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頻発するいの町・鷹羽ヶ森での遭難

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[錯綜する林道に惑わされたのか]

2年前、高知県いの町勝賀瀬より西に立ち上がる名峰・鷹羽ヶ森(918.9m)で道迷いによる遭難事故が起こったが、また先週、遭難があった。確か遭難者は北谷から登ったのではないかと記憶している。

 

この山は鷹が羽を広げたような山容をしており、山頂からは石鎚山系を遠望でき、北東ピークからは、仁淀川から太平洋まで見渡せる、県屈指のパノラマ山。高知市からも近く、国道194号に近い所に登山口の一つがあるため、アクセスもいい。以前、だんだんの滝(水神堂の滝)記事で触れたように、尾根まで林道(一般車の通行の可否については未確認)も通じている。

 

ただ、北谷や弘瀬等から登ると山頂との高度差が900m以上あるため、登頂には時間を要する。また、稜線は林道が錯綜している。前述の北東ピークから南下するコースも一部、踏み跡が薄い箇所があったかも知れない。コースと林道との分岐の全てに道標が設置されていたかどうかは覚えていないが、このように林道や作業道が錯綜する山では、読図力のない者は道迷いを起こす可能性がある。今回の遭難も2年前同様、道迷いによる遭難だろう。

 

先週の遭難者が発見されたかどうかは報道されていない。県内に於いてこの10年ほどの間、遭難者が発見されなかったケースは、精神障害がある者の時位なので、恐らく今回も発見されたものと思われる。いつも言っていることだが、登山する際、例え対象の山が市販のガイドブックに載っているような山であっても、常に読図と現在地確認は怠ってはならない。

 

因みに当方は鷹羽ヶ森と尾根続きの南方にある無名峰・大津江山(522.8m・下の写真は山頂)から縦走して行った。四国一のピークハンター、MH2氏は点の記に記載されているルートを登っていたため、後塵を拝すのは耐え難いと、そこより南方にある谷(上の写真は甌穴)沿いの峠道を上がった。

 

しかし途中でそこら中にある国土調査杭に惑わされ、ルートを外してしまったため、急傾斜の斜面を這い上がって大津江山の尾根に出て、鷹羽ヶ森まで縦走し、前述の太平洋を望める860mピークから南のコースを下り、北谷へと下山し、回遊した。ルート図とガイドは→石鎚山系から太平洋迄・大津江山~鷹羽ケ森急登回遊

 

PS

(1)  睡眠時無呼吸症候群に端を発した睡眠障害の再発と腰痛により、もう本格登山ができない身体になってしまった模様。最近しばらく歴史ものの記事を投稿していないのもそのため(記事作成に長時間要するため)

 

(2)  923()16時から「わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」(大洲市河辺町)の前夜祭「龍馬を語る夕べ」に於いて、講師として講演を行います。脱藩須崎説、宇和島説、柳谷(越知町・仁淀村ルート)説についても解説予定。講演後の懇親会も参加を依頼されているため、聞きたいことがあれば応じます。

 

(3)  6月下旬にも四万十町で、旧高岡郡の各市町村(須崎市を含む)の文化財保護審議委員を前に講演を行いますが、これは各教育委員会が認めた専門家が対象なので、一般の方は聴講できません。講演内容は’09年に津野町で行ったものと似たもの。

 

体調を直し、無名峰の開拓を続けてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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がん患者が働く喫煙店にはニコチンを無害にする喫煙剤を

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[ニコチンがビタミンに変わればがん患者も安心]

先日、自民党の厚生労働部会で大西英男議員による「がん患者は働かなければいい」(喫煙可能な店では働かなくてもいい)発言が物議を醸したが、小さな飲食店や地方の飲食店では分煙が進んでいないため、がん患者はどうしても喫煙店で働かざるを得ないことがある。厚労省も店内フロアが30平方メートル以下の飲食店については、分煙の必要性を認めていない。

 

が、店や家庭での受動喫煙対策に効果のある商品は既に’90年代前半に発売されている。以前紹介した(タバコが無害になる喫煙剤とは!?)特許取得済商品・健康喫煙剤「PASS(パース)」である。これを使用すればニコチンの約80%がビタミンB群に変換され、タールも大幅に減少される。使用法は煙草に火をつける前、先にこの粉末をつけるだけ。一回つければ吸い終わるまで効果は続く。

