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線路へ立ち入りたければ廃線直後に

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最近、松本伊代と早見優が、JR山陰本線の線路への立ち入り (京都市右京区の野宮神社側の踏切から)により、書類送検されたことが物議を醸しているが、この場所が田舎であった場合や、一般人だった際は、書類送検されることはなかっただろう。

 

右京警察署は「見せしめ」という大人げないことをやった訳だが、署に匿名で通報した者も同様。これが駅のホームから線路に降りたり、踏切が近くにない場所の線路に進入した際は問題だが、警報器のある踏切側の線路に入った位なら、危険はまずない。尤も、芸能人のブログを見た子供が真似をする可能性もあり、そこは問題だが。

 

線路を見ると歩いてみたくなる、ということは多くの方が一度は思ったことがあると思うが、四半世紀ほど前の地方の郡部なら、地域住民が線路沿いを歩く光景は普通に見られた。

 

以前も述べたように、かつてはいの町のJR土讃線の仁淀川橋梁袂にはフェンスがなく、地域住民が散歩がてら、鉄橋を歩いていた。

私も’89年、その光景を見て歩いてみたのだが、列車が通ると枕木の振動が保線路路面の鉄板にダイレクトに伝わって激しく揺れ、何かに掴まっていないと川へ振り落とされそうだった。

 

線路を歩きたい、という欲求を叶えようと思えば、廃線直後の鉄道に行けばいいだろう。私は’0832日、廃線になってから二、三日後のJR土讃線旧線を歩いた。高知市の比島から新屋敷及び福井東町までの4.1kmが高架になったため、旧線が廃線になったのである。この区間は高知市の中心街故、線路は短期間で撤去され、側道になるのではないかと思ったから急いだのである。

 

高架化された理由は、踏切によって交通渋滞が起こっていたため。高架化によって高知駅、入明駅、円行寺口駅が高架駅となり、11ヶ所の踏切が撤去された。

 

因みに旧入明駅と旧円行寺口駅は、地元から国鉄への陳情によって開設された駅で、前者は昭和361215日、後者は39101日に開業している。が、二駅はその後、明暗が分かれた。

 

昭和50年代前期のデータでは、入明駅の一日平均の乗車人数が120130人なのに対し、円行寺口駅は僅か30人弱しかない。この差は、地域人口の数の違いによるものだろう。円行寺口駅は西方から南方にかけて山が迫っているため、どうしても人口が少なくなる。

 

地元や近隣県の鉄道が廃線になることは頻繁にはないと思うので、レールや枕木の残っている廃線跡を歩いてみては如何だろうか。四国では拙著にも収録している愛媛鉄道内子線や高知県の魚梁瀬森林鉄道の山中を走る支線等が挙げられる。

 

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坂本龍馬と間接的関係のある議員先祖

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[中谷元前防衛大臣先祖墓所]

先日、高知市の介良富士(小富士山・170m)から鉢伏山(213.4m)を回遊時、復路沿いに中谷元前防衛大臣先祖墓所を見つけた。これは私が、中谷議員が介良(けら)出身であることを知っていたため、中谷姓の墓所を見て「もしや」と思って写真を撮り、帰宅後、郷土文献で確認した次第。

 

中谷元議員と坂本龍馬との間接的関係については過去複数回、ブログで解説したが、中谷議員の奥方の実家(香南市香我美町山北)が、龍馬の義兄・岡上樹庵の兄、藤田篤治邸跡で、龍馬の姪、岡上菊栄が作業していた納屋跡や、庭に「龍馬の駒繋ぎ跡」(下の写真)があるほか、龍馬がもたれかかっていた床柱の残る家屋が他所に移築されていることも述べた。

 

中谷家墓所には、元議員から四代前の渉吉(1819-1907) からの墓がある。渉吉は郷士で、戊辰戦争の東征に参加しているが、同じ村で交友のあった、国木田独歩の小説『富岡先生』のモデルとなった富永有隣潜伏先の郷士(今後記事を投稿予定)も一緒に参加している。

 

渉吉の長男・速水(安政2年生まれ)は明治以降、司法官として40年勤務している。明治31年に山口地方裁判所長に就任して以降、樺太地方裁判所長、大審院判事等を歴任。退官後は山内家家政顧問となっている。

 

速水は子供がいなかったため、姉・中ノ内ムラの四男・貞頼(明治20年生まれ)を養子にして家を継がせた。貞頼は大正2年、東京帝国大学法学部独法科を卒業後、警察官となり、後に警視庁外事課長に昇進した。

 

更に弁護士試験に合格すると弁護士になった傍ら、明治漁業、長門炭鉱の取締役、日活社長等も歴任した。

大正13年には衆議院選挙に憲政会から出馬して当選。その後の選挙では政友会より出馬して連続四期当選した。

 

戦時中は反戦派として近衛内閣と対峙していたが、昭和21年時の選挙では落選し、以降、政界に復帰することはなかった。

妻・春枝(明治40年生まれ)は貞頼が落選した年、香美郡美良布町で丸中木材の社長として辣腕を奮っていた。以後、本社を東京に移し、「土佐の材木王」となった。

 

貞頼・春枝の長男、健(昭和5年の東京生まれ)が元議員の父。高知の城東中学校(追手前高校の前身)に転校してきてからの三年時、大阪で商業の修行をしようと家出するものの、すぐ見つかり、連れ戻される。

 

その後転校したが一年で中退、今度は許されて上京し、材木問屋で修行をした。しかし材木業では財を成すことは困難と考え、貞頼とその友人が創設した大旺建設前身の柳生建設に入社する。ここでは商才を発揮し、昭和39年、社長に就任。6年後には工事業績で四国一となった。

 

その後も全国森林土木協会、高知県建設業協会、高知さんさんテレビ等の会長職を歴任した。高知市の人気グルメスポット「ひろめ市場」も発案・創設している。

三男・元氏が誕生するのは昭和32年のことである。因みに元氏が政治家を志したのは、父に幼少期から勧められていたため。趣味の囲碁も父親の影響。

 

余談だが、3年前、藤田篤治や周辺の龍馬の伝承地についての取材を元議員の高知事務所に申し込んだ後、元議員の義弟である県会議員の方から連絡があったが、こちらが姓しか名乗っていなかったにも拘わらず、私のフルネームを把握されていた。

 

過去、「中谷元」での語句検索で当方ブログ訪問が何件かあったため、もしかして当方ブログを閲覧されていたのかも知れない。

 

各所に陸軍壕跡が残る介良富士と鉢伏山の回遊コース記事を投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

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ビーム光線型スタンガンで米国から銃をなくせる

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[日本も昭和期に開発開始]

アメリカで銃による殺人やテロが起こるたびに浮上する銃規制法案。しかし全米ライフル協会等による圧力で、いつも議会で否決される。

 

協会やその支持者は、銃は護身のための必須アイテムと言うが、そもそも銃は人を殺すための武器であり、身を守るものではない。

 

銃に対抗する護身グッズとしては、人を殺すことなく、離れた所から相手にダメージを与えることができ、携帯可能なものである必要がある。

 

その理想の護身グッズ(アメリカからの輸入)の「予告広告」が、’84年か’85年頃、日本の月刊雑誌「GUN」等に掲載された。商品名を忘れたのでネットでは検索できないが、マグライトのような円筒形のスタンガンで、電極棒がスパークして電流を発生させるのは通常のスタンガンとほぼ同じ。しかし、発生した電気は10mほど離れた狙った所に飛ぶ。それはSF映画等で見るレーザー光線銃のようでもある。

 

これならば相手を死傷させることはないし、相手が拳銃を持っている場合でも対抗できる。もしアメリカで今でも製造されているのであれば、射程距離は最低でも1.5倍以上伸び、商品はより小型化されているはずである。

 

これがあれば全米、いや全世界から銃をなくせるし、既存の銃工場の製造ラインの何割かを、このビームスタンガン(仮称)用に変更すれば、雇用も維持できる。

 

ところで「GUN」等に掲載されたその商品は、残念ながら日本で発売されることはなかった。その広告が載った次の号を見るとまたその広告が掲載されていたのだが、それは「お詫び広告」となっていた。

 

つまり、当局から指導があり、法的に輸入できなくなったのである。商品が犯罪に悪用される危険性が高いと判断されたためだろう。

その後、暴力団等が販売目的でこの商品を輸入したという話も聞かなかった。

 

当時、日本でも同様のものは開発されていた。しかし当然ながら法的に商品化されることはなく、技術もアメリカには遠く及ばず、アメリカ製のものより何倍も大きくて重く、携帯できる代物ではなかった。

因みに添付写真は当時、日本で販売されていた通常のスタンガン。

 

アメリカでは毎年、幼児・児童による銃の誤射でも膨大な数の人が死亡している。悲劇を繰り返さないためにも、真剣に銃からビームスタンガンへの移行を考えるべきだろう。

 

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お龍、土佐和食(わじき)へ(21)

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[鉄道廃線跡から街道へと]

観音山上り口まで引き返すと、東側の民家沿いに女性民権活動家、吉松ます生家跡の標柱が建っている。13歳で孤児となったます(「舛」や「益」とも書く)は、家督を継いだ従兄弟の吉松賢治の元で養育されるが、賢治が民権結社「夜須補天会」の幹部だったこともあり、ますも自由民権運動の思想に染まっていく。

 

そして14歳になって以降、高知新聞前身の土陽新聞に女権論に関する投書を続けて注目を浴び、植木枝盛とも交流するようになり、枝盛の推挙で演説もするようになる等、高知県を代表する婦人解放活動家へと成長していく。

