っている。ヤブはない。

 

しばらく登ると、横に45度位に傾斜した岩盤を縦に滑るように流れる滝(上の写真。下の写真は滝の天辺)に出くわした。落差は20mもないが、天辺の木の枝に三本、マーキングテープが巻き付けられていたことから、当初、これがオタカ滝ではないかと思い、しばらく休止した。

 

が、その上流にも激流の音がする。まだ奥に別の滝があるかも知れない、と思い、遡行を再開すると、上流は川床が滑らかになっている箇所が多く、その先にはX字にクロスした滝状の激流(下の写真)も飛沫を上げている。

 

その内、左岸が遡行し辛くなったので、右岸に渡り直したが、ほどなく間伐された植林が折り重なるように倒れている箇所に到り、やや登り辛くなる。

 

するとさきほどの滝より大きな滝に出くわした。しかも一つの滝壺に二つの滝が落ちている。本流の滝は滑るように流れる滑滝(下の写真)で、支流の滝は水量が少なく、一旦、上部の岩に落下してから、向きを変え、岩肌を斜めに滑るように落下している。横から見ると、瀑布の形状は以前紹介した四国最大の滝・高瀑(たかたる・132m:コースガイドは→四国最大の滝・高瀑と高瀑渓谷)に似ている(最後の写真)。

 

この二つの滝は「夫婦滝」と呼んでもいいが、規模はさきほどの滝より大きい。落差も雪輪の滝に匹敵するほどかも知れない。このどちらかがオタカ滝だろう。「オタカ」は何を意味しているのか分からないが、「オ」が「雄」であれば、支流の滝が飛沫を上げる荒々しさがあるので、雄タカ、本流が雌タカの滝と呼んでいいだろう・・・?

 

ここの高度計の高度は465mだったが、銭ヶ岳断念時、高度修正を行ってなかったので、プラスマイナス20m位の誤差があるかも知れない。薬師谷渓谷駐車場(流しそうめん店前)の標高が160mなので、一時間半ほどで到達できるのではないだろうか。

 

因みに現在、萬代の滝上流の橋が通行禁止になっている。しかし高学年の小学生以上であれば、橋台部の岩に垂らされたロープを伝って遊歩道に下りることができる。

往路はその遊歩道を歩き、復路は狭い林道のような旧道を下れば良い。

 

尚、流しそうめん店前の駐車場(車道終点)は、夏場は使用できない。夏場や三台以上の先客がいる際は、駐車禁止表示のあるバスの転回場を過ぎて少し行った所の右手のやや広くなった箇所に駐車すること。そのバスの終点は「薬師谷温泉前」。バスはJR宇和島駅か市の中心街から出発するものと思うが、詳細は宇和島市観光協会TEL0895-22-3934へ。

 

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架橋された九島・宇和島富士のスーパー霊場

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去年末、宇和島市・槙の山の超ハード霊場を紹介したが、去年宇和島本土と架橋された九島にも、最高所の標高が僅か320mでありながら、一巡するのに6時間近くかかるスーパーミニ霊場が存在する。それを「九島二十四輩霊場」という。

 

「二十四輩(にじゅうよはい)(略称「よはいさま」)とは、親鸞聖人の高弟24人よって開基された関東、北陸の寺のことで、明治初期、九島島民が「地四国」(ミニ四国霊場)に倣い、島の最高峰で今年の干支の山でもある鳥屋ヶ森(320m・「九島山」や「宇和島富士」とも言う)を中心に、島の西部を一巡する二十四輩霊場を設置し、45ヶ所に石仏を配した。

 

霊場参拝コースは、槙の山の地四国のように、目まぐるしく小刻みにアップダウンを繰り返すことはないものの、一旦鳥屋ヶ森の中腹まで登って反対側の海辺まで下り、また別コースで中腹まで登って逆の海岸へ下る、ということを2回繰り返しており、山頂へも極力遠回りして上るルートになっている。

それだけに体力と時間を要し、健脚家でないと一巡することは難しい。

 

そんなこともあり、昭和後期以降、この霊場は廃れていき、参拝道もヤブ化していった。が、1990年代末頃、島にUターンしてきたある方がこれを憂い、他の島民にも呼びかけ、再整備した。これは’90年代の全国的な中高年登山ブームが影響しているのかも知れない。

 

しかしその方の熱意も虚しく、現在、参拝道は二ヶ所がヤブのジャングルと化し、鳥屋ヶ森山頂からの展望も失われつつある(下の写真)。去年、本土と陸続きとなり、参拝順路起点近くに参拝コースが記された観光案内板が設置されたのに残念なことである。

 

勿論私は、そんなことは実際、参拝道を辿るまで知らなかったことで、ヤブ化箇所は強引に突破して行った。一応、その二ヶ所のヤブを回避するルートもあるが、10ヶ所の石仏をとばすことになる。

 

が、そのヤブ箇所は僅かな距離故、ヤブ山登山経験者であれば、突破は難しくない。

山頂からの展望もかつてと比べると悪くなっているものの、宇和島市街地はある程度望め、また、参拝コース沿いには島一番の展望所等、複数箇所の展望ポイントや奇岩、石の洞穴等があり、周囲が海に囲まれているだけに、所々海原の展望も開け、一服の清涼剤となる。

 

ヤマケイサイトに参拝コースガイドとコース図を投稿した(架橋島の宇和島富士は超ハード廃道霊場)ので、興味のある方は参考にされたい。尚、詳しい参拝コース図については、ネット初公開になる。

 

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真相!タモリの眼は新沼謙治の眼と同じ

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[Mステで眼が透けるグラサンをかけていた]

先月、タモリが「オールナイトニッポン」に於いて、自身がサングラスをかける理由について「虚偽」を述べたようである。

 

放送では、「顔に特徴がないから」サングラスをかけるようになった旨、話していたようだが、心理学的に見ると、「他人に知られたくないこと」について、本人が真実を述べるようなことは極めて稀。ましてタモリのようにプライドが高いタレントなら尚更。

 

 

ウィキペディア等では、タモリが少年時、右目を失明したことで義眼を入れているから、と記されているようだが、それを示す証拠はない。それに’80年代後期か’90年代初期頃、ミュージックステーションか何かの番組で、眼が透けて見える黄色いサングラスをかけていた時、右眼は普通に動いていた。義眼ならこのようにはならない。

 

なぜその時、クリヤータイプのサングラスをかけていたのかは分からないが、本人が思っていたより眼が透けて見えたから、以後、かけるのをやめたのではないかと思われる。

 

 

その放送を見た方ならこう思ったはずである。「タモリの眼は新沼謙治の眼と同じ」だと。新沼謙治の眼は片目の瞼がやや下がり、細くなっているが、タモリの右眼もこれと同じだったのである。