 

以前の記事でも紹介したように、この商品を発明したのは元東京大学農学部農会化学科講師の仁尾正義氏。20年に及ぶ研究の成果の賜物で、研究を行った大学の一つ(ペルー国立工業大学)があるペルーでは、この喫煙剤を練り込んだ煙草も販売されている。

 

これも以前の記事で述べたと思うが、メーカー(初代メーカー)では数多くの実験データや体験データも保有しており、肺がんの入院患者が隠れて病院内でパースをつけた煙草を吸い続け、定期検査に臨んだところ、全く異常値が見られなかったというデータもある。

また、ニコチンがビタミンに変わることにより、肌荒れもなくなるので、女性にも喜ばれている。

 

発売当初は雑誌等にも紹介され、一部の地域ではテレビCMも行っていた。当方が自営業を行っていた頃、パースを取り扱っていたが、やはり地元県の複数の雑誌編集部から連絡があり、誌面に掲載された(高知にPASS上陸、と)

 

ただ、みなさんには疑問があると思う。そんな画期的な商品がなぜ世に広まっていないのか、と。それはこの商品の特許が成分調整剤に関するものであり、薬事効果を謳えないことが原因だろう。但し、特許公報(5-77388)にはニコチンがビタミン群に変換されるシステム・作用が明確に記載されている。つまり、この商品は国が認めた「ホンモノ」なのである。現在でも販売されていることが何よりの証拠だろう。

がん患者の未来はこのPASSにある(といっても過言ではない)

 

※当記事は喫煙を推奨するものではない。

※添付のモデルの写真は、当時の総代理店から宣伝のための使用許可を得ている。

大西英男議員や三原じゅん子議員にこの商品を教えたい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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愛媛と高知の裏見の滝・追加分

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[まだある飛瀑の裏に回れる滝]

以前、高知、愛媛、徳島県の裏見の滝を紹介したが、更に新たに探訪した愛媛・高知県のそれぞれの滝を一つずつ紹介したい。

(1)  赤子滝(愛媛県大洲市河辺町川崎)

 

龍馬の脱藩の道側の「三杯谷の滝」へ行く途中にあり、県道245号沿いに道標が出ている。木菱川支流の日浦川に懸かる。二段で落差は20m

 

昭和63年、地元有志により、探勝路や休憩舎が整備されたが、後者は現在、廃墟となっている。その横は岩屋になっており、昔日、修験者等が修行していたことが推察される。

 

滝の裏には左右岸、どちらからでも行け、踏み跡は不明瞭だが回遊もできる。

登山口向かいの路肩に駐車スペースあり。

 

(2)  夫婦岩の滝(高知県香美市物部町)

 

中都山(1440m)に源を発する猪佐古川支流の標高910m前後の地点に懸かる。奥神賀山や高板山を目指して猪佐古林道を上がる。標高860m地点の三差路の右ヘアピンカーブを道なりに行った、最初の谷が上り口。

 

谷の右岸(南岸)がルートで、上り口には「16|民」の国有林と民有林との境界看板が建っている。但し、道は既に廃道。しかしヤブもなく、僅か10分ほどで滝に到達できる。

 

武市伸幸氏の著書には落差約60mと記載されていたが、見た感じでは落差は赤子の滝ほど。その本の滝と実際の滝は別物のように思える。本の夫婦岩の雄岩と雌岩は高さが70mを超える岩盤に見えるが、実際の岩(最後の写真は雄岩)は数mほど。この上に更に瀑布や岩盤がある可能性もないとは言えないが。

 

滝の裏へは左岸(北岸)から回れるが、ザレ場でやや滑り易い。滝の手前は岩屋になっている。神賀山から中都山、奥神賀山、高板山を結ぶ尾根は山伏が辿っていたルートだけに、昔はこの岩屋でも修行していたことは間違いない。

 

今後も色んな変わった滝を紹介してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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ネット初公開!龍馬を土佐最後の番所迄案内した中岡利吉邸

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[松ヶ峠番所の地権者は中岡利吉だった]