一時期は潮江新田の板垣退助邸に寄留し、退助の三女・猿(えん)と一緒に高知英和女学校へ通学していた。

 

全く無関係の余談の手前味噌で恐縮だが、私も’03~’04年時、高知新聞への各種投書はほぼ100%掲載されていた。

 

ますは明治28年、退助の側近で結社「発陽社」の中心人物の一人だった中西幸猪と結婚している。没したのは東京だった。

 

ます宅跡からは交通量の少ない車道や小径を辿って回遊する。生家跡から東進していると前方の山に、国民宿舎・海風荘が小さく見えるが、本館南(下の写真では左横)の円型会議場の箇所には宝永元年(1704)、遠見番所が設置された。琉球や南蛮船を見張るための施設で、怪しい船を見つけると烽火を上げ、城下まで烽火リレーで知らせていた。

 

T字路に突き当たると南に折れる。この生活路は国道と土佐くろしお鉄道の高架を抜け、ヤ・シィパークに突き当たる。そこからはまた東に折れ、鉄道沿いを東進する。

 

夜須駅を過ぎると土佐電鉄安芸線廃線跡の「県道高知・安芸線自転車道」を辿るが、すぐの夜須川橋梁(一番目の写真)手前から、橋梁南に並行する小径が分かれている。夜須川手前に地蔵(下の写真)があることから、ここに土佐東街道の渡しがあったのだろう。

 

廃線跡自転車道をそのまま南東に進んで行くと、前回触れた、土佐くろしお鉄道の当初の夜須駅予定地が現れる。その南端の十字路付近(下の写真)が、土佐電鉄手結駅跡(前回は「夜須駅跡」と誤記したかも知れない)である。

 

十字路から左手に七軒過ぎると、幅員の広い車道を横断するが、ここから先は、自転車道の西に並行する車道が街道跡ではないかと思われる。しかしその道沿いには旧家が見当たらないため、山腹の自転車道を歩く(下方の写真)。

 

因みに7年ほど前、前述の幅員の広い道路と国道との交差点北にある遍路石から続く小径が、街道ではないかと述べたと思うが、それは誤りで、轟神社参拝道兼手結山に明治期、造成された「四国新道」への近道として利用されていたものと推測される。

 

左手の擁壁が途切れると、右手に四国のみちの道標が現れるので、ここで自転車道と分かれ、小径を街道へ向けて下りる。そちらの街道沿いには蔵や旧家、ロケ地等があるのだが、それはまた次回。

 

手結にも街道の道筋が現存していることが意外、と思う方は次のバナーをプリーズ・クリック

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塹壕銀座・介良富士から鉢伏山の回遊

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陸軍第11師団主力部隊の壕群と展望

先日の中谷元前防衛大臣の本家筋墓所についての記事や、以前の「セクシャル神社」シリーズで述べた通り、介良富士(けらふじ)こと小富士山(170m)南西中腹に司令本部があった陸軍第11師団、通称「錦兵団」は、介良富士から尾根続きの鉢伏山にかけて、山中の至る所に壕や陣地を設けていた。セクシャル神社(朝峯神社)記事では、その中の最大の横穴壕を紹介した。

 

が、今回の探訪は戦争遺跡探索が目的ではなく、「高知市旧市域の展望所巡り」の一環。つまり、一番の目的は介良富士の展望広場を訪れること。しかしその広場は近所の団地の人々が散歩で登っている程度の所故、ここだけでは歩き足らないため、拙著でも紹介している鉢伏山(213.4m)を合わせて登り、回遊した次第。そのついでに道から見える壕に寄った。

 

この二山の登山コースについては、ヤマケイの新版の方の「高知県の山」や、高知新聞社刊「高知日帰り山歩」にも記載されているが、そんな他人が紹介したコースを辿ったのでは面白くない。そこで、殆ど車道を歩かず、「完全回遊」となるルートを独自に設定して辿った。

 

介良富士の往路については、それらの本と同じコースだが、登山口の朝峯神社境内に登山コース案内板が設置されているにも拘わらず、登山口には道標がない。社務所と社殿の間の軒下道がコースである。神社の駐車場は祭礼日を除き、利用できるだろう。

 

神社背後は竹林だったと思うが、道の南斜面に複数の短い横穴壕が開口している(三枚目写真)。壕から登山道に戻るのが面倒だったので、適当に斜面や涸れ沢を登り、登山道に合流した。

登山コースは一旦横道になって北に向きを変えた後、すぐまた東向きに進路を直したと思う。その分岐にはコースサインテープがあったはず。その直後にも円形の浅い竪穴壕があった。迫撃砲跡だろうか。

 

尾根が平坦になった高度計高度145m地点には産宝(三宝)神社の祠があったが、自然石で横と上を囲まれており、その形状はまさにドルメン。この囲いの形状はごく普通で、石仏でもよく見受けられるが、「信仰の場」の原始の姿が超古代ドルメンで、それが修験道等の山岳宗教に受け継がれてきた、という見方もできる。

 

そこから伊勢神宮の祠を経て介良富士山頂(五枚目写真)に達するが、山頂自体からの展望はない。確か記憶では昭和半ば過ぎ頃までは三角点があり、その頃の標高は160m台だったように思う。昭和22年発行の地形図での標高は166.9mで、山頂には岩マークが記載されている。実際、この山の最高所は岩の上。

 

展望広場(潮見台緑地内)があるのは山頂のすぐ東下で、展望舎や遊具が設置されており、北東から南東にかけてのパノラマが広がる。

 

そこからは南の道を下る。「高知日帰り山歩」では車道に下り立った後、潮見台の団地内の車道を東に大きく迂回し、貯水槽への道を登るコースになっているが、団地内を30リットルのデイパックを背負い、トレッキングシューズで歩くのは気が引けるため、尾根を削平して造成された「潮見台みどりの広場」(七枚目写真)の南端から急勾配の尾根を登ることにした。

 

最初は踏み跡があるが、なくなって以降は勾配が更にきつくなる。ある程度登ると、コンクリート擁壁から続く、垂直の岩盤が現れた。その下部には立岩もある(八枚目写真)。ここは東側を巻く。

 

這い上がるように登る急登を凌ぐと前述の貯水槽に出る。ここからは登山道が整備されており、丸木階段からは好展望が広がっている。

登山道は不自然に210mピークを避けて東下を迂回しているが、それが気になってピーク周辺を探ると、一帯が塹壕だらけだった。枝分かれして時には急カーブを描く交通塹壕群である。

 

その南のコル周辺も塹壕や塹壕を伴う横穴壕跡、蛸壺壕が至る所に掘られており、解説板も建てられている。

展望のない鉢伏山(下の写真)は通り過ぎるだけだが、秋葉山(140m)手前の峠付近は、元々の地形が分からない位、至る所がえぐられている。

塹壕や蛸壺壕の他、池のようになった大小の擂鉢状竪穴も複数ある。いくつかは山砲や野砲跡かも知れないが、見かけることが少ない大規模陣地跡である(下の写真)。いや、もしかしたら、戦争遺跡とは無関係の工事跡かも知れない。

 

ここから秋葉山への登山道は、斜面の崩壊か何か分からないが、取付き部が不明瞭になっている。

そこでマンガン鉱山跡経由の平坦な道を西進したが、坑口と思しき箇所は石積みされ、塞がれていた(下の写真)。マンガンは砲弾の製造時、強度を高めるために必要不可欠な鉱物。

 

更に西進して秋葉山の西側の登山道に合流すると、そこから山に登ったが、山頂の秋葉神社の祠の囲いもやはりドルメン型になっている。

山頂から南東に下って前述の峠に戻り、北へ下る道を探ったが見当たらない。この道は利用者が少ないのか、上部は廃道状態。

 

そこで迷わないよう、西側の斜面寄りを適当に下って行くと、踏み跡が現れた。この道はすぐ向きを北西に変え、墓地に出た。すぐ右手に中谷家墓所が現れる。

下方で横道に出ると左折し、墓地の西端から階段を下りて行くと無名の神社横を通り、介良川沿いに出た。

川を遡り、朝峰橋袂から宮ノ谷川沿い道路に右折するとすぐ朝峯神社。

 

この回遊ルートは標高が低いだけに午後からでも登ることができる。朝峯神社の最寄りのバス停は高知市介良乙の「北島」。中谷元議員の高知宅の北方にあるバス停である。バス停東方のY字路を南西に折れ、突き当たりを東に折れると朝峰橋。

 

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UFOのメカニズムを解明した宇宙研究所(宇和島市)

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[ノーベル賞委員会も注目した理論]

今日(2/22)も「世界の何だコレ!?ミステリー」でUFO特集をやっていたが、既に25年前、アダムスキー型UFOの推進・飛行動力や空間移動(ワープ等)、機械構造等のメカニズムを解明し、反重力発生装置を開発、その実験に成功した人物がいたことをご存知だろうか。

 

平成初期頃、民放やNHKからも取材を受けていた人物なので、中高年の方なら記憶にある方がいるだろう。そう、宇宙研究所の故・清家新一所長である。

 

ジョージ・アダムスキー同様、宇宙人と交信していたということから、胡散臭く感じていた方もいると思うが、彼の著書の一つ「超相対性理論」は、ノーベル賞候補を審査する部門を擁するスウェーデン王立科学アカデミーが、審査員の数だけ購入している他、「日本物理学会」や「日本航空宇宙学会」で研究成果を発表し、本田技研での講演、通産省、環境庁とも折衝する等、所長の技術力は公に認められている。