余談だが、新沼謙治の「嫁に来ないか」は私のカラオケレパートリーの一つ。

 

「ネットで公開されている写真では両目とも普通じゃないか」という方もいると思うが、マフラーを巻いてマイクを持っているあのカラー写真は、右眼にしていたアイパッチ部分を加工して消し、左眼を反転させ、更に画像処理を施したもの。

古い雑誌に掲載されていた黒縁眼鏡時代の写真はどれも、笑う等して両目を細くして撮られている。

 

ただ、新沼謙治もそうだが、タモリも以前よりは、右眼は普通の眼に近い状態になっているのではないかと思う。

タモリは「心のグラサン」を外す時、素顔で登場することだろう。しかしそれは芸能界引退後かも知れない。

 

「心の〇〇」は誰しも持っており、それを外すことは容易ではない、と思う方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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お龍、土佐和食(わじき)へ(19)

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肺結核で没した有名詩人子孫と交流があった

岸本町道路元標(二枚目写真)から東の土佐東街道の道筋は、そのまま旧国道に重なる。元標から東方を見た際、旧家が全く見られなかったので、香南市香我美町内の街道踏査はここで切り上げることにした。よって今回の記事は机上調査によるものとなる。市販書製作時は全ルート踏破するのだが、ブログではそこまでやる意義はない。

 

野島ハイヤー西隣には、以前取り上げた書家で寺子屋運営者の細木淳蔵の筆塚(下の写真)がある模様。これは淳蔵の没後、門人が廃筆を束ねて埋めた塚。

また、岸本橋東袂が岸本町道路元標の原位置であろうと思われる。

 

街道ルートは以前、「桜とツツジと陸軍壕が同時に楽しめる山

として取り上げた月見山(外部サイトでは→2,700本の桜とツツジが同時に咲く陸軍山砲陣地の山)手前の十字路で県道に合流して南下するが、その十字路北方の月見山宝幢院境内には、以前紹介した徳弘梅左やその父・其舟、松尾芭蕉らの句碑が建立されている模様。

 

県道はほどなく国道55号に合流するが、その合流地の岸本神社入口付近に友綱貞太郎出生地之碑と岡本弥太詩碑(最後の写真)がある模様。前者は安政元年(1854)、岸本に生まれた力士で、板垣退助の知遇を得て角界入りし、前頭筆頭まで進んだ。

 

後者は大正末から昭和初期に活躍した、県下の文学界では有名な詩人で、県下に於ける自由詩の同人誌の草分け「ゴルゴダ」を始め、「短歌芸術」の前身、「あおすけ」等、数々の詩誌や詩集を世に送り出した。

 

詩碑に揮毫したのは高村光太郎で、昭和23年、交流のあった詩人らによって建立された。

余談だが、岡本弥太の子孫とは’90年代後期、ビジネス上の付き合いがあった。子孫は通信機器関連会社の経営者だった。

 

神社入口から左手に数軒過ぎると、また街道は国道と分かれ、北側を並走する。この道も旧国道である。K光氏宅を過ぎると夜須町に入る。

 

次回は土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線夜須駅付近へと移動し、海援隊隊士の墓等を巡った後、土佐電鉄安芸線廃線跡から手結山へと登る。

尚、今回の添付写真の三枚中二枚は、合併前の香我美町教育委員会が発行した「香我美町文化財マップ」から転載した。

 

実際に踏破・踏査した次回の記事に期待する、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

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愛媛の超とがったミニ岩山三山(お気軽ハイキング)

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[三山とも30分台で登頂可]

愛媛県内に於ける究極の尖峰の内、スーパー低山(標高200m~500m未満とする)一座とウルトラ・スーパー低山(標高200m未満)二座を紹介したい。

 

三座とも麓から仰ぎ見ると、登頂が困難ではないかと思うほど、山頂部が鋭角的に尖っているが、いずれも急登の少ないコースがあり、ハイキング初心者でも登頂できる。

 

(1)  千羽ヶ岳(401.1m)[西条市丹原町]

東温市の旧川内町から西条市丹原町にかけての国道11号沿いに「桜三里」と呼ばれる桜の名所がある。

 

その丹原町千原(ちはら)地区の中山川を挟んだ対岸、千原と丹原町臼坂、丹原町鞍瀬の三地区の境界が重なる地点に、藩政時代より桜三里とセットで、その景観が愛でられてきた景勝地がある。それが県下のスーパー低山一の尖峰、千羽ヶ岳である。

 

そんな千羽ヶ岳は中山川沿いが断崖になっているものの、裏手の稜線を車道が越えており、そこから尾根伝いに歩くだけで簡単に登頂できる。急登もヤブも皆無。

コースガイドとコース図→伊予の低山随一の尖峰・千羽ケ岳

 

(2)  本尊山(187m)[伊予市双海町]

「夕日のミュージアム」で有名な双海シーサイド公園の上灘川を挟んだ北東に、これまた峨々たる岩山、本尊山(ほぞんさん)が聳え立っている。添付写真では今一つその様子が伝わらないかも知れないが、昭和50年代にJR予讃線上灘駅から撮られた写真を見ると、「岩の富士山」たる山容をしている。

 

また、付近の国道から山の西側を仰いだ際、9合目辺りの断崖に鳥居が建っているのが見えると思うが、それは現在、登山口に建つ天一稲荷神社の前身の社である「本尊の宮」が元徳2(1330)から元禄4(1691)迄、山頂にあったため。

 

山頂直下には治承年間(1177~1181)、藤原氏によって由並本尊城が築城された。その後、城主は南朝方の合田氏、北朝方の得能氏と、落城する度に変わり、天正年間には津々喜氏や稲葉氏が城主だったという。

 

が、長宗我部元親の四国統一時に再び落城。その後、豊臣秀吉の四国征伐による小早川隆景の攻撃で再度落城し、歴史を閉じた。

 

その城壁は現在でも残っているが、山頂下方の岩盤はまるで、近世城郭の城壁を彷彿させるような形状をしている(上の写真)。それは自然の形状なのか、築城や城の改修時に加工されたのかは定かでない。

前述の鳥居の箇所や山頂からは、伊予灘から山口県本土や島群の絶景が広がる。

 

松山方面から向かう際、アプローチが分かり辛いかも知れないが、国道378号の南沿いに小字名の「城の下」という看板が現れてほどなく、外壁に○に「共」と書かれた「上灘共栄網」が入った複合施設が現れる。そのすぐ先の左折道に入る。

 

旧道に突き当たると右折。左手に二軒の民家を過ぎると、天一稲荷神社の石段が現れる。石段口の広場が駐車場なので、軽四以外は斜めに駐車すること。但し、元旦や祭礼日は駐車を遠慮すべき。