坂本龍馬の脱藩時、土佐最後の番所、松ヶ峠番所まで龍馬一行を案内した、梼原町茶や谷の豪農で当時二十歳過ぎだった中岡利吉についてはこれまで、著書やブログで述べた。

 

今日(6/3)、利吉子孫(利吉に実子はいないので養子の子孫)を取材したところ、慶応期頃の利吉の屋敷が現存していることが分かった。そして何と、松ヶ峠番所の土地は利吉の土地だったことも判明したのである。

 

利吉は農業以外にも金貸しをして莫大な財を築いており、龍馬らに路銀を渡したという。この資金提供の伝承を後世に伝えたのは利吉本人ではなく、利吉と交流のあった四万川庄屋の広瀬氏である。広瀬氏は「道番庄屋」で、四万川口番所の役人も兼ねていた。梼原では宝暦年間の百姓一揆時、庄屋も百姓と一丸となって藩に対抗した過去があり、勤王志士に協力する庄屋や分限者が多かったのである。当然、龍馬一行が四万川口番所を通過する際もすんなり通したはずである。

 

ところで利吉邸については、著書では慶応期頃の住居の場所を記して(簡単に)しまったが、以前、当ブログでは龍馬らが通った文久2年時の住所(上の地図)を記した。当時の住所は以前の無名伝承地一覧か何かで記したが、茶や谷茶堂の東側の家(二枚目写真)。ここは残念ながら当時の遺構は残っていない。が、居住しているのは利吉の子孫(利吉から五代目)。利吉がこの地を離れた理由は、日当たりがいいため、魚等が腐敗し易かったからだという。故にやや南方の陰地に移った。

 

茶堂から南西に進んで茶屋谷川を渡り、少し進むと右手に立派な石垣が築かれた家がある。それが慶応期頃に建築されたと思われる利吉邸(上の写真と下の地図)で、現在、利吉から数えて四代目の子孫夫婦が居住している。ここに利吉から歴代の中岡家の位牌が安置されている。玄関はなく、縁側から出入りするようになっており、戸や窓は現代的なものに変えている。屋根も茅葺から瓦葺に変え、囲炉裏も上に畳を敷いている。

 

この母屋の向かいの家屋は利吉の養子・貞次郎が建てた家。二つの家屋の間、奥にある家屋は炊事と食事をする棟。貞次郎が建てた家屋の下の作業小屋(下の写真)は利吉の隠居時の屋敷跡だが、当時は坂道の車道(敷地に入る)はなかったため、隠居屋敷はもっと西側に延びていた。隠居屋敷跡西側の車道の上部には、車道ができる以前は池があった。

作業小屋の奥には蔵があるが、刀や槍は皆、戦時中に供出したり、盗難に遭う等して、値打ちのある物は全く残っていないという。その更に奥にも昔、もう一つ蔵があった。

 

中岡家の墓所は貞次郎が建てた家屋の裏山にある。上り口は家の東側。道路(町道)から斜めに上がる小径を辿ると墓所がある。利吉の墓は一番奥の左から三番目。

ところで利吉は頑固者だったという。養子の躾(しつけ)も厳しく、貞次郎の前に家に入った養子は何人も逃げて行ったという。

 

頑固だけでなく、正義感も強かった。農村歌舞伎舞台「津野山舞台」が残る円明寺(下の写真)では明治初年の廃仏毀釈時、廃寺にさせられようとするところ、利吉は住職や信徒約300人と共に寺に立て籠もり、竹槍等で武装し、県吏を追い払い、廃寺を免れている。

 

関連地探訪としては、まず旧利吉邸跡(脱藩の道登山口にでも駐車する)を見て茶堂から西に折れて屋敷が現存する利吉邸の外観を見学し、南下して円明寺(参拝客用駐車場あり)に寄る。更に南下し、「おぎのの橋」(袂に中の川バス停あり)袂の斜向かいにある四万川口番所跡(案内板あり・下の写真)を探訪してから、おぎのの橋を渡り、その先にある広瀬邸(子孫居住)を確認する。

 