 

私は文系大学(経済学部)出身なので、所長の理論を咀嚼・説明することはできないが、理論に基づいて所長が開発したものに、前述の反重力発生装置、宇宙エネルギー発電装置、電源や駆動機械を要さない直流及び交流発電機がある。

 

これらの装置・機器は、UFOの種別名で知られる前述のジョージ・アダムスキーの著書に記載されていたUFO構造図等を元にして製作している。

 

UFOは電源のない宇宙空間から電力を得ているのだが、UFO自体にも駆動機械がない。

アダムスキー型UFOは、上部の球面が垂直になる面にあるコンデンサーコイルから取り込んだ宇宙エネルギーを発電させ、底面にある三つの球形コンデンサー(三相交流誘導発電装置)で電場を造り、ネゲントロピーコイルによって浮上・飛行方向等の舵を取っている。

 

所長は何もない空間からエネルギーを取り込むには、このコイルの巻き方と材質に秘密があるものと思い、「メビウスリング」で知られるメビウス巻きにし、トランジスタコイル(開発に成功して以降、ICコイルに変更した)を使用した。

 

これにより、直流発電部で発生させた5~12ボルトの電流を流すと、2キログラムの物体を30分で最大90グラム軽くすることに成功した。「最大」というのは、気温や湿度等によって成果が異なるからである。

この実際に軽くなる実験は、マスコミ記者等の目の前でも実践している。

 

この構造を自動車や工場に取り入れることができれば、大幅なCO2削減にもなるのだが、講演を行った本田技研工業では、開発する意思はあるのだろうか。

 

但し、所長の理論を否定する作家やライターもいる。それは元となる理論の数式設定の根拠が不明瞭であったり、矛盾部分があるからである。しかし所長の理論を否定する者は皆、実験に立ち会ったことがない。

 

所長は2009年に没しているが、「弟子」の研究者が研究を続けているという。しかしマスコミへの露出は少ないようである。

 

宇宙研究所は所長が亡くなって以降、使用されていないように見受けられる。所謂廃墟状態。

場所は画像にある愛媛県宇和島市大宮町一丁目の大宮パーキング(30100)から南東に小径を入った所。

「実験圃場」入口にはメビウス門があり、その左横の展示ケース内には、初期の実験用反重力発生装置と思しきものが展示されている。

 

余談だが、’80年前後頃、イギリスで二人乗り用と四人乗り用のUFO(UFO型飛行乗り物)が発売されたという記事と写真を見たことがある。価格や飛行速度等は記憶にない。

 

時として人間の発明は理論を超越することがある。理論で説明できないもの、それは、発明・開発者の「情熱と努力」ではないだろうか。

 

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人骨仏像と国内唯一の忠実再現涅槃像群

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[四国屈指の拝観できる仏像群]

仏像の種類の中に「骨仏」というものがある。これは当該寺院に納骨された多数の骨を一旦粉砕してから作り上げる仏像のこと。

 

高松市にある仏生山来迎院法然寺には私が訪れた時、書院と納骨堂にそれぞれ三体の骨仏が祭られていたが、現在、後者には一体増えている模様。

 

寺が骨仏建立を始めたのは戦後で、ほぼ10年ごとに一体から二体、作られているが、これらは藩政時代初期から納骨されてきた10万体にも及ぶお骨による。

仏師は大阪の一心寺の骨仏を製作した今村輝久氏。一心寺の骨仏については数年前、NHKで放送されていた。

 

書院の骨仏は「阿弥陀三尊骨仏像」と呼ばれている。三尊の内、中央の阿弥陀如来は昭和24年開眼、右の観音菩薩と左の勢至菩薩は昭和35年に開眼した。いずれも人間大ほどの大きさである。

 

納骨堂の骨仏については詳細を覚えていないが、当時、一番手前の像が昭和62年、その左横が平成12年開眼の阿弥陀如来座像ではなかったかと思う。

 

一番奥が昭和50年開眼の聖観音立像だった。現在これに平成26年開眼の阿弥陀如来坐像が加わっている模様。

 

しかし法然寺で一番有名で貴重な仏像は、三仏堂(涅槃堂)内に安置されている涅槃像群。これが日本唯一とされているのは、釈迦入滅の状況、寝釈迦と鳥獣人物52類を実物大で再現している点。

 

中央の全長4.8mの寝釈迦を取り巻くのは、十大弟子の羅漢、天龍八部衆、長者居子、龍王、神将眷属。

壇上で見守る三仏は中央が阿弥陀如来、右が釈迦如来、左が弥勒菩薩。

 

天井から吊るされた雲には、阿那律の先導で釈迦の母・摩耶夫人(ぶにん)が乗っている。

鳥獣の中にはフクロウの姿も見られる。

 

これらの涅槃像群は、法然寺を高松城の南の護りとして建立した高松藩初代藩主・松平頼重公(徳川家康の孫で水戸光圀の実兄)が、妻の死を悼んで作らせたものと言われている。

尚、三仏堂の四隅には四天王像が配置され、廊下には法然上人を始め、等身大の歴代住職像が安置されている。

 

他に拝観のし甲斐があるものと言えば、下が参道になっている高床式の二尊堂(下の写真)から鐘楼門を抜け、男坂という名の石段を上がって行った先にある来迎堂。

 

宝形造り裳層付の五間四面の伽藍で、正面の須弥壇には、奈良の唐招提寺から移された弘法大師空海作の阿弥陀如来像を中心に、観音・大勢至菩薩が祭られている。

その他、各種楽器を携えて雲に乗った二十五菩薩があり、仏らの背後や奥の壁は金箔が貼られている。

 

当時私は四国の閻魔王像及び十王像を探して各寺を巡っていたのだが、当然法然寺にも参道を入った所に十王堂が設けられている。

 

閻魔王像の右には、亡者の生前の行為を映し出す浄玻璃(じょうはり)の鏡、左の台上には二体の男女の首からなる「人頭杖(にんとうじょう)」も置かれている。こちらは亡者の善悪を見抜く。

 

拝観(一部有料)を終えた後は「仏生山大名行列」を見物した。これは法然寺を菩提寺とした松平氏が高松城(玉藻城)から法然寺へと参る様子を再現したもの。白馬に跨る藩主役は市長だったか。

 

藩主参拝道である「仏生山街道」を行列が通る途中、何ヶ所かで役者によるチャンバラが始まるが、これがなかなかの人気。

 

このイベントは10月中旬の日曜に開催される。問い合わせは、高松秋のまつり実行委員会事務局(ネクサス内)TEL087-8322511

 

また、ちきり神社付近には、防空壕跡が五基ほど残っている。どれも小さく、生姜の保管横穴程度で、背をかがめないと入れないが、現在、どの壕も入口が塞がれている。

 

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お龍、土佐和食(わじき)へ(22)

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[街道沿い映画ロケ地の「奇遇」]

土佐電鉄安芸線廃線跡の県道高知・安芸線自転車道から小径を下り、車道が交差する十字路に到ると、そこから南の車道が土佐東街道。ここからは街道筋が車道として残っおり、旧家や蔵も現れる。

 

すぐ手結港沿いの手結会館に突き当たる。記憶が定かではないが、この会館は映画「県庁おもてなし課」に出て来たように思う。この手結港周辺は同映画の重要なロケ地の一つ。

街道はここから東に折れるが、すぐの港沿いには、平成9年に建立された「野中兼山頌徳碑」がある。

 

野中兼山は藩政期一の「悲劇の奉行」として有名故、解説するまでもないと思うが、寛永8(1631)から寛文3(1663)までの奉行職にあった頃、土佐内の数多くの港湾や灌漑用水路を整備し、新田を開墾する等、土佐に於ける漁業や農業の施設の基礎を築いた。

この手結内港は日本最古の掘り込み港である。

 

私の住む町が昭和期、「土佐のデンマーク」と呼ばれていたのも、兼山の功績があったからこそである。だから町内の小学校では、授業で兼山について時間を割いて教えている。

 

その東の変形十字路北西角の「消火用ホース置き場」のある地も前述映画のロケ地の一つ。錦戸亮演じる県庁おもてなし課の掛水史貴が、関めぐみ演じる清遠佐和に水をかけられた所。

 

そしてその東向かいの商家「清遠商店」は、佐和と船越英一郎演じる清遠和政の実家である「民宿清遠」として登場する。ドアのガラス越しに見える「民宿きよとお」の看板は、ロケのために作られたもの。

ここの住所は香南市夜須町手結335番地だが、和政の名刺では「香南市青海町志尾308番地(民宿きよとお)」となっていた。

 

余談だが、映画では「清遠商店」がロケ地に決まってから、清遠和政と佐和の登場人物名が決まった訳ではない。最初に二人の名前は決まっており、それからロケ班が手結で適当なロケ地を探していたところ、丁度、清遠商店があったという偶然。滅多にない苗字だけに奇遇。

 

自転車道の陸橋をくぐるとほどなくして、国道55号の築堤によって街道は寸断される。ここはそのまま道路を上がる。

 

その道路を国道55号に上がった所の向かいに、龍馬やお龍も食べたであろう餅を今でも販売する、移転した茶屋があるのだが、そこからの街道を辿るのは別の日にし、手結山から手結港を回遊し、道沿いの史跡等を巡ることにした。が、この探訪を分けることによって、複数の陸海軍の壕跡を発見するに至るのである。

 