 

(3)  医王山(130m)[西条市楠と今治市孫兵衛作との境界]

延長約2.5kmの城壁を擁す古代朝鮮式山城・永納山城跡の縄張内に、地形図での標高が100mの岩山、医王山がそそり立っている。この医王山の山腹にも古代城壁が残っているようだが、残念ながらヤブや土砂に覆われて判然とせず、未整備のまま。

 

この山頂部は全てが岩場(下の写真)のため、360度のパノラマが広がる。頂上には確か、旧東予市が設置した三角点があったように思う。その測量時の高度が130.1m

 

登山口は無名峰登山経験がない者にとっては分かり辛いかも知れないが、2分以内で稜線に上がることができる。

 

因みに私は最初、自治体が整備した永納山の二つのコースを往路と復路に利用し、下山後は道路を回って医王山登山口まで行き、山頂を往復し、永納山登山口まで戻るという、歩き甲斐のある回遊コースを取った。永納山の城壁は部分的に確認でき(下の写真)、展望の優れた複数のピークもある。

 

私が登ったのは最高気温が30度を超えた6月下旬だったが、両山共、潮風が吹いていたので、暑さは殆ど感じなかった。コースガイド→愛媛のサギソウ群生地と古代朝鮮式山城跡と超低山の岩山

 

 

ところで、標高1000m以上の愛媛の尖峰と言えば、久万高原町の石鎚スカイライン沿いにある冠岳(1380m)を思い浮かべる。一時間台で登頂できるが、道なきトラバースやガレ場登りがあるため、読図力とルートファインディング力が必要。コースガイドとコース図は→超尖峰・冠岳と大冠岳

 

四国の他県の尖峰も紹介してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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DeNA傘下の詐欺旅行サイトの違法手口

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DeNAは故意に詐欺に加担したのか]

DeNAは去年11月末に各傘下企業が提供するキュレーションプラットフォームサービスに於いて、誤った記事や盗用記事・写真等の指摘が何百件にも上ったことから、全ての傘下企業の提供サイトを休止したとのこと。

 

キュレーションプラットフォームサービス・サイトの中の旅行部門が、詐欺会社である株式会社Find Travelが運営する旅行のポータル悪徳サイト「ファインドトラベル」。DeNAの傘下(子会社)になったのは20152月。

 

当時の代表CEO井出一誠容疑者(違法行為が明白であるため)は、旅行のポータルサイトを立ち上げる際、如何に楽をして「国内最大」の旅行ポータルサイトにするかを考えた。そして安易で稚拙な行為を行ってしまう。

 

それは、自社社員(契約社員を含む)一人一人が何十ものアカウントを使用して別人になりすまし、旅行関係や自治体のサイト、個人ブログ等から、美しい写真と優れた旅行記等の記事を探して「盗用」し、一つの旅行記として投稿すること。一応、写真等には出典URLを明記しているが、出典元から承諾を得たケースはなかった。

 

そしてサイトのアクセスカウントについては、延べクリック数を有効にした。つまり、社員が皆、自分の投稿を一日何百回もクリックし、サイト全体のアクセス数を上げていたということ。

これによって読者ユーザーアクセス数が、国内の旅行ポータルサイトの中で最大となり、「国内最大の旅行ポータルサイト」と謳って広報活動を展開する。

 

ネットニュースでは、これを鵜呑みにして報道したケースもあったと思うが、地上波テレビや一般紙の新聞等の「一流マスコミ」は、「ウラが取れない」ということで報道しなかったはずである。

 

DeNAがなぜ、こんな「ウラが取れない」サイト運営企業を傘下に収めたのかは分からないが、果たしてDeNA側は本当にこの違法行為を知らなかったのか、という疑問が出てくる。

 

DeNAのように、如何に歴史の浅い企業であっても、普通の企業であれば子会社化する相手企業を最低限、調べるはずである。ファインドトラベルサイトについては、調査する以前にトップページを見れば、公表されているアクセス数や「国内最大」のうたい文句が「偽物」であることが分かる。一日に旅行記が数件しか投稿されないサイトが「国内最大」である訳がない。旅行記の全ての写真が他サイトからの転載というのも普通のサイトではあり得ない。

 

その「数件」の旅行記は全て自社社員が投稿したもので、一般のユーザーが投稿する旅行記は新着ページには反映されない。検索すると表示されることもあるが、その際でも関連性の薄い自社社員の旅行記が優先的に表示され、一般ユーザーの旅行記は最後に表示されるようになっている。

 

今回の傘下企業サイトの休止の要因は、医療部門サイトの記事が出鱈目だったことなのだが、一応、責任を取る形でDeNAのCEOは自らの報酬を半年間、僅か30%だけカットすることを公表している(添付画像)。しかしその医療関連記事についての炎上がなければ、ファインドトラベル等のサイトはそのまま継続されていたかも知れない。

 

サイトを見ただけで、相手企業が「偽物(偽者)」であることが分かるにも拘わらず、傘下に入れたのは、最初からDeNA側も「偽物サイト」であることを知りながら、自社の価値を高めるため、子会社化したのではないだろうか。Find Travel社側も「DeNAグループ企業」という信頼を得て、HISやるるぶ、自治体関連の公的機関等とコラボしている。

 

是非次回の株主総会で株主や総会屋の面々が「真相」を追求することを期待する。

しかし、「国内最大のクチコミ&旅行ポータルサイト」を謳うフォートラベルも約9割の旅行記投稿者の一日のアクセス数は数十ほどと、「国内最大」の宣伝文句が疑問視される。また、投稿に応じて付与するポイント制に於いても不正が確認されている。
 
サイトは信用せず、旅行先は自らの意思で決める、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

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愛媛県の鍾乳洞四景(休止サイト投稿)

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[冬は鍾乳洞が暖かい]

前回の記事で述べたDeNA傘下の詐欺旅行サイト「ファインドトラベル(Find Travel)」へは当初、違法サイトであることを知らずに一回だけ、「まとめ旅行記」を投稿したことがある。

 

旅行記のタイトルは覚えておらず、記事原稿も紛失しているが、「愛媛の地下世界鍾乳洞五景」のようなタイトルで、羅漢穴(愛媛県最大の石灰洞穴・羅漢穴)、穴神鍾乳洞、大川鍾乳洞(「四国の戦争遺跡ハイキング」に収録)、大屋敷鍾乳洞(「ナニコレ珍百景」で放送の内子町の無名鍾乳洞・後編)、黒瀬川鍾乳洞を紹介したと思う。

 