現存の利吉邸に居住する中岡氏の奥方は茶堂北側にある「農家民宿かまや(→かまや百姓とまり木) 」(最後の写真)の運営に携わっておられるが、現在、愛媛県側の榎ヶ峠上り口にあった「坂本龍馬脱藩の宿」が廃業しているようであるから、茶や谷から愛媛県側へ脱藩の道を歩きとおす場合、このかまやに宿泊した方が良い。アメゴの塩焼きや山菜料理が人気でリーズナブル。

 

当方は9年前、茶や谷を10:40頃出発して脱藩の宿に17時前位に着いたと思うが、今では「あめごの里」(マス尽くしの料理が絶品)まで歩かないといけないため、ハードな登行となる。

 

PS:

(1)  今回の取材は923日に大洲市河辺町で開催される脱藩イベントの講演の講師を依頼されたため。因みに去年の講師は脱藩の道韮ヶ峠ルートの生みの親・村上恒夫氏。歴ドル、美甘子(みかこ)氏が講師を務めた年もあり。

 

(2)  最近、「日本一滝が多いまち」と思われる地区を発見した。再来週、地元の観光協会と共に観光資源としての可能性を探るため、巡る予定。

 

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海軍第23突撃隊山崎鼻トーチカ(須崎市の地下壕)

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[二部屋が連なる壕]

2年ほど前、高知市の平和資料館・草の家が須崎市の山崎鼻の灯台上部(標高80m前後)で二つ連なるトーチカ(新聞等では「監視壕」と発表)を発見した。そこは水上・水中特攻の海軍第23突撃隊司令本部跡から南西に直線距離で800m弱ほどの地点。かつては干潮時、馬詰造船所から磯伝いに歩き、回天格納壕群を経由して海蔵寺跡にある向山造船所西側から海津見神社(灯台横)の参道を上って行けたと思うが、現在、馬詰造船所の私道入口のゲートが閉められているため、一旦、海蔵寺山(213m)に登り、尾根を西に下るしかない。

 

トーチカの屋根部分はかまぼこ型で、二基が互い違いに、南向きに設置されている。急な地下階段を下りると部屋が二つ雷状に繋がっている。側面と後方には銃眼のような長方形の穴が開いている。

 

トーチカの上段尾根は舌状郭のように削平されているので、ここに居住する小屋があったものと思われる。下段の平地は海津見神社の参道終点兼、トーチカに到る軍道の起点。起点の山際には素掘りの短い横穴壕が開口している。規模からすると、生活物資の保管壕ではないだろうか。

 

海蔵寺山の登山ルートと前述の回天壕の反対側にある壕群は拙著「四国の鉄道廃線ハイキング」の「須崎鉱業所トロッコ軌道」で解説したが、そのトロッコの鉱石積込場は先日10年ぶりに行ってみると消滅し、跡形もなくなっていた。しかし軌道跡道路沿いにある回天の電源室壕等は残っていた。

 

本で紹介した登山口は前述のゲートの先だが、現在、ゲートが閉まっているため、そのやや手前の谷状地形を登って支尾根に出る。因みにその新たな登山口(道はない)のやや北西のヤブの中には、23突所属の香南市・魚雷艇隊手結基地の燃料庫壕に似た、長方形の竪穴壕(最後から3番目の写真)がある。その登山口からは10分以内で支尾根に出ることができる。

 

今回、当方は海蔵寺山山頂(直下にマイクロウェーブ反射板あり)まで登らず、途中から斜面をトラバースしたが、踏み跡は途切れ途切れで難儀した。山頂まで登って西に下った方がよっぽど楽。因みにこの10年の間に、山頂からの展望はほぼ消えていた。

トーチカ見学後、磯にあると言われる、須崎市多ノ郷の賀茂神社の八百比丘尼塔で知られる比丘尼洞を探そうとしたが、斜面が滑り易く、断念した。山崎鼻北側の窪みがそうではないかと睨んでいたのだが、開口部は視認できなかった。

 

今回、このトーチカを探訪したのは、先週、須崎の23突に勤務していたという方の義理の娘さんから連絡があったため。今年の夏以降、須崎を来訪される予定ということなので、23突関連の未探訪の戦争遺跡を探訪したのだが、流石に登山経験者でないと海蔵寺山からトーチカの往復は無理。しかしその勤務していた方がトーチカ築造に関わっていた可能性もある。