私が街道調査等で数々の伝承地や史跡を発見するのも「奇遇」だと思う方は、次の二つのバナーをプリーズ・クリック。


日本屈指の「超狭いスカイライン」の展望所今昔

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[廃止と新設の展望所]

以前も触れた、全国屈指の「超狭いスカイライン」、高知市(旧市域)の北部山脈「北山」の尾根を走る「北山スカイライン」。ガードレールもない曲がりくねった道路で、当然対向車とのすれ違いもできない。

 

四国のみち」にも指定されており、その場合の基点は、西が「円行寺温泉口」バス停、東が土佐神社となる。距離は19.4km、最高所は400数十メートル。しかし車道を歩くハイカーは少なく、車やバイクで辿る者が殆ど。

 

車等で辿る場合の西の基点は、龍馬の八畳岩(柴巻地区)北西方向、「新宮ノ森」(旧鏡村)への道の分岐、東は県道16号、重倉の「ゴルフ場入口」バス停南方のY字路になるだろう。距離は10km少々位か。

 

このスカイラインを先日、21年ぶりに辿ってみたが、二ヶ所あった展望休憩所の内、一つが撤去されており、代わりに某政党関係者が整備した公園ができていた。

 

今回、東から辿ったのだが、前述のY字路ではなく、「正蓮寺」バス停東方のY字路(鋭角的なので、対向車線にはみ出して左折する)から英志台休憩所西に直接上がった。

 

「英志台」は、北山スカイラインが県立自然公園指定になったため、展望休憩所として土地を県に寄贈した山本英志氏から名付けたもの。

 

かつては北山スカイライン随一の展望を誇ったのだが、現在は木々が成長して景色が見えづらくなっている。それでもその東側の陽光公園墓地沿いからは、市街地から浦戸湾の好展望が広がっている(1枚目写真)。

 

次の展望所は英志台から西に500mほど行った地点。七ツ淵ハイキングコースの一つ、喜助道が横断する望六峠東側。ここからも南方市街地の展望が広がっており(2枚目写真)、周囲には梅や桜の木もある。

 

手造りのベンチも設置されており、ハイカーが弁当を食べる姿も見かけられる。

昔から続く「望六茶屋」(下の写真)は’00年代に入り、廃業した模様だが、自販機だけは稼働している。

 

次の展望所は網川トンネル上のやや西にある「高知県日本共産党員顕彰碑公園」。この公園は21年前にはなかったが、肝心の駐車場がない。

展望は電線がやや気になるが、そこそこいい(下方の写真)。

 

そのやや西にあった「仏瀬越休憩所」がなくなっていた。「円行寺4.8km 小坂峠7.1km」の「四国のみち」道標が建つ上の台地である。上り口に虎の子ロープが張られている所。

 

ここには21年前訪れた時、野良犬が一匹いた。吠えていたのだが、近づいていくとやがて吠えなくなり、寝そべって腹を見せるまでになった。恐らくここに捨てられたのだろう。しかしこんな餌も水場もない所に捨てるとは、その神経が分からない。

 

尚、峠の面影はその西側にある、四国霊場を21回巡拝した遍路が建立した供養碑と地蔵位。

 

この後、新宮ノ森へは22年ぶりに行ったのだが、一旦、’00年代に入り整備されていた、森の南東方向の展望広場がまた藪化して、展望がなくなっていた。

 

その展望広場東上の415mピークを「新宮の森」として記す市販の登山ガイドブックがあり、キティ山岳会も何も考えずに登頂記念板を設置しているが、これは誤りで、地形図にある通り、新宮神社奥の宮の鎮座するピーク(380m)を指すのが正しい(最後から2番目の写真)。

 

ところで七ツ淵には先月、20年ぶりに行ったのだが、以前、駐車した所に畑の擁壁が出来ていたため、駐車場所を探すのに手間取った。その畑に沿う私道分岐に駐車スペースはあるが、ここは耕作者が使用するため、駐車はできない。

 

なぜ市や県は、川の上に駐車橋を架ける等して、駐車場を造らないのだろうか。折角県道16号の「七ツ淵」バス停から道路を新設しても、駐車場がなければ意味がない。駐車場ができれば、七ツ淵は「るるぶ」等に紹介されるようになるだろう。

 

逆に北山スカイラインや七ツ淵は、観光ガイドブック等に紹介されないからこそいい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック。

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万人の足に適合する登山靴と推奨登山靴店

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[シリオの登山靴とアクトスポーツ]

私の足(くるぶしから下)は普通の人とは違い、幅が広い割に甲の高さが低い。故にいつも登山靴選びに苦慮する。

数年ほど前までは、日本の登山靴メーカーの老舗、キャラバン社のものを愛用していたが、近年、高知県下でキャラバンの靴を常備している店が激減している。スポーツオーソリティもスポーツデポもビッグジョイも常備しなくなった。

 

故にローカットシューズで愛用しているダンロップ社製品(ワイズは4)のミドルカットタイプのものを使用していたが、登山専用ではないため、ソールが薄く、履き心地は良くなく、今年になると足が痛くなってきた。

 

このままではハイキングや登山ができなくなると、ネットで県内のキャラバン取扱店を探すと、以前高知県の登山店一覧(高知県登山店一覧と廉価の高度計腕時計)で紹介した「アクトスポーツ」(いの町)がキャラバンを常備していた。売価もネット並に安い。

 

急いでアクトに行ってキャラバンを履いてみると、過去、購入したものは皆、フィットしていたのにきつく感じられた。しかし靴の構造が変わった訳ではない。私の足が変形していたのである。恐らく、足にフィットしていない靴を何年も履き続けたせいだろう。

 

が、そんなことは口にしていないのに拘わらず、アクトの社長は私の履いた状態を軽く触った後、すぐ「これなら合うでしょう」とシリオの登山靴を出してきたのである。その靴は今までにないほど足にフィットした。

 

これまで、登山靴を購入する際は、複数のサイズを履いたり、人差し指を靴に突っ込んでみたり、店内を歩き回ったりしていたのだが、シリオの靴は「一発フィット」で、そんなことをする必要はなかった。

 

シリオもキャラバンと同じ日本の登山靴メーカーでワイズも同じ「3E+」のものが多いのだが、履き心地は雲泥の差がある。理由はキャラバン社以上に日本人の足を研究しているところにあった。足幅とスムーズに歩けるかかとの高さ、ソールの硬さとの関係性を徹底的に研究している。そして販売店にはシリオ専用のワイズゲージを置いている。

 

自社で企画した靴をイタリアで製造する点も優れている。イタリアの登山靴製造の歴史は日本よりはるかに古いため、様々な技術の蓄積があるのである。

 

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そのため、シリオの靴は日本人の足によく馴染み、どんな悪路や急登の山にも対応できる。この靴を二、三回履いて山を登ると足の痛みもなくなった。先日、予想してなかった積雪の登山(西条市の経ヶ嶺→石鎚山と燧灘を望む好展望マイナー峰)時も、高い防水性能が証明され、キックステップ(雪面への蹴り込み式登山法)も通用しないような急登箇所でも問題はなかった。

 

キャラバン常備店が全国的に少なくなってきているのは、シリオの台頭によるものではないかと思うほど。

アクトスポーツの社長は前述の登山店一覧記事で説明したように、高知県初の登山店で’99年に倒産した「スポーツショップ白嶺」の元最古参社員。故に各種技術の蓄積があり、信頼できる。白嶺同様、大半のメーカーの商品が注文できる。

 

余談だが’00年代初頭、高知市越前町で「白嶺」の看板を出している店を見たことがある。しかし電話帳には載っていない。白嶺の社長が倒産後、個人的に始めた店か、それとも倒産した白嶺社の倉庫だったのだろうか。

 

またアクトでは、他の登山店ではなかなか置いていない「薄手の中厚」ソックスも常備していた。私は足首に爆弾を抱えているため、山に登る際はサポーターを付ける必要があるので、普通の中厚靴下を履くと靴が入らない。かと言って靴を1サイズ大きいものにすると、履き心地が悪くなる。

 

この店は高知県最大手山岳会「山と野原の会」御用達で、会員は商品が5%OFFになる。この会は高知新聞社から登山ガイドブックを出版する等、県下の山岳会の中では、最も地元県の登山界に貢献した山岳会ではないかと思う。

 

ただ、この店、車を駐車し辛い。交差点の角にあり、二台分の駐車場が店の前にあるのだが、交通量が多いため、バックで駐車することができず、発進する際も気を遣う。

故にもし、いの町役場駐車場が平日1730以降や休日、駐車できるのであれば(未確認)、そこから歩いた方が良い。若しくは仁淀川の堤防に駐車する等。

 

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岩屋群と巨岩群から廃村へ

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[密元の窟と巨岩銀座と坑道と廃村・李]

拙著「四国の鉄道廃線ハイキング」に収録している加茂土工森林組合馬車軌道廃線跡の唯一の遺構「迫門橋(迫戸橋=せとばし)」袂(橋名のバス停あり)に、西条史談会による「密元の窟」の手製の道標が掲げられている。

 

「密元の窟」(愛媛県西条市荒川李[すもも])とは、藩政時代中期の大通寺の元住職、密元が俗世間を離れて隠棲していた岩屋群のことで、大小合わせて五つある。内、一つは深い竪穴で転落すると這い上がれない。

それら岩屋や洞穴は巨岩に形成されているが、周囲や背後の尾根は巨岩・巨石だらけで「巨岩銀座」と言ってもいいほど。特に天を衝くかのような岩塔や立岩は見応えがある。

 