鍾乳洞=夏、というイメージを抱いている方が多いと思うが、羅漢穴のような高所の鍾乳洞を除き、普通の鍾乳洞内の冬期気温は大体13度前後。これは高知市等の冬期の平均的一日の最高気温とほぼ同じ。つまり、屋外にいるより暖かい。

 

有名な安森洞を記事に入れなかったのは、鍾乳石があまり見られないため。ただ、水流のある洞内コースを、長靴を履いて遡行するようになっており、これはまた違った魅力がある。故に今回、穴神鍾乳洞、黒瀬川鍾乳洞、大川鍾乳洞と共に簡単に紹介したい。

 

(1)  穴神鍾乳洞(西予市城川町)

洞長:75m

 

現在、県唯一の有料観光鍾乳洞となっているが、入洞料は200円とお手頃。

洞内は一方通行で、入口横には溶食痕があり、出口手前には発見当時、日本最古だった約12,000年前の縄文時代初期の微隆起線文土器や石鏃、貝殻を使用した装身具等が出土した穴神洞遺跡がある。

 

元々この遺跡のみが知られており、そこから奥に長い鍾乳洞が続いているのが発見されたのは昭和44年と、歴史は浅い。

 

竪横複合洞で階段が随所に設置されているが、天井近くから流れ落ちる滝のような地下水を間近に見ることができる(1枚目写真)。

また、大小の氷柱石、石筍、石柱、カーテン、ベルホール等の生成物が見事で、それぞれには俗称が付けられている。中でも最も美しいのは、「宝殿」という箇所(下の写真)。

 

(2)  黒瀬川鍾乳洞(上記と同町)

洞長:300m

 

「四国西予ジオパーク」の指定ポイント(名所)から漏れた不遇のマイナー鍾乳洞だが、向かい岸の国道197号沿いに解説板だけは建っている。

 

川岸の断崖に開口する横穴鍾乳洞だが、装備なしで立って歩ける区間は数十メートル以下。それでも氷柱石の「卵」とも言える、石化した水滴が無数にある天井(下の写真)やフローストーン等、見所はある。

ケイビング装備をして四つん這いや腹這いで奥に進むと、真っ白な石灰華で覆われた壁があるという。

 

コウモリがこちらに向かって飛んでくるが、愛媛では珍しいユビナガコウモリの大群が棲息しているほか、約40種の昆虫やコウモリ類が確認されている。

 

場所はネットでも公開されているが、実際はそこよりやや下方。

国道197号、城川町下相のバス停「奈良の木」のやや西方のY字路を南西に折れ、黒瀬川を渡った対岸道路の最高所の三差路(最初に現れる三差路)が入口。そこに駐車する。

 

薄い踏み跡は一旦、北東に下った後、すぐ南西に向きを変え、黒瀬川支流の谷の手前でまた北東に向きを直す。断崖沿いのフェンスの先に鍾乳洞が開口している。

 

ルートが分からなければ、兎に角適当に南に斜面を歩いて行き、谷沿いに来れば、そこを下る。必ずフェンスに向けて下る踏み跡が現れる。「奈良の木」バス停からも徒歩で行ける距離。

因みに地元の教委に問い合わせた際、「道はない」と言われた。

 

(3)  大川鍾乳洞(大洲市)

洞長: 20m(奥行)

 

以前触れたように、洞の形状は室戸岬にある海軍レーダー基地の地下陣地に似ており、中心部にある、石柱や石筍が見られる広間からコースの向きが変わり、室戸陣地よりもきつい傾斜で上がっており、入口の斜め上方へと出る。その上りは装備なしでも簡単に登ることができる。

 

横穴の往復ではなく、こういう立体的構造の洞は探訪しても楽しい。

 

(4)  安森洞(鬼北町小松)

洞長:70m

 

安森洞のそうめん流しは全国ニュースで過去何度も取り上げられた位に有名。その水を取水している安森洞は、元々あった奥行が短かった「樽渕の水穴」を地元有志が8年かけ、手作業で掘り進んだもの。

 

各種鍾乳石が現れるのを期待して掘削したものの、殆ど現れなかった。そして掘削を終了して慰労会を開いた際食べた冷やしそうめんをヒントに、この洞窟の水で流しそうめんをすることを思いついたという。

 

鍾乳石は殆どないとは言え、山間を流れる川のように蛇行する洞穴と、ウォーターシューターのような流れを遡行して行くのは、冒険心をくすぐられる。

 

安森洞手前にも水流のある洞穴が開口しているが、こちらはすぐ奥で水深が深くなる(下の写真)ため、遡行は困難。その洞穴横の岩盤からは、ポンプアップされた滝が流れ落ちている(上の写真)。

流しそうめん期間以外は、安森洞入口の扉の針金を外し、照明の電源を入れる。期間内も期間外も入洞は無料。

 

穴神鍾乳洞、大川鍾乳洞、安森洞の探訪ガイド→南予の三ヶ所の洞窟を一日で探訪

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神戸と今治の復元前方後円墳

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[五色塚古墳と妙見山古墳]

我が国の巨大古墳に於いて、初めて復元工事が開始されたのは昭和40年。神戸市が当時の総工費25千万円(現在の貨幣価値ではその倍以上)をもって10年の歳月をかけ、全長194mの兵庫県最大の前方後円墳を復元した。築造当時のように墳丘を覆う葺石は陽の光を浴びて、古墳全体が光り輝いていた。

 

一方、愛媛県今治市(合併後の)は、500基以上の古墳を擁する古墳王国。その中で標高80mの山上にある全長55.2mの前方後円墳が平成7年から8年にかけて、復元・保存工事がなされ、石槨もガラス越しに見学できるようになった。

 

どちらの古墳も海に近いことから、墳丘からは空と海のブルーのパノラマが広がる。とくに今治市の古墳からは、標高が高いだけに絶景が広がる。

 

(1)  妙見山古墳(今治市大西町宮脇乙)

斎灘を見下ろす妙見山山上に、古墳時代初期(3世紀後半)、最古級の三基の前方後円墳からなる妙見山古墳がある。一番規模が大きいのが1号墳。2号墳は全長35m3号墳は23m

 

唯一調査がなされている1号墳は二段に築成されており、葺石は段築部と裾部のみに葺かれており、総延長23mのV字排水溝が造成されている。

 

1号墳の竪穴式石室は後円部と前方部に一基ずつあり、大きい方の後円部の墓壙は長辺10.8m、短辺5.6m、深さ2mで、石槨は全長6.7m、幅1m。石棺内法は全長1.86m、幅35cm

 

墳頂周囲に配置したレプリカの土器は、この古墳でしか出土していない伊予型特殊器台と二重口縁壺や小型土器を復元したもの。これらを使用して、墳頂で被葬者に対する共飲共食儀礼や先祖供養が行われていたと考えられている。

 