 

ところで今回の探訪で益々草の家への疑念が強まった。草の家では一貫して戦跡の場所は公開しない方針(草の家に来館して場所を知りたい理由を告げる場合は別)なのだが、その理由は前も述べたように「場所を公開するとゴミを捨てに来る輩がいるから」というナンセンスなもの。つまり、ゴミを廃棄するためにわざわざ戦争遺跡を調べる者がいる、という常軌を逸した主張である。この主張に対し、マスコミや教育委員会関係者の中にも呆れている者は少なくない。

 

草の家では当然、このトーチカや壕も取材に訪れたマスコミに対して、場所を非公開にするよう、強要しているのだが、トーチカや下の壕はネットでも書籍でも紹介されていないにも拘わらず、ゴミが大量に投棄されていた。犯人は太公望だろう。全国のどこの戦跡でもそうだが、ゴミを捨てるのは戦跡を調べる者ではなく、地元民である。戦跡だから捨てているのではない。

 

本来、戦跡のゴミを不自然なまでに気にしている草の家は、これらのゴミの清掃を行うのが筋ではないだろうか。ゴミを見て見ぬふりをして「ゴミを捨てるな」ということは筋が通らない。つまり、これは戦跡の場所を非公開にする理由が他にあるということ。それは自分らのみが当該戦跡を知っているという「自慢」だろう。

 

当方ブログには過去、何人か父や祖父が記事で紹介した基地で任務に就いていた、という方から連絡があったのだが、その都度、草の家を紹介していた。戦史や戦跡の情報を数多く所有しているからである。しかし誰一人、草の家に問い合わせた者はいない。それは政治思想がある団体ということや、草の家研究員が当方の戦跡公開に批判コメントをしたこと等による。

 

草の家は博物館法が適用される登録博物館ではないが、県の博物館ネットワークには登録していたように記憶している。だからこれまで問合せのあった者に紹介していたのだが、もう少し戦史・戦跡の専門集団という自覚を持った方がいいのではないか。学芸員や館長は60代以上の「大人」なのだから、もっとリーダーシップを発揮して、草の家の戦跡研究者への指導や館の「清浄化」にあたるべきではないだろうか。

 

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四国霊場が世界遺産に相応しくない訳

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[八十七ヶ所になって遍路道調査もずさん]

四国4県と関係市町村、各種団体では10年以上前から「四国八十八ヶ所霊場と遍路道」を世界遺産に登録すべく、国の世界遺産の候補公募に応募してきたが、未だに実現していない。それは世界遺産に相応しい普遍的価値を証明することと、各地の「遺産」を文化財として保護することが不十分であるため。遍路道の古道が残る箇所の整備も一部しかできていない。寺側や地域の受け入れ体制も殆どできていない。つまり、世界遺産候補に応募すること自体、現段階では無謀なのである。

 

更に近年、大問題が発生した。62番札所宝寿寺が裁判の結果、四国霊場会からの脱退が認められた(法的に確認された)。つまり、四国八十八ヶ所から「八十七ヶ所」になったのである。宝寿寺は現住職に変わってから、納経時間を霊場会が定める時間より一時間短縮し、昼休み時間も設けた。また、大人数の団体客の参拝を拒否し、遍路や旅行会社の添乗員に暴言を吐いたり、暴力を振るう等もしている。

 

「大問題」は弘法大師空海の生誕地である75番札所善通寺でも起こっている。2013年、寺内での修行僧に対する暴行事件が発覚したのである。被害者は肋骨(ろっこつ)にヒビが入る大怪我を負った。加害者の指導僧の余罪は相当数あり、寺側はその僧を解雇したのだが、問題はその指導僧の犯罪を見て見ぬふりしてきた他の僧にもある。

 

犯罪ではないにしろ、他の寺の僧でも僧としての「資質」が問われるケースがある。例えば’96年、81番札所白峯寺(下の写真)を参拝した際のこと。御守りや各種グッズを販売しているコーナーにいた僧は、100万円を超えると思われる金ぴかのロレックスの腕時計をはめ、雑誌を読み耽っていた。そして参拝客から置いていた宗教グッズについての質問をされると、めんどくさそうにその品のある所へ行き、不快さを顔に出して対応していた。