そこに行く途中には、無名の滝や坑道もある。

窟から山道を登って行った先、標高350m前後に廃村・李がある。背後に石鎚山系の「李の高」がある集落である。地形図(西条)には10軒ほどの家屋マークが記載されているが、住宅地図に記載の空き家はその半分ほど。一応、その現存空き家は原形を留めている。

 

市街地の建物の壁面等によく貼り付けられている地区名(荒川李)プレートも、一軒の民家に残っている。

ただ、何年か前の台風で途中の道沿いが崩落し、山道は上れない状態。そこで今回は崩落箇所の手前から水路沿い斜面を直登し、集落へ登った。

 

[コース]

迫門橋を渡った先の道標から山道に入るとすぐ谷川(河川名)に下りて行く道との分岐がある。この手前だったか先だったか忘れたが、踏み跡のY字路がある。ここを左折して行くと谷川支流の沢に到り、踏み跡が上流に向けて続いている。この踏み跡の終点には無名の滑滝が懸かっている。落差は最低20m以上ある。形状は以前紹介した宇和島市の薬師谷上流の無名滝の一つに似ている。

 

滝壺は浅く、猫の額ほどしかないが、近くに数珠が落ちていたことから、ここで修行する者がいるのかも知れない。ネットではこの滝を「密元の滝」と仮称している者もいるが、「李の滝」と呼称するのが自然だろう。

 

更に山道を登って行くと、右足元に「丸野横坑」の小さな標柱があり、踏み跡が雷状に下りている。これを辿っていくと岩盤があり、その先の平坦地に何かのコンクリート台座らしきものがあった。索道関連遺構だろうか。

そこを越えて行った先の谷にコンクリート造りの丸野横坑があった。荒川地区では昭和2735年まで、「荒川山鉱山」が操業していたが、その坑道の一つかも知れない。ただ、位置的には兎之山発電所の導水経路にも近いため、その点検作業のための横坑である可能性もある。

 

本道に戻り、上りを再開するが、地形図の破線には描かれていない急カーブがいくつもあり、現在地確認がし難い。

左手に段々の石垣を過ぎると、巨岩群が現れる。そしてまた右急カーブになるのだが、その少々先に薄い踏み跡の三差路があり、両側の道端に、朽ちて支柱がなくなった「密元の窟」の道標がある。

 

そこを左に折り返して行った先に岩屋群がある。まず右手に、縦の斜めに繋がったような岩屋が二つあるのだが、上の方の岩屋に標柱が建っている。横幅5メートル少々、高さと奥行は3.5メートルほど。

 

この左手にはピラミダルな巨岩があるのだが、その向かいの岩の下部に竪穴が開いている。

その横から石段を上がると仏堂と墓所があり、板碑背後に天を衝く岩塔巨岩が聳え立っている。

仏堂手前から更に石段があり、そこを登った先に二つの岩屋があったと思う。手前の岩屋には石仏が安置され、奥の岩屋には祠が祀られている。

 

前述の岩塔の奥にも巨大な立岩があるが、その背後の尾根も巨岩だらけ。こんな尾根は珍しい。

この尾根を上り詰めると横道に出た。地形図に記載されている、李集落東方のY字路から南東方向に山腹を走る道だろうか。

 

この横道を辿ろうかとも思ったが、かつて李の人々がよく登った主要道を辿りたかったから、また本道に下りて先を進んだ。

もう少しで359mピーク北方の三差路、という所で斜面が崩落し、道が木々や土砂で埋まり、通行困難になっていた。三体の地蔵がある先である。

 

そこで地蔵の手前の道を横断する水路沿い斜面を登ることにした。上に進むに連れ、斜面の勾配が急になる。

前方に平坦地が見えると、勾配が更に急になったため、北西に竹林をトラバースして、その平坦地に出た。そこはミツマタの畑跡のように思えた。紙の原料になる植物である。

 

そのすぐ上が李集落跡で、空き家群がある。二階建ての家も多い。

展望の開けた家もあり、その下の畑はまだ耕作が続いているのではないかと思うほどきれいな状態。

 

山中の廃村では、拙著「土佐のマイナー山PART2」の「天王ノ森~大平山」(香美市物部町)の項で触れた熊押(くもおす)の方が、はるかに標高が高いが、これらの集落の家では、家財、特に箪笥やテレビ、冷蔵庫等の大きなものはどうやって運んでいたのだろうか。

 

今後も廃村や坑道の開拓をしてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック

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一番便利!瞬時に設営、ベット型テント

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[地面が石ころだらけでもOK]

瞬時に設営できるテントは何種類もあるが、地面の状態を気にせずに設営できるテントは少ない。そこでお勧めなのが、Kamp-Rite(カンプ・ライト)社の一人用ベット型テント。これは簡単に言えば、折り畳み式キャンプ・ベットに覆いが付いたもの。

 

高床式なので、地面の状態を気にすることなく、石ころだらけや、水溜りの上にも設営できる。

身体を支える床面はある程度弾力があるため、付属の銀シートを敷くだけでいい。

設営も簡単で、折りたたんだ状態の商品を開くだけ。設営・撤収共30秒あればできるだろう。他社商品では、設営が数秒でできるものもあるが、撤収には時間を要する物が少なくない。

 

入口は四方四面の各面にあり、それぞれ内側にメッシュ扉がある二重扉構造。故に暑い夏場でも風通しがいい。

現行商品では付属しているかどうか分からないが、私が20年近く前に購入したものは、撥水性と保温性のある「覆い幕」が付いていた。

 

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Kamp-Rite(キャンプライト)オリジナル テントコット
価格:40824円(税込、送料別) (2017/3/28時点)

 

 

私は’06~’08年時、よくこれを利用しており、四国各地の無料キャンプ場や近くに公衆トイレがある広場等で設営していた。

現在、これは猫部屋に設置しており、猫様用寝床になっている。これがあるから真冬でも暖房がいらない。

 

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アイゼンなしで4月のお手軽雪山へ(高知県・白髪山)

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先日(41)、香美市物部町の三嶺登山口から白髪山(1769.7m)登山口を経て、峰越林道で別府峡北方の大栃林用軌道廃線跡の未調査区間(別府峡から支流沿いへ延びる区間)へ行こうとしたが、白髪山登山口手前から積雪があり、断念した。今年は四国地方の桜の開花が例年より遅いが、その分、雪山シーズンが延びている模様。

 

予定が狂ったが、三嶺(三枚目写真)山系の雪景色が美しかったため、雪山装備も25千図も用意してなかったが、白髪山へ登ることにした。無雪期なら40分で登頂できるが、春の雪山なら1時間あれば登頂できるだろう。21年ぶりの白髪山登山になる。

 

地形図については、高松市の登山家(「イメージをトレースする私の山歩き」シリーズ著者)’00年代初頭に発行した剣山系の5万分の1地形図をトレースした登山地図を所持していたから、これを利用することにした。

 

ズボンはレインウェアのボトムスを履いた。スパッツはショートとセミロングとの中間位のものしか持ってなかった。中着もマイクロフリースより薄い、シャミース程度のものしか車に積んでいなかった。

 

春から秋にかけての休日には人気の山だが、流石に人っ子一人いない。登山道の雪面にあるのは、鹿の足跡のみ。

積雪期、登山道は未整備故、丸木階段が崩れている箇所もある。

 

樹林帯の積雪は大したことないが、東側が開けた箇所は風が吹き付けているため、膝上までの積雪がある。ワカンがあれば快適だが、アイゼンは必要ない。

稜線に達するとやはり膝上まで積雪がある。これでは白髪避難小屋を経由して回遊することは無理だろう。

 

が、山頂自体の積雪は浅く、三角点も見えている。森林限界を超えているだけに21年経っても360度の展望は変わらない。積雪期だからこそ、人気の山でも山頂を独り占めできる。

 

西方に目を移すと、地蔵ノ頭からゴンザノ森にかけて(山座同定はしていないが)の尾根付近背後から、雲が溢れ出るように稜線から下へと垂れている(上の写真)。

山頂から西に伸びる尾根には、本山町の同名の山とは比べ物にならないが、白骨林帯もある。

 

石立山や中東山は三嶺周辺の山々よりは積雪が明らかに少ない。石立山西方の竜頭山は登山口の吊橋が流失して以降、新たなルートを開拓せねば、と思いつつ、これまでその意欲が湧かなかった。今年は果たして・・・・?