古墳は藤山健康文化公園内にあり、13号墳を回遊できるようになっている他、遊歩道沿いには、1号墳の二基の石槨天井石が展示されており、コース基点には副葬品等を展示した大西藤山歴史資料館がある。入館料300(2012年時)で月曜休館(祝祭日を除く)。問合せTEL0898-53-2313。JR予讃線大西駅より徒歩約15分。無料駐車場完備。

 

(2)  五色塚古墳(兵庫県神戸市垂水区五色山)

明石海峡を見下ろす垂水丘陵の南端に、三段に築造された、4世紀後半の古墳。千壺古墳とも呼ばれるが、淡路島の五色浜から石を運んだため、五色塚と呼ばれるようになったとも言われる。

 

このことからこの古墳は、日本書紀の神功摂政元年2月の条にある「播磨に詣りて山稜を赤石に興つ。よりて船を編みて淡路島にわたして、其の嶋の石を運びて造る。」のことではないかと言われている。但し、これは仲哀天皇の偽装陵墓のこと。

 

その葺石の数、実に223万個。三段の段上と墳丘に設置された埴輪や土器は約2,200個にも及ぶ。これでも古墳の規模では全国27位。

 

周濠も残っているが、古墳のくびれ部付近の濠内には一辺20m、高さ1.5mの方形盛土があり、後円部東側濠部には、南北8m、東西15.5mの盛土があって、2基の円筒棺を擁す。

 

埋葬施設の発掘は行われていないが、藩政期の古文書等から、盗掘され、石棺も掘り出されていたものと思われている。

尚、藩政期の絵図を見ると、後円部の墳丘に展望舎のようなものが建てられおり、昔から名所だったことが分かる。

 

五色塚古墳のすぐ側には同時代に築造された直径70m、墳高8.5mの円墳、小壺古墳があるが、宅地開発される前は、他に数基の古墳があったという。

古墳へは山陽電鉄霞ヶ丘駅から東へ徒歩数分。問合せは五色塚古墳事務所078-707-3131(月曜定休)

 

次回以降の史跡カテゴリーでは、関西の二ヶ所の「密集」群集古墳を紹介予定。

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海食洞と洞門を海山回遊時に発見

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[展望尽くしハイキングと洞窟]

愛媛県今治市と西条市の境界の高台に建つ「休暇村瀬戸内東予」。部屋からは大崎海水浴場から燧灘の展望が広がる。

 

この施設は109.8m無名峰(地形図=壬生川[にゅうがわ])と、そこから派生する各尾根に取り囲まれているが、それらの尾根には遊歩道が付けられ、随所に燧灘やしまなみ海道、西条市街地、石鎚山系の展望が広がる東屋が設置されており、思う存分景色を楽しむことができる。

 

これらのコースは大崎海水浴場から回遊できるようになっており、コースの起点(休暇村研修センター兼キャンプ受付事務所)、半ば(瀬戸内東予前)、終点(キャンプ場)にそれぞれ水洗トイレもあるため、女性ハイカーも安心して歩くことができる。

 

回遊する場合、龍神社が建つ南の方の尾根から上がり、山頂を経て北側の尾根を下りるコースが疲れずに済む。冬場は殆ど汗もかかない位楽。

龍神社西上に建つ、大岩大明神を抱くように聳える巨岩「天狗岩」(2枚目写真)は見もの。岩上からの展望も素晴らしい(上の写真)。

 

二つの東屋を過ぎると瀬戸内東予横の道路に出て、一旦左に折れてトイレを済ませた後、トイレ横から再び遊歩道を登る。

遊歩道から見る109.8m峰は富士山型をしており(上の写真)、登頂欲をそそられるが呆気なく山頂に着く。そこからもパノラマが広がっている(下の写真[=以前解説した医王山]とその次の写真)。

 

山頂からは来た道とは逆の踏み跡を辿ると、直下の展望東屋に下り立つ。

一旦また道路に出ると、すぐ東の道標から再び遊歩道を上がる。小ピークからは下り一方で、また展望東屋を過ぎ、道標のない三差路は尾根道を直進する。

 

遊歩道はキャンプ場の炊事場前に下り立つが、そこでまたトイレを済ませ、炊事場横から海水浴場の砂浜に出ると、目の前にかもめ岩が見えている。特にかもめの形状をしている訳ではないが、昔は沢山のかもめが翼を休めていたのだろう。

 

砂浜をよく見ると、波打ち際に近い箇所が整地されたように平坦になっており、歩き易くなっている。

この「浜の道」は市界の大崎ヶ鼻まで続いていたので、大崎ヶ鼻を探訪してみると、岩場に明治期頃に設置されたと思われる郡境碑が建っており、岬の先端はミニ海食洞門になっていた。以前紹介した宿毛市のものより小さい。

 

岬手前の岩盤は陸側に湾曲していたが、これは明らかな海蝕作用。少し気になったのでその奥に進んでみると、そこは何十メートルもの高さの断崖で、細長い二つの海食洞が開口していた。この入口の形状は鉱山か石切場の坑道を彷彿させる。

左側の洞は狭いため、小動物位しか入れないが、右側の洞は入洞できる。

 

思ったより洞は長いが、奥に進むに連れ、幅が狭くなり、ほどなく進めなくなった。が、細身の女性や児童なら、かなり奥まで進めそうである。

この海食洞に名称が付けられてないとすれば、「大崎洞」と付けるのが妥当だろう。

浜辺の洞窟故、小動物はいなかったが、山中だとしたら、確実にコウモリが棲みつく位の長さはある。

 

そこからは龍神社の道標の建つ分岐を経て、駐車場に帰り着いた。

ここへの車でのアプローチだが、西条市側の国道196号は休日でもそこそこ混むので、四国の東部や南部からマイカーで向かう際は、今治小松自動車道・今治湯ノ浦ICを降りて、南東に国道を引き返し、市界の「休暇村入口」バス停から北東に折れた方が良い。

 

そこはサギソウその他の貴重植物で有名な蛇越池(医王池)東畔になるが、池に寄る際、駐車スペースは西方の「蛇越池」バス停北側にある。

瀬戸内東予を過ぎて、更に下り、道路終点にある駐車場に駐車する。

ただこの道路、20時から翌日の6時まではゲートが閉まり、通行できない。

遊歩道は随所にコース案内板や道標が建っているので、迷うことはない。

 

これからもマイナー海蝕洞や洞穴、海の展望が優れたハイキングコースを紹介してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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元SMAPの内、なぜキムタク作品を見る気になれないのか

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[作品が主か、タレントが主か]

もう「古い話」になるとは思うが、私はスマップのメンバーの内、木村拓哉出演の番組や映画だけは見たことがない。

 