 

弘法大師が入定した和歌山の高野山でも販売所で’94年頃、問題のある対応があった。当方が2,000円分の買い物をして精算する際、一万円を出したのだが、係員は「なんで一万円なんか出すんや、面倒な。」と吐き捨てた。

 

高知市在住の遍路先達にも問題行動を取る者がいることは以前も述べた。それは高知県教育委員会が発行した「歴史の道調査報告書・ヘンロ道」に於ける調査。この調査は南国市にある高知県立歴史民俗資料館が請け負い、館に登録している各調査員等に遍路道のルート調査や動植物等の自然や生態調査を依頼したのだが、遍路道のルート調査については遍路先達で「ヘンロ道を辿る」(毎日新聞高知支局刊)著者の小松勝記先達が担当した。

 

しかし以前も述べたようにこの先達は土佐の四大街道のことも知らず、読図の専門知識もない。電柱巡視路を遍路道として前述著書で記したり、一里塚跡の場所や何割かのルートも出鱈目。第一、全遍路道の3割しか調査していないにも拘わらず、恰も全ルートを調査したかのように「虚偽報告」をしている。自著の読者であるNPO関係者やボランティアにも暴言を吐く始末。

 

遍路にも問題者はいる。遍路宿やお接待者の対応が自分の期待しているものと違うとすぐブログやSNSで悪口を書く。そういう者に限って遍路をしながら毎日酒をあおっている。当の遍路宿にも「歩き遍路以外お断り」というおもてなしの心が微塵もない宿がある。

 

更に過去には、女性遍路が性犯罪に巻き込まれ、その日の宿の女将に警察に被害届を出すことを相談すると、「そんなことするとお四国(霊場)全体や地域に迷惑がかかるからやめときなさい。」と言われたケースもある。殺人事件以外で遍路が被害者となる事件は警察、自治体、マスコミ、地域が一丸となって隠蔽してきたのである。

 

四国霊場の大半の寺が仏像を公開しない(拝観させない)のも問題。仏像=仏は寺のために存在するのか?そうではないはず。仏や仏教は庶民(の心)を救済するもの。御仏自身や弘法大師もそう思われているはず。四国霊場も西国観音霊場のように、仏像を公開すべきだろう。

 

断っておくが、何も私は四国霊場と遍路道が世界遺産になることを阻止しようとしている訳ではない。いい面ばかり公表して悪い面を言わないのは問題である、と言いたいのである。それに世界遺産になれば国内外から観光客が訪れるだろう、という安直な発想も考え物。いいモノはそんなことに頼らずとも口コミで広がるもの。近年、外国人の遍路が増加しているのも、海外在住の外国人遍路経験者がホームページやSNSで発信しているため。

 

もっと四国霊場会は加盟寺院や先達の「引締め」を行い、四国霊場と遍路道を国内外に売り込もうとする者らは、その方法論を考え直す必要があるだろう。

 

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海軍第23突撃隊(5)司令本部と回天基地・其ノ一

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[司令官は漫画家・横山隆一の兄]

昭和20420日、土佐湾からの米軍上陸に備えた水上・水中特攻部隊、海軍呉鎮守府第二特攻戦隊(720日に第八特攻戦隊に組み替えられる)23突撃隊が高知県須崎市に開隊した。司令への発令は51日で、司令官は以前も触れたように、「フクちゃん」で知られる高知市出身の漫画家・横山隆一の兄、海軍大佐の横山喜一郎。因みにフクちゃんは戦時中も各雑誌で鬼畜米英相手に活躍していた(させられていた)

 

水上特攻兵器は震洋、水中は回天、そしてそれらを援護する魚雷艇の各隊から成る。当初は蛟龍や海龍(世界初の有翼潜水艇)も配備予定だったが、終戦までに間に合わなかった。但し、室戸派遣隊では蛟龍の補給基地(壕はほぼ消滅)はある程度できていた。実際に兵器が配備されたのは浦戸派遣隊、宇佐派遣隊、手結派遣隊だった。

 

本部基地所属は第四回天隊(回天8)、第七回天隊(4)、魚雷艇隊(7隻の内2隻は機銃装備の高速の隼艇)、第49震洋隊(50)だが、以前解説したように震洋隊は司令本部から離れた野見湾沿いにある。