 

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悲劇の志士と吉田東洋墓所に案内板建つ

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[高知市と山口市の真田四郎墓所]

今日、高知市の筆山墓地にある脱藩の勤王志士・真田四郎(本名:窪田真吉、通称:与津地屋清次)の「拝み墓」に案内板が建ち、高知新聞と四万十ケーブルテレビが取材に訪れ、私も取材を受けた。設置したのは四万十町観光協会。

 

四郎が長州に渡り、坂本龍馬も脱藩時に立ち寄った山口県防府市の三田尻御茶屋招賢閣に滞在していたことや、高杉晋作が三田尻海軍局を急襲した際、四郎も加わっていたこと、山口市の墓所、勤王の同志から嫌疑をかけられての切腹時、自らの腸を投げつけた天井が現存すること等、以前ブログや著書「長州・龍馬脱藩道」で述べた。

 

それらでは触れなかったが、実は高知市の筆山墓地にも昭和7年、子孫によって遺骨のない「拝み墓」が建立されている。「真田家先祖之墓」というのがそれで、右側に「正四位」、左側に「真田四郎幸氏」と刻字されている。その横には子孫の真田政衛(四郎の娘か)と夫の夫婦墓もある。

 

なぜ高知市観光協会や教委ではなく、四万十町観光協会(窪川町観光協会の後身)が案内板を設置したのか、疑問に思う方もいるかも知れないが、それは地元志士の名誉を回復させるため。

窪川町史の旧版と新版共、四郎は山口市で酒に酔い、通行人を殺し、その責任を所属していた勤王隊の同志らに追求され、切腹した旨、記述されているが、四郎の切腹には謎があるため、再検証後、名誉を回復させようとしたのである。

 

その「再検証作業」に用いられたのが、当方ブログと前述の拙著だったのである。検証作業には、新版の窪川町史編纂委員の方や四万十町教委も加わっている。

新旧の窪川町史の記述は、明治28年に高知県が贈位申請をした際の調査資料「勤王者調」を踏襲したもので、山口県側の資料は一切調査されていない。

 

そこで検証チームがネットで検索していて、唯一ヒットしたのが当方のブログだったのである。私が使用した資料は昭和8年、防長史談会が発行した『防長人物誌』で、それには「慶応元年三月、大谷実徳(撲助)、河上俊慎(範三)が事ありて、阿武郡須佐村俗議起る。幸行(真田四郎)等往て之を鎮む。幸行を悪(にく)む者あり。毀(やぶ)るに其俗党(俗論党)に与するを以てす。同士の士之を愧()ぢ、幸行を責む。幸行憤懣、遂に六月十二日の夜、寓所吉敷郡嘉川村明正寺に自刃して死す。」とある。四郎は酒に酔って人を殺めたのではなく、この「須佐内訌」に関わった際、勤王同志から佐幕の俗論党に与したと疑われ、切腹させられたのである。だからこそ、腸を投げつけるほど、悔しかったのだろう。

 

今日、山口市嘉川の四郎の本墓(上の地図)付近にも道標が設置されていることを知らされた。設置者は四郎の切腹部屋が残る明正寺らしい。以前、寺に拙著を進呈した後、丁寧な礼状を戴き、その中に、拙著を家宝としたい(腸を投げつけた天井の写真を気に入られた模様)旨、記されていたので、もしかしたら拙著が設置のきっかけになったのかも知れない。

 

四郎とは直接的な関係はないが、筆山墓地入口(皿ヶ峰登山口=真田四郎拝み墓入口)に以前少し触れた吉田東洋墓所の案内図も設置されていた。墓所の手前には道標も新設されている模様。しかしここからのルートは、往路下って、復路、上り返すことになるから遠回りになる。案内図板を建てるなら、塩屋崎町一丁目の福留パーキング東の石段口だろう(こちらも設置済か?)。

 

ところで筆山は桜の名所でもあり、夜桜も楽しめる。しかし今年は四国地方の桜の開花が遅れているため、まだ三割ほどの木にしか花は咲いていなかった。それでも山頂展望台下のヤマザクラは満開で、展望台から見ると、まるで桜の海に市街地の景色が浮いているように見える。

 

以前、拙著「龍馬が辿った道」を津野町教育委員会が購入し、「真の脱藩の道」に複数の道標が設置されたことや、当方ブログがきっかけで龍馬の脱藩時、レンゲ汁を提供した山口彦作の親戚の遺品が高知県立文学館に寄託されたこと等は述べたが、今後も拙著や当方ブログがきっかけで、史跡や歴史上の人物の資料等が整備されるかも知れない。されないかも知れない・・・・?

 

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ホイッスルやザックカバー一体型高機能ザック

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先月、17年ぶりに35Lの中型ザックを購入した。しかしこれまでこだわっていた、両側に大型(容量1.5リットル以上)サイドポケットのあるザックは店頭でもネットでも皆無だったので、背面(外側)に長方形の大型ポケットのあるザック、コールマン社の「TREK MOTION35」を購入した。サイドポケットに固執していた理由は、以前述べたように、水筒やドリンクボトルは、水滴が他の荷物につかないよう、分けて収納したいから。

 

このザックは税込12,000円弱ほどだったので、一般的な登山メーカーのものより安い。このポケットなら1リットルの水筒も2本入る。人間工学に基づいて設計されているので、ポケットに2kg以上のものを入れても、後ろに引っ張られるような感覚はない。

 

ザックの開閉口がドローコード(巾着式)ではなく、ジッパーなので実質的な容量は同じ容量のドローコードザックよりも多い気がする。厳冬期の雪山でも十分対応できる。

レインカバーが下部の専用ポケットに入っており、装着や収納も簡単。

驚くことにチェストバックルがホイッスルになっている。雪崩に巻き込まれて上半身しか雪上に出ていない場合でも、これなら助けを呼べる。私がそうなることはあり得ないが。

 

トレランやスポーツバイク愛好家にも嬉しい機能が装備されている。上部に穴が開いており、ハイドレーションシステムにも対応しているのである。つまり、ザック内にソフトボトルを入れ、チューブをこの穴から出し、いつでも給水できる。

 

 

 

その他、使用しない時、ウエストベルトを固定するホルダーや簡単に調整できるゴム製のトレッキングポール・ホルダーも備わっている。

当然天蓋ポケットや、背面ポケット内にスマホやキー、小物等を収納できるオーガナイザーポケットもある。

17年でザックも進歩したものである。当ザックは登山、自転車、タウンユースと、シーンを選ばず使用できるバックパックである。

 

因みにシーンによっては使い分けなくてはならないこともある。私は狭い未整備鍾乳洞や洞窟へ入洞する際は9リットルのジョギング用デイパックを使用し、一般的な観光地等での短時間の観光や探勝時は、15リットルのコールマン社「クールワンショルダー」(ボトルクーラーポケット付き)[上の写真]を使用している。

 

 

 

50リットル以上の大型ザックは、’08年の龍馬の脱藩の道ガイドブック製作時以降、使うことがなくなった。関西在住時は、営業山小屋や無人小屋に泊まりながらの大峰山系の縦走や八ヶ岳回遊等、ある程度使う機会はあったのだが。

 

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なぜ皆、危険な滝を探訪するのか~いの町・釈善の滝~

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[まるでブラックホール]

過去、何度か触れた高知県いの町の中追渓谷から更に奥に進んだ、仁淀川支流勝賀瀬川上流に「本滝」と「下滝」からなる「釈善の滝(しゃくぜんのたき)」がある。道標も一切なく、道も廃道に近い状態なのだが、地元民によると、「本滝」は年間10人ほど訪れるという。

 

ネットでは「今までに見たことのない滝」等の記述が見られるが、その滝の光景は写真や動画ではまず伝わらない。実際に探訪した者が味わう「異質な凄み」があるのである。滝の落差こそ20m弱程度なのだが、まるで巨大などす黒い岩の樽のような岩壁から轟音を立てて落下しており、探訪するには地下に下りて行くような感覚がある。それはブラックホールに吸い込まれるかのようでもあり、滝壺を覗き込むと足がすくんでしまう。

 

滝壺の上には「釈善様」を祀る岩屋があるのだが、平成以降、台風や大雨で道が荒廃しており、且つ、崖のような箇所もあるので、祭祀をしている地元の関係者はロープを携えていくという。が、一般の者はザイル等を持参せず、普通の格好で下りている。

 

本滝の巨大な滝壺から流れ出る水は、すぐ落差10m少々の「下滝」(二枚目と三枚目写真)となって落下しているが、この下滝は普通の滝で、滝壺周囲は明るく、滝風も心地良いので、弁当でも食べようかと思うほど。本滝同様、近くに岩屋(一枚目写真)もあるが、こちらは何も祀られていない。明瞭な道がないのも本滝と同じだが、危険箇所はない。

 

この滝は武市伸幸氏著の「こうち滝100選」に収録されているが、具体的な滝の入口に関する記述はない。が、ネットでは本滝については入口の写真が公開されており、現地には目印のテープも巻かれている。そこで下滝の下り口について説明しようと思う。

 

 地形図「川口」に滝マーク(下滝と本滝を一つの滝として)が記載されているので、滝の場所自体は皆分かるものと思う。北谷集落を過ぎ、更に勝賀瀬川を遡って行くと、ミニ四国霊場の石仏が何段にも並べられた三差路(橋あり)に到る。ここは道なりに右に進むが、次の沢の手前の、道路の両側に桜の木がある所の広場(一台分のスペース)に駐車するか、その先の左急カーブ(二台分ほどのスペース)に駐車する。後者のすぐ手前に本滝への下り口(上の地図)があるが、まずは下滝を目指す。

 

この二つの広場の間の尾根っぽくなった所を探す。「03707」の国土調査杭が打たれた所である。ここは急勾配なので、大きくジグザグを繰り返しながら下りて行く手もあるが、支流の沢方向への下り易いルートもあったような気がする。地元民はその沢を下った方が早い旨、言っていたが、傾斜があるため、避けた方がいい。

そして適当に本流と支流との合流点を目指す。そこの上流側に下滝が懸かっている。

 

また道路まで戻らなければならないが、高度差は小さいので、ひと踏ん張り。

道路に戻ると先に少し進み、「03717」の国土調査杭を探す。その斜め下の木に赤テープが二、三本巻かれている。一応、踏み跡はあるが、非常に薄い。私はその目印に気づかなかったため、その先の尾根を下り、西方に正規ルートがある尾根を見つけると、斜面をトラバースしてそこに行った。

 

が、そちらの尾根に乗っても踏み跡はないに等しかった。ふと、南東斜面の植林帯の端を目で追うと、屹立した岩盤があり、その下がやや平坦になっている(4枚目写真)。空き缶類が放置された斜面の下である。