他のメンバー出演作の中で、一番好きなものは以前も触れた草彅剛主演映画「黄泉がえり」。霊関係の作品もそうだが、成就できない恋ほど切ないものはない。

 

邦画の中では一番好きな映画なだけに、他の出演者の活躍もテレビ等で見ていて嬉しいもの。ただ、山本圭壱は被害者を騙る非行少女によって無実の罪を着せられたことは気の毒。

 

香取慎吾主演の大河ドラマ「新選組!」は、毎週欠かさず留守録をして見ていた。「龍馬伝」よりはるかに面白かった。

 

稲垣吾郎司会の「ほんとにあった怖い話」も毎年欠かさず見ているし、出演作「十三人の刺客」も違った魅力があり、DVDを何回も見た。ただ、少し残念なのは以前、婦人警官を轢き逃げした前歴がある点。ジャニーズ事務所の圧力にNHKさえも屈服し、「容疑者」扱いしなかったことも問題だった。

 

中居正広司会の番組やドラマは欠かさず見ることはないが、テレビをつけて「ナカイの窓」をやっていれば必ず最後まで見るし、「世界仰天ニュース」も内容によっては見る。ちょっとお笑い芸人を小馬鹿にすることもあるが、人柄としては好感が持てる。

 

しかし木村拓哉出演のものは一切見たことがない。これは「作品が主か、タレントが主か」ということが問題ではないかと思う。他のメンバー主演の映画や番組は、「作品が主」。つまり、作品や番組自体に魅力がある。当然、メンバーが主演や司会をすることによって、更にその魅力が引き立つことになる。

 

 

 

それに比べて木村拓哉主演作品は、ジャニーズ事務所が口出しをして、キムタク個人が引き立つような作品作りをする。こんな作品に魅力がある訳がない。長く続くこの「手法」が、後の「SMAPの裏切り者」を生み出す一因になったのではないだろうか。

 

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歩道を辿り高速SAを回遊(西条市)

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[燧灘の展望]

各地の高速道路のサービスエリアの中には、道の駅その他の観光施設が隣接していることにより、一般道からも入れる所がある。その多くは一般車道からの立入りとなるが、歩道が通じている場合、歩道起点の駐車場に駐車し、徒歩でSAに行ってみたくなる。海の展望が開けた場所なら尚更。

 

それが石鎚山遥拝所の一つ、星ヶ森(四国霊場60番札所横峰寺背後の山)の北方に位置する西条市の石鎚山SAと道の駅小松オアシス(石鎚山ハイウェイオアシス)

 

最も南の標高が高い所(標高110mほど)にあるのが小松オアシスで、その下方にSA(標高70mほど)、更に下方の北麓には西条市小松中央公園がある。よってその中央公園の第2駐車場に駐車し、徒歩で登って行った。

 

まず南の交通公園を通り、多目的広場と太陽の園との間の直線道を南下し、菖蒲園東の小径を引き続き南下して山際の貯水槽に突き当たると東に折れ、標高60m地点にある展望台に登る。標高が低いからさほどでもないが、それでも燧灘の展望が広がる。

 

そこから南に上がり、下りのPA沿いの一般道に登ったものの、そのPAには入らず、東に折れ、上りPAに向かった。それは住宅地図に短い戦前の線路マークのようなものが描かれていたため。

 

そこの入口はSAの従業員用駐車場で、そこから階段を上がった所がそのマーク地だが、ただのコンクリート路面があるだけ。どうやら旧線路マークと勘違いしたのは擁壁マークだったようである。

 

そこにはフェンス扉があるため、従業員専用入口だと誤解する者が多いと思うが、側にいた従業員が「どうぞ」と行って扉を開けてくれた。

 

もう13時半近くになるが、まだ空腹ではなかったため、SAでは食事をしなかった。展望もいいが、まだ上の道の駅の方が展望は優れているはず。

SAの南東に建つ塔が気になるが、これは藩政期の駕籠とだんじりをイメージして建設された高架水槽。

 

SAからは一旦一般道に下り、南東から南、西へと進み、第3駐車場西からまた遊歩道の階段を上がる。

これを上り詰めた所が道の駅内のイベント広場と子供広場との間。駅内の一番高い所は、子供広場の鎖場のある人工岩。その上は展望台風になっており、駅内やSA、燧灘までパノラマが広がる。

 

ここが道の駅に指定される前の名称が「石鎚山ハイウェイオアシス」で、現在、半円形の駅の建物が「石鎚山ハイウェイオアシス館」(上の写真)と呼称されている。

 

石鎚山ハイウェイオアシス時代の’00年時の施設の広告を見ると、石鎚山の樹林探索シアター、バーチャル・スキー体験、樹氷研究室、バーチャル・パラグライダー飛行体験、石鎚山模擬鎖場体験、夜の生き物発見模擬体験等、色々面白そうなものがあるが、先日行ってみるとその全てが無くなっていた。

 

あったのは観光案内コーナーと土産物売り場、写真展示コーナー、大衆食堂レベルの食堂のみ。正直、「来て損した」と思った。このすぐ上にある温泉も休業中。このオアシス館以上のものは皆、SAの方に揃っている。故にここに来る意味がない。尤も家族連れには遊具や芝生のイベント広場があるから、来る価値はあるだろう。それ以外の価値は「展望」位か。

 

復路は第3駐車場向かいまで戻った後、南に折れ、小松川沿いの道を下り、高速高架下で左折し、第4駐車場北からスケートボード広場(使用中止)沿いを北上。丸木階段を上がって一旦オートキャンプ場南の往路の道路に出た後、キャンプ場のフリーサイト内に入り、北端の展望舎で展望を愛でた後、南側から西へ階段を下りる。

 

尾根の分岐では尾根を北へ下り、道路に下り立つと西上の高台に建つ展望台へ登ってみたが、樹林により、展望はなかった。

そこからは「憩いの広場」東端を北上、チビッコ広場前からはテニスコート南沿いを西進し、往路の太陽の園のトリムコース下の道に出た。

 

中央公園内の南側には、縦横無尽に小径や階段が走っているので、ウォーキングやトレイルランニングの練習にいいだろう。

 

この後、隣市の野良猫スポットに寄る予定だったが、時間がなくなったので、四国霊場61番札所香園寺北東の舟山にある舟山古墳群に寄った。

 

6~7世紀前半に築造された全長10~15mの17基(内何基かは消滅)の円墳から成る古墳群だが、開口しているものはなく、「ただの凸凹」がある感じだった。

PS:最近、お龍シリーズ等、作成に時間のかかる歴史関係の記事が投稿できていないが、それは睡眠時無呼吸症候群の影響。

 

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お龍、土佐和食(わじき)へ(20) [夜須町編へ突入]