 

魚雷艇は司令官の公室及び宿舎である吉村旅館(二階)の東方、須崎市ポンプ場跡西側に係留されており、その南には回天基地や震洋基地等へ各種情報・命令を伝達するための震洋が6隻係留されていた(下の写真)。そして魚雷艇係留地の海を挟んだ対岸の須崎市立市民文化会館の場所に車庫があり、軍用車が駐車されていた。

 

本部基地と浦戸基地に回天が配備されたのは5月下旬から6月下旬にかけて。当初第七回天隊用の回天は宇佐基地の震洋基地西側に配備予定で、多くの格納壕(一部現存)等は掘っていたものの、浦ノ内湾の水深が浅かったため、本部基地と浦戸基地に4基ずつ分けて配備した。

 

本部基地(震洋隊を除く)の兵員は、第七回天隊が到着する前の616日の資料では、司令部附と回天隊で准士官以上21名、下士官兵617名。魚雷艇隊は准士官7名、下士官兵109名。その資料の「軍規風紀」項には「軍規ハ極メテ厳正ニシテ 士気亦旺盛ナリ」とある。

 

本部基地に配属された回天隊の搭乗員は山口県光市の光基地で訓練を積んでいた。第四と第六回天隊(平生基地で訓練。平生基地の壕は以前ブログで解説済)は二回に分けて訓練基地を出発したが、第七回天隊は皆一緒に出発し、光駅から岡山駅に行き、宇高連絡船で高松に上陸して宿泊。翌日、陸軍の軍用列車に交渉して乗車し、須崎駅まで行き、吉村旅館で着任報告をし、浦戸派遣隊組はまた高知市へと引き返して行った。

 

[関連地探訪ガイド]

1]吉村旅館(須崎郵便局の南西T字路南角)

建物の後ろの方は戦後、火災により改修しているが、横山司令官の部屋は残っているという。

 

2]司令本部への渡船場跡(市民文化会館第三駐車場東のトイレ北側)

横山司令官や幹部らは当初渡船で司令本部へ向かっていた。古写真に写る船着場の小さな波止場とそこから北に続く雁木は昭和半ば頃まであったが、現在は岸壁となり、狭い雁木が一部にあるのみ。その南の石積みのL字型波止は現在でも残っており、10年前は対岸、向山の回天格納壕群が見えていた。現在でも養殖関係施設がなければ望むことができる。

尚、7月以降、司令公室や宿舎は司令本部庁舎に移った。

 

3]震洋係留地と魚雷艇

震洋係留地は渡船場跡の海を挟んだ北東の対岸。昔はその係留地側から市民文化会館第二駐車場の地まで橋が架かっていた。魚雷艇係留地は震洋係留地の北側の県道寄り。因みに県道の北東には戦前の商船桟橋(最後の写真)が二基、残っており、現在でも使用されている。

 

PS:添付の古写真は10年前、須崎市から公開の了承を得ている。当ブログ添付の古写真(特に幕末)を勝手に自分のブログ記事に添付している者もいるが、当方では必ず古写真は加工して「オリジナル」にしてから添付しているため、無断使用は控えて戴きたい。

 

横山兄弟に想いを馳せ、高知市の横山隆一記念館(添付の塗り絵原画も収蔵)に寄りたい、と思った方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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海軍第23突撃隊(6)司令本部と回天基地・其ノ二

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[回天関係の30余の横穴壕]

第七回天隊が着任する一ヶ月半ほど前、山口県の回天大津島基地を発った近江誠大尉が第23突撃隊特攻隊長兼第四回天隊隊長として着任した。同月29日付で大本営海軍参謀部第一部は「水上・水中特攻作戦指導要領腹案」を発表している。

 

それには回天の攻撃目標第一順位として、空母、戦艦、輸送艦、第二順位を巡洋艦としている。実践投入された回天一型は炸薬量1.55トンで、命中すれば如何なる艦艇でも撃沈できると言われていた。しかも酸素魚雷を改良したもの故、空気の泡が水面に殆どでないため、敵艦に発見されにくい。但し、操縦性は悪かったため、命中率は高くなかったことだろう。