 

その岩盤沿いを下って行くとすぐ下に本滝が見えたが、岩屋手前は崖気味になっていたため、木のツルに掴まり、ターザン気味に下の地面に下り立った。前日、雨が降ってなければ、その側の涸れ沢を下りられたかも知れない。

そこから滝壺までは落差があり、下りられそうにない。岩屋前の平坦地の突端は、下滝の天辺になっている。

 

車での帰路、以前、滝の上流側を探索したことのある勝賀瀬川支流・三ツ内川の「だんだんの滝」入口を再度探ってみることにした。前述の本では「水神堂の滝」として掲載されているが、地元ではその滝名で呼ぶ者は殆どいない。その入口から下りて行った所にある砂防堰堤はネットでも公開されている。

 

一応、川沿いをヤブ漕ぎしながらX字状の滝が支流に懸かる所(最後の写真)まで遡行したが、体力と時間の限界が来たため、引き返した。が、ここから先は水神様の参道が残っているようなので、造作ないだろう。前述の本では昭和初期、だんだんの滝付近が土佐十景に選ばれていた旨、記述されていたが、これは誤りだろう。土佐十景は旧伊野町では大国山しか選ばれていない。それとは別に「高知日々新聞」が昭和8年、選出した何らかのくくりの景勝地だろう。

 

しかしだんだんの滝はネットで公開している者でも、あまりルートを語りたがらないようである。以前、鍾乳洞「尼ノ御前」や高知県内の戦争遺跡のことについても述べたが、そんなことを秘密にして、何の得になるのだろうか。素晴らしい場所は地域の誇りにもなるので、できるだけ多くの人々に公開するのが筋ではないだろうか。

因みにだんだんの滝については、数ヶ月ほど前まで、詳しいレポートをホームページに公開している者もいたが、入り口等の詳細については記述されていなかった。

 

だんだんの滝を今度探訪し、詳しいルートを公開してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック

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なぜ皆、危険な滝を探訪するのか2~だんだんの滝(水神堂の滝)~

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[滝壺で起きた超常現象]

前回少し触れた、いの町のだんだんの滝(水神堂の滝)だが、回遊ルートが存在した。ネットでも既に公開されているのだが、復路の林道側の下り口は林道工事により、古道との合流部が消滅していた。故にそちらのコースを辿って行く場合、地元民の案内がないと行けないだろう。が、今回、分かり易いよう、そこの写真を公開する。

 

この滝、実際に探訪してみると、やはり滝壺は神秘的で水神の神威も感じられた。そして見出しにも書いているように、その滝前で水神に対して私があることを申し上げてカメラを滝に向けた瞬間、ある「現象」が起こった・・・・。

 

滝の落差は前回触れた滝の本では8mと記されてあったが、かなり手前の林道からも望見でき(上の写真の左寄り下)、何百メートルも離れた所まで轟音が響き渡っていることから、実際はもっと落差があるように感じられる。もっとも「だんだん」(地元では一般に「水神堂の滝」とは呼ばない)と名称にもあるように、三段ほどの滝の最上部に当該滝が懸かっていることもあり、その轟音は滝群や激流が合わさったものでもある。

 

探訪ルートは、往路は三ツ内川を沢登りし、復路は古道を林道まで登り、起点へと帰る。逆ルートはザイルがないと心もとない。

その起点は、中追渓谷の手前、橋床から三ツ内川(「三ツ淵渓谷」と呼称したい)沿いを遡る舗装された林道にある。因みにこの林道は鷹羽ヶ森(918.9m)の北西尾根へと通じている。

 

その林道の三つ目の右ヘアピンカーブが川への下り口(下の地図)だが、車はやや手前に駐車しなければならない。この林道はダンプもよく通るから、邪魔にならないように。

カーブから朽ちた木の階段を下りて行くと、林道前身の古道に出る。この古道の先から朽ちた竹の手摺の作業歩道(堰堤工事用)が前方左に下りているので、これを下る。更にほどなくして、水神堂参拝道と思われる古道(複数、崩落箇所があるので辿れない)も横断する。

 

作業歩道の終点には砂防堰堤がいくつも築かれているが、最奥の堰堤下の堰堤上を歩いて対岸に渡る。先週、下見した時はその堰堤上に水流はなかったが、先日は10cm弱ほどの水深があった。沢登り用のウェディングシューズを履いていたため、靴の中は水浸し。

後は岸を適当にヤブ漕ぎしていくが、大したブッシュではない。

 

前回触れた支流にX字状の滑滝(上の写真)がある所まで来ると、川床の石を飛んで対岸に渡ったが、途中で足を滑らせて再び靴が水浸し。前回、水神堂参拝道ではないかと記した平坦地は何かの削平地だった。造林小屋跡だろうか。

 

滑滝の落差はだんだんの滝の倍ほどある。この先の斜面を少し登ってみたが、崖で越えられそうにない。再び右岸(南岸)に戻り、こちらも岸の斜面をトラバースしてみたが、やはり奥で崖になっている。本流は「だんだん」最下部の滝状の急流で川床は切り立った岩場。ここを突破するルートはただ一つ。右岸寄りの岩を這い上がるしかない。岩に生えた雑草の根元を掴みながら何とか這い上がったが、復路もここを下りるとなると、ザイルがないと怖い。

 

その上には落差5mほどの滝が懸かっていたが、水量が多く、地響きを立てるほど。滝壺も深い。

ルートの川床は中州の岩尾根のようになっており、そのまま直登する。

前方にだんだんの滝が迫った所でルート上に巨石が横たわっているが、ここは左側を巻く。すると遂にだんだんの滝が全容を現わす。

 

轟音は更に激しくなり、滝壺は淵のように広く、深く、神秘的。ザックを下ろすと滝に向かって手を合わせ、ここまで無事辿り着けた(途中、岩に膝を強打する等していた)ことを水神様に感謝を申し上げ、そして「水神様のことをより多くの人々に知らしめるため、写真を撮らせて下さい。」と告げ、カメラを構えた。するといきなり飛行機音がし始めた。滝の轟音で飛行機音等聞こえるはずがないのに可笑しなことだと思っていると、水の飛沫が降りかかるようになった。

 

最初は滝風によるものと思っていたが、飛行機音はいつまで経っても鳴り止まない。ふと空を見上げると雨が降っている。これは滝の飛沫ではなかったのだ。しかし今日、高知の天気予報は昼からは晴れのはず。実際、空も晴れていた。

不思議に思っていると、飛行機音だと思っていた音はよく耳を研ぎ澄ますと、滝の中から聞こえている。もしやこれは水神が写真を撮るなと言っているのではと思い、「今まで何人もが滝の写真をネットや本で公開しているではありませんか!?」と言ってしまった。

 

十数分位経っただろうか。やがて小雨と轟音は次第に治まっていった。しかしもし水神が撮影を拒んでいたとしたら、帰路、私は事故に見舞われるのではないだろうか。

滝壺手前の左岸の崖にはロープが垂らされていたので(8枚目写真)、これを登ると斜めに上がる踏み跡があり、水神堂の祠跡と思しき所を通過すると参拝道らしき道に出た。

 

これを上ると高知日々新聞が昭和8年に建立した「霊山・三ツ淵山」碑前に出る。三ツ内川は「三ツ淵」が転化したもの。前回も指摘したように、この碑は土佐十景選出によるものではない。土佐十景は以前も述べたように、大正15年、土陽新聞が読者投票により選出したもので、選定地の各碑には「土佐十景」と刻字されている。

三ツ淵山碑の裏がだんだんの滝の天辺になる。この碑の奥に祠があり、ネットではこれを水神堂であるかのように記しているものもあるが、これは轟神社。

 

ジグザグの山道は三ツ内川の支流に沿って上がっているが、この支流の三ヶ所以上に滑滝が懸かっている。道の途中にある谷の分岐を右折した先には、大山積神社の祠が鎮座している。

「夫婦滝」と名付けたい二条の滑滝の上流には堰堤があり、この下部を林道前身の旧道が通っている。旧道を上流に向かって進むと再び三ツ内川に下りられる箇所があり、滝はないがきれいな渓流が流れている。

川に下りる所の斜面上方には金属製の水路があり、この東側を登って行くと林道に出られる。

 

滝に直接下りて行きたい方のために、前述の夫婦滝上流の堰堤上方にある林道からの下り口を図示した(下の地図)。そこは丁度ガードレールが途切れている箇所(上の写真)で、林道の両側に広場があるのが目印。

 

ところで以前、釈善の滝麓の住民が、前に町内吾北地区のにこ淵でバーベキューをしていた者らが事故に遭ったのは、淵の神の祟りだと語っていた。自治体サイトでも注意書きしているが、にこ淵等、神が住まうとされる滝壺では入水や飲食をしてはならない。ネットではにこ淵でカヌーをしている不届き者もいるが、これはもってのほか。神への狼藉は許されない。

 

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必ず記念撮影したくなる滝(香美市・百間夫婦滝[百間滝])

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[三嶺麓に滝が集中]

高知県香美市物部町の三嶺山系の麓には、三つの「百間滝」がある。別府峡(べふきょう)支流の竜頭谷に懸かるものと、別府峡上流、白髪谷に懸かるもの(森林管理署では区別するため「ヒャッケン滝」と表記)、そして西熊渓谷上流、長笹谷に懸かるものである。どの滝も水量が多く、迫力満点だが、最後の長笹谷のものは、私がこれまで見てきた滝の中で随一の景観を誇る。

 