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いろは丸事故等、三度も海難事故に遭った者

香南市香我美町岸本から続く土佐東街道沿いの住宅街は、夜須町坪井に入っても変わらない。

南側に駐車場のあるY字路から街道は北東に一旦向きを変えた後、再び東進して夜須町の中心街へと入るが、駐車するため、道の駅やすの駐車場に入ろうとした。しかし満車で駐車できなかったため、夜須川の最下流の橋・臨海橋を渡った先の路肩に駐車した。そして土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線夜須駅西から北に折れ、県道51号を北上する。

 

余談だが土佐くろしお鉄道の夜須駅は当初、現在地から数百メートルほど東に設置される予定だった。土佐電鉄安芸線の夜須駅跡の西側辺りである。しかし町側から、新設される(平成14)海浜公園「ヤ・シィパーク」(手結海水浴場の後身)の玄関口にしたいという強い要望があったため、現在地に駅ができた。当初の駅予定地はヤ・シィパークの有料駐車場になっている。

 

県道51号の前身は町一番の幹線道「郡道夜須線」(明治42年に第一期工事完了)で、日吉神社北側の土佐東街道との交差点角に「夜須村道路元標」が建っている。夜須町の前身である「夜須村」の名称は藩政期から昭和18年まで使用されていた。

 

尚、県道や周辺宅地の状況から見ると、本来、県道の拡幅工事はこの交差点まで行われる予定だったはず。日吉神社とその北の駐車場の一角だけが、開発からぽつんと取り残されている感じ(4枚目写真)だが、これは恐らくこの神社の祭神が神社の移転を拒んだ、つまり、「障り」があったためだろう。土佐市や安田町か安芸市か忘れたが、似たような小社がある。

 

元標から西に折れて土佐東街道を辿るが、これは北西の観音山にある、坂本龍馬らが遭遇したいろは丸事故時、その場にいた岩崎弥太郎の部下の墓に参るため。

 

西へ進むに連れ、街道らしい旧家が現れる。

天理教夜須分教会西の互い違いの三差路まで来ると、ここで街道と分かれて北に折れ、突き当りにある観音山登山口を目指す。

 

登山口には道しるべがあり、石段が続いている。

山は墓地山で山頂には観音堂と常光神社が建立されているが、目当ての墓は安政の大地震の津波記念碑(6枚目写真)下方墓所にある。その人の名は土居市太郎(1833~1873)。いろは丸事故以前にも龍馬と間接的な関わりがあった。慶応253日に起こったワイルウェフ号沈没事故である。

 

ワイルウェフ号の名は龍馬ファンなら全員知っている位、有名。薩摩藩がグラバーから6,300ドルで購入した小型帆船で、亀山社中に貸与されていた。

 

ワイルウェフ号は慶応24月、長崎で引き渡され、28日、薩摩で命名式を行うため、長崎を出航する。その際、長州藩より薩摩藩に届けられる兵糧米を積んだ薩摩藩船・桜島丸に曳航されていた。

 

この時、ワイルウェフ号には池蔵太や黒木小太郎、佐柳高次らの亀山社中社員の他に、市太郎も水夫として乗船していた。

 

そんな薩長や社中の「夢と希望」を乗せたワイルウェフ号と桜島丸は翌日、台風に遭ってしまう。桜島丸は二艘共難破することを防ぐため、やむを得ず、曳綱を切断、ワイルウェフ号は海面を木の葉のように舞い、漂流を始める。

 

暴風雨は連日続き、遂に52日未明、ワイルウェフ号は五島列島中通島潮屋崎沖の暗礁に乗り上げ、沈没してしまう。乗組員と客12人の内、前述の亀山社中社員は皆、死亡。生存者は市太郎他4名のみだった。

 

翌年419日、坂本龍馬率いる亀山社中後身の海援隊は、大洲藩から貸与されたいろは丸で初航海に出る。土佐藩の後援を得た海援隊は、岩崎弥太郎が運営を任されていた開成館長崎出張所(通称:土佐商会)が扱う貿易品を輸送する役目も負っていた。そしてこのいろは丸に弥太郎の部下である藩俗事方船頭、市太郎が乗船していたのである。

 

意気揚々と船出した龍馬たちだったが、2323時頃、備讃瀬戸沖で紀州藩船明光丸と衝突、沈没してしまう。この時、海援隊や市太郎他乗組員は明光丸に乗り移り、無事だった。

 

市太郎はその後も弥太郎の腹心として、九十九商会(前身は開成館大阪出張所)、三川商会と、弥太郎に付き従うが、社名が三菱商会に改称された明治6年、「最後の海難」に遭ってしまう。79日、三度目の海難に遭い、命を落としてしまったのである。

享年41歳、日本経済を牽引してきた財閥の功労者は、ふるさとの海を望む丘で静かに眠っている。

 

「お龍街道」の終点、芸西村の手前の「夜須町編」には次回以降も期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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人生最後の購入のCD(家入レオとジョジョ)

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私は2014年を最後に、CDを買わなくなり、音楽も殆ど聴かなくなった。映画(劇場アニメを含む)も全く見なくなった。これは多分年のせいだろう。

 

そんな最後に購入したCDは、一般の楽曲では家入レオの「チョコレート」、アニソンはTV版ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダースの前期テーマソング「STAND PROUD(:橋本仁)

 

「チョコレート」は当時、未来書房の店内で繰り返し流れていて、可憐な曲だなと思い、DVD付の初回限定版を購入した。断っておくが、未来書房へは「そういう」DVDや本を買うためではなく、手頃な価格のポータブルDVDプレイヤーや、セイコー社が卸していると思われる古い住宅地図を探しに行っただけ。

 

「チョコレート」はCDを聴くよりも付属ビデオクリップDVDを見る方が多い。女子高生が好きなクラスメートの男子に、何とかバレンタインチョコを渡そうとする実写映像と、人形を使ったコマ撮り映像とで構成されており、片想い女子の切なさが表現された可愛いつくり。家入自身も人形になって歌っているシーンがある。

 

 

 

STAND PROUD」はジョジョの奇妙な冒険シリーズのテーマ曲の中では最もアニソンらしい曲で、前奏や曲の抑揚まで、オープニングのアニメの動きとも連動しており、一度聴けば耳に残るメロディ。

 

ジョジョシリーズは我が県のような田舎では放映されていないので、最初はDVDを購入していたが、映画等も見なくなったことから、途中でDVD購入もやめた。ただ、最近はネットのアベマTVの「週末一挙放送」でまとめて視聴している。

 

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橋本仁 / STAND PROUD 【CD Maxi】
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ところで、いい年したおっさんが「チョコレート」を聴くなんてキモい、と思われる方がいるかも知れないが、以前も述べたように、私は大学1年の長髪時、女性に間違われかけたことがあり、また、20代のアマチュア詩人時代は、複数の同人誌に少女心を詠った詩やエッセイも寄稿していた。

「キモい」か「乙女チック」かは、次回投稿する詩で判断戴きたい。

 

気分が悪くならない詩を投稿してほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

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乙女ポエム(1)つづら坂

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     つづら坂Ⅰ~初恋は詩集の中に~

  

    あなたを想い 独り淋しく綴ります

  長い日々を偲び あつくせつなく綴ります

 

     夏休みに訪れた母の実家

    長い坂が続く海辺の町です

    遠回りして 葛折れの「つづら坂」

    汗をかきながら上って行きました

 坂の向こうから あなたが現れるのを心待ちに

 

  すれ違いざま あなたは優しく微笑んで

   夏のそよ風が吹き抜けていきました

  振り返って あなたの影が小さくなるのを

       佇んで見ていました 

  ずっと ずっと 見つめていました

        もう 秋です

 

   冬が来るまで あなたの顔を

   まぶたに焼き付けておきます

  冬休みになるまで あなたの姿を

     詩集に綴っておきます

   それまで 思い出を忘れないで 

      私のつづら坂

 

 

つづら坂Ⅱ~卒業(わかれ)のときまでに~

 

毎日あなたが上ってきたつづら坂

またあの夏休みの時のように 

傍らの木の陰で待っています

 

すれ違いざまのあなたの笑顔に

おじぎするのがやっとだった私

春にはこの田舎での 初恋の思い出を胸に

東京へと旅立ちます

 

坂の上には冬の冷たい風が吹いています

あなたに想い届けと 風に囁きました

すると 彼方にあなたの姿

 

もう一度微笑んで下さい 

気づいてください

そしてこたえてください

いつまでも佇む私に あの笑顔で

 

 

夕方投稿したブログ記事で約束した通り、「見た目は男、心は乙女」(具体的には見た目は円広志だった)だった20代時に作ったエッセイを公開した。いずれも平成初期、市販されていた月刊詩誌「MY詩集」の特集コーナーに寄稿したもの。副題の「~〇〇~」が特集テーマ。いずれも編集部からの高評価で、最初の方のページに掲載されたと思う。

 

因みにこれらのエッセイは、自著の中で唯一の私家版エッセイ集「ハートの扉」(税別780)に収録している。

尚、写真の撮影場所は、香南市夜須町の手結山の旧国道から「考える村」方面への道路を上がって行った所。関西在住時代の帰省時に撮った。

 

この旧国道と考える村方面への道との分岐には、以前解説した、「お茶屋餅」(坂本龍馬やお龍も食べたであろう餅)で有名な澤餅茶屋が明治中期から昭和半ばまであった跡地(井戸が残る)がある。

 

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探訪・調査の旅先での雪景色一覧

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今日(2/10)は日中、我が町でも若干降雪があったが、山間部では積雪になっていることだろう。明日は平野部でも積雪になるかも知れない。

 

と、いうことで、これまで探訪先やガイド書製作のための調査先等で遭遇した雪景色の一覧を列挙したい。尚、登山に於ける雪山は除外した。

 

(1)  奈良公園飛火野(奈良市)’90131

'90年前期はよく奈良市に行っていた。それは当時の自宅の最寄り駅から近鉄電車を一回乗り換えて、40数分位で奈良市駅に行けたことが影響しているだろう。

 

地元の市に降雪があったか否かは覚えていないが、奈良公園に行ってみると一面銀世界になっており、まるでどこかの高原かスキー場のような光景になっていた。

当時は鷺池に浮かぶ浮見堂がまだ建て替え前の大正5年建築のもので、雪景色が絵になっていた。

 

‘91年の年末年始の帰省時も、大晦日の夕方から降雪があった。その日は大豊町から土佐町へと移動していた。

 

(2)  三頭越(徳島県美馬市と香川県まんのう町との境界)’98年大晦日

‘98~’99年にかけての年末年始は徳島県と香川県との県境尾根「阿讃山脈」の一部を縦走し、途中で麓に下りて宿泊し、翌日また登る、というスタイルを取っていた。これは一泊目の民宿が車で送迎してくれたからこそできたプラン。

 

三頭越は四国龍馬街道の著書でも簡単に触れたと思うが、金毘羅街道阿波道の一つの峠で、龍馬が文久22月半ば過ぎに越えたであろう峠の近くにある。

 

峠の鳥居の側には鼻を折られた猿田彦命と、乳房を露にした天細女命(あめのうずめのみこと)の石像が建っている。後者は「乳地蔵」とも呼ばれている。

尚、三頭越へは、南東の農道から登れば20分ほどで到達できる。

 

(3)  千枚田と坂本龍馬脱藩の道(高知県梼原町)’0816

‘07年から’08年にかけての年末年始は、全国的に大雪となり、車で出かけることは不可だったため、三が日が明けた後に出かけた。

 

津野町から梼原町にかけての脱藩の道を調査し、知られざる真実のルートの古道や伝承地をいくつも見出し、著書に収録した。

 

宿泊先はその無名伝承地の一つ、龍馬が食事を取った伝承がある旅籠の後身の移築された民宿。

写真は、藩政期は千枚あった「千枚田」で、昭和後期以降、半減しているが、司馬遼太郎は「万里の長城よりも素晴らしい」と絶賛した。脱藩の道はその最下部沿いを通っている。

 

(4)  土佐北街道(愛媛県四国中央市)’09110

‘09年元旦も徳島県三好市山城町では積雪があり、国道32号では二輪駆動車が列をなして立ち往生し、大渋滞を引き起こしていた。しかし徳島県から高知県大豊町に入ると、雪はなくなった。

 

大豊町の山間部から四国中央市にかけての土佐北街道調査時も積雪があり、駐車して車から出ようとしたところ、路面の雪の表層が滑り、車がひとりでにバックするハプニングもあった。

 

‘09年大晦日は山口県宇部市で龍馬の脱藩の道長州路を調査していたが、またも降雪があった。ただ、山間部ではなかったため、積もるほどではなかった。

 

(5)  伊田浦(高知県黒潮町)‘11年元旦

‘10年大晦日の夜から高知県では全県的に降雪があり、翌’11年元日朝には全ての市町村で積雪となり、外出ができない状態になった。車やバイクが一台も走らないので、静まり返っていたが、唯一、JR列車だけは走行していた。

 

そのため、昼まで旅館にいたが、コンビニやスーパーにも行けないため、旅館側がそばをサービスで提供してくれた。

 

 

天気予報で全県的に降雪がある予報をしていれば出かけないが、今年は果たして雪景色に出会うことはできるのだろうか。

 

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