カヤハゲ(東熊山)に源を発する沢と、「白髪の分かれ」のピークから湧き出る沢が、三嶺西熊林道コースの橋の辺りで並行するように流れ、そのまま川床の崖から瀑布となって落下しているのである。その双方の滝天辺(下の写真)の中州にも立ち、見下ろすこともできる。

 

更にそのやや下流には「さおりが原」(1162mだが、現地の案内板では「1170m」と表記)を流れる沢も滝となって(下の写真)長笹谷に落ちているのである。その滝のすぐ側には、雨後、更に一本の滝が出現する。このような光景はなかなか見られない。当記事に添付の写真を見れば、誰もが記念写真を撮りたいと思うはず。

 

この長笹谷の百間滝は他の百間滝と区別するため、「百間夫婦滝」と仮称したい。水量の多い右側の瀑布が雄滝で、左側が雌滝である。さおりが原下流の滝は「さおりが滝」とでも呼びたい。

 

百間夫婦滝の滝壺へは、三嶺登山道から下るのは危険が伴うため、西熊林道の素掘りトンネル手前から下りる砂防堰堤の作業道(所々土砂崩れ跡あり)を辿ると良い。長笹谷に下り立つ前からさおりが滝は見えている。

 

この滝は長笹谷に合流する箇所は「滝」とは言えないかも知れないが、その上流の飛瀑へは沢の左岸(東岸)のザレ場をトラバース気味に這い上がれば到達できる。滝壺は形成されていない。百間夫婦滝(下の地図)は一応滝壺があるが浅く、水遊びできるほど。長笹谷の流れも澄んでいる。

 

滝群を鑑賞後、さおりが原に登り、堂床キャンプ場に下ると回遊できる。滝からは一旦、トンネルに戻った方が無難だが、私は雌滝西側の急傾斜のザレ場(5枚目写真)を這い上がって三嶺登山道に出た。滑落に注意しながら登るが、かなり体力は消費される。

 

登山道はやがてさおりが滝上流の沢沿いを通るようになり、大平原のさおりが原に出る。沢が半周している(上の写真)だけに沢風がそよいでおり、気持ちいい。しかしさおりが原の緑は鹿の食害ですっかり消滅してしまった。それでも自然林は豊富でリスにも出会える。「さおりが原」はご存知の方も多いように、昭和40年代、当時の高知大学ワンゲル部の部員がファンだったアイドルの南沙織から名付けたもの。私なら「キャンディーズが原」と名付けたい。しかし元々の名称は「ヌル谷のナロ」なので、ヌルッとそう呼びたい(?)

 

そこから南西に下る登山道周辺はモミ等の針葉樹林で、谷風も心地良い。

フスベ谷に下り立つと、一旦、三嶺フスベ谷コースを上流の吊橋まで辿り、吊橋上流の巨岩の隙間から沢辺に下りたが、長笹谷よりも更に渓流は碧く、美しい。

 

堂床キャンプ場周辺の西熊渓谷は優しく浅い渓流となっており、子供を水遊びさせるのに適しているよう。ここからは光石登山口からの迂回コースが西熊林道に向けて上がっている。

 

実は現在、光石登山口の奥の登山道が三ヶ所崩落しており、本来の登山口のやや上から迂回路が付けられ、一旦、西熊林道のゲートに出た後、再び堂床キャンプ場に下りるようになっているのである。光石登山口には迂回ルートの地図も張り出されているのだが、なぜかゲート前に駐車している登山者はいなかった。意固地なのか?

 

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僅か4,000円で雌猫避妊手術!しかし猫は落ち込む

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[激安の野良猫専門動物病院]

以前、高知市高須東町にある「高須介良犬猫病院」について若干触れたかも知れないが、ここは猫の場合、約6割が野良猫ということもあり、避妊・去勢(両方合わせて「不妊」と言う)手術は激安。開業当初、雌猫の避妊手術費用は13,000円ほどだったが、その後更に安くなり、何と税込10,000円にプライスダウン。入院費も一日分は無料(入院は必ずしも必要ではない)。こんなに安い動物病院はなかなかない。それでも獣医師会には加盟しているので安心。

 

更に高知市では雌猫の場合、6,000(雄の去勢は4,000)の助成金が出るので、実質の費用は僅か4,000円となる。ペットではなく、野良猫に対しても助成はある。助成システムのない市町村の場合は、県の助成金を利用できる。但し、助成枠があるため、毎年秋ごろ、打ち切りとなる。

 

ただ、病院は小さく、待合室や駐車場は二組で満杯になるため、事前に連絡しておいた方が良い。と言っても満杯になることは稀。

獣医は藤崎マーケットの痩せた方に雰囲気が似ている若い方。県の「動物愛護の集い」にも参加し、無料の医療相談も行っていた。

小動物看護師の方は、セーラー服を着れば女子高生に見えるほど、愛玩的可愛いさがある。

 

先日、ここで飼い猫の避妊手術を行ったのだが、手術前と後では猫が別人、いや別猫になった。手術後、病院では獣医が触ろうとすると「シャー」を吐き、帰宅後は食欲が減退、猫じゃらしにもあまり興味を示さなくなり、寝そべって過ごすことが多くなった。まるで魂が抜けたかのように。

 

私の場合、この飼い猫はネットの里親募集サイトを通じて譲渡を受けたのだが、譲渡契約書には適正な時期に不妊手術を行う旨の条項があり、これを履行しなければ譲渡主に猫を返却しなければならない。が、避妊・去勢手術は人間本位のもので、当の猫自身に取っては受け入れられるものではないだろう。

 

獣医に「シャー」を吐いたのは猫が「嫁入り前の私の体をキズモノにするなんて許さない!」と思ったのかも知れない。食欲が減退し、活発さがなくなり、抜け毛が多くなったのは、「こんな体になってしまって、これからどう生きていけばいいの!?」と嘆いているのかも知れない。

術後は猫の心のケアが大切なので、触れ合う時間を多くした方がいいだろう。

 

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高知市の無名展望スポットとペットの奥の院・鉢巻山

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吉良ヶ峰から北に延びる高知市春野町といの町との市町界線は、吉良ヶ峰鉱山を経て鉢巻山(240m)に達する。ここはかつて石鎚山の遥拝所の一つで、山頂にNTTドコモの鉢巻中継所が建つまでは石鎚神社があった。現在は山頂直下に下ろされている。

 

鉢巻中継所までの車道ができて以降、その西方に鉢巻山動物霊園が開園されたが、ここにはペットの霊を供養する大覚山観音寺がある。更に鉢巻中継所直下には観音寺奥の院まで建立されている。動物霊園で奥の院まで設置されているのは珍しいが、そこからは展望が開けていたからだろう。

 

しかしそこよりはるかに展望の優れた場所がある。鉢巻中継所の少し手前の道路である。そこからは吉良ヶ峰鉱山の階段状擂鉢型採石場越しに南嶺から春野平野、太平洋まで見渡すことができ、壮観。側には別荘のような建物まである。

 

鉢巻山(上の地図。下の写真は山頂)へ向かうには当然、地元春野町側から車で登ったのだが、途中から私道になっていることに気づかず(看板の文字が消えていたため)、軽四がぎりぎり通れるような悪路を登り、ドコモ専用道路に出た。

 

本来はいの町八田の県道38号・大坪橋南の岩滝橋から登るようになっている。橋からの道路をひたすら登って行くと稜線を走るドコモ専用道路に出る。ここには道標が出ているので、鉢巻山方向に折れる。

道標が出ているということは、一般車両も走行可であることを示している。少し進むと左手に私有地につき立入禁止の看板が出ているが、この狭い車道を上ってしまったのである。その少々先に前述の好展望地がある。

 

道路は市町界線を越えると三差路に突き当たり、右の先が鉢巻中継所で、左の道は動物霊園へと下る。車はその三差路付近に駐車。その下が広場のある奥の院で、地蔵の石像が見えている。その隣には季節外れの紅葉が。

まずは中継所の門まで行き、そこから奥の院の塀沿いの小径を進み、大山積神社の祠を経て、大山積神社の鳥居に下り立つ。東側はミニ四国霊場入口で、その北沿いに石鎚神社の参道が並行しており、すぐ先に神社の祠(上の写真)がある。しかし現在は木々が茂り、石鎚山系の展望はよくない。

 

ミニ四国霊場は逆L字型の敷地に八十八ヶ所の石仏と二つの弘法大師像を置いただけのものだが、八十八ヶ所石仏は数体だけを残して撤去されている。

大山積神社鳥居の反対側が奥の院の広場。しかし本堂とは異なり、奥の院は簡便なプレハブ小屋(上の写真)。北西方向にある程度展望が開けている。

 

そこから観音寺本堂まで車道が下っているが、この道路は霊園利用者以外通行できないため、大山積神社鳥居から西に下る参道(踏み跡)を辿る。この道は霊園道路を横断すると、草地の作業車道のような道になり、ヘアピンカーブを繰り返しながら下る。途中の分岐は南の道を進む。

 

しばらく下ると霊園手前の道路分岐に出るので、ここを道標のある観音寺方向に進む。本堂は小さいながらもれっきとした仏堂で、中には仏像も安置されている。周辺には納骨堂が二棟ほどあり、その下が霊園になっているが、空きスペースが目立つことから、まだここの霊園は開設されてから日が浅いのかも知れない。本堂の奥には合同愛玩塚(下の写真)が建立されている。

高知市内のもう一つの山の動物霊園は野良猫スポットになっているのだが、それはまた野良猫名所一覧プラスシリーズで公開したい。

 

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