 

それに比べて震洋(通称:青蛙)はトヨタのトラックエンジンを搭載したベニヤボートだったため、目標第一順位は輸送艦、大型上陸舟艇、第二順位は駆逐艦となっている。

須崎湾近くの城山を始めとして陸軍も市内各所に陣地を築いており、23突とも作戦についての協議を行っていた。

 

621日、最後の第七回天隊が到着し、須崎の回天隊が揃った所で須崎八幡宮にて記念写真を撮り、渡船で串の浦の宿舎へと向かった。第四回天隊搭乗員は橋本寅治氏宅、第七回天隊は寅治氏の分家、橋本楠吉氏宅を宿舎とした。

 

23突司令本部は蓑越の真珠養殖業者の土地を接収し、本部庁舎、兵舎、酒保(売店)倉庫、要具庫等を設置し、城ヶ浦から串の浦、蓑越、向山にかけて、回天格納壕や魚雷庫壕、居住壕等、30余の横穴壕を掘った。前回触れた、当方に連絡のあった方の父君、本部勤務の通信兵の通信壕もあった模様。

蓑越入口にあたる、猫神社先のY字路付近には衛門が設置され、通行人が厳しくチェックされた。

 

それら多くの壕や施設は防衛省防衛研究所が所蔵している終戦時の23突の「引渡(ひきわたし)目録」(進駐軍へ提出する兵器や備品、基地の一覧書類)内基地図に描かれているのだが、司令本部裏のコの字型退避壕等、基地図に記載されていない壕も少なくない。それらが記された詳しい地図も所有していたのだが、現在、散逸しているため、残念ながら各壕の現況や位置を詳しく述べることができない。

 

<関連地探訪ガイド>

[1]    須崎八幡宮(市民体育館東隣)

富士ヶ浜からの参道の何割かは現在、車庫や有料駐車場になっている。八幡の南西方向には以前触れた土佐藩の「須崎西砲台」あり。

 

[2]    城ヶ浦の横穴壕群

引渡目録基地図記載の北端にあった、二基並んだ魚雷格納壕は住吉大阪セメント高知工場南端の東、或いは南にあったと思われるが、消滅している模様。

そこから南、沖吉石油タンク東の山際には、散逸した資料には2224番壕が三基描かれていたはずだが、現況については記憶にない。

 

城ヶ浦橋南方、三差路から東に入った所に崩れた弾薬庫壕跡(2枚目写真・下の地図)がある。その北の山際の2526番壕については記憶にない。

弾薬庫壕跡南にあった、基地図に記載のH字型魚雷調整壕は擁壁工事で消滅している。

 

その東、基地図には三本の回天格納壕が描かれているが、散逸した資料には1720番の四基の格納壕が描かれていた。高知石油タンクの裏側等に壕が残っている。

そのすぐ先が串の浦だが、宿舎や壕については次回解説する。

 

PS:昨日、以前解説した龍馬の伊予・岩川(旅籠・板屋)へのプチ脱藩時の土佐最後の番所跡(官道で松山街道の一つ)を探訪した。ネット初公開、或いは史上初公開となるその記事は一両日中に投稿予定(未定)

 

散逸した資料を探し出してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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ネット初公開! 司馬遼太郎が探った龍馬の異聞街道の番所

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[坂本龍馬の旧柳谷村脱藩ルート説]

愛媛県久万高原町中津地区(旧柳谷村)上り口の国道33号の分岐に建てられている観光案内板には「脱藩の道」が記されている。これは以前も述べたように、司馬遼太郎が小説「竜馬がゆく」に於いて、那須信吾が吉田東洋暗殺後、実兄の浜田金治に宛てた書簡の中に「徳道の関をぬけ沢渡(さわたり)より舟渡りして、黄昏前、ゆうやく久万山郷のうち岩川に止宿仕り候」と記してあったことから、坂本龍馬も脱藩時、信吾と同様のルート(仁淀川町の旧仁淀村別枝から旧吾川村橘へのルート)を辿って脱藩し、信吾と同じく中津岩川の旅籠・板屋に泊まり、松山に下って三津浜から長州へ渡ったものと考え、小説の中で「これで竜馬の通った道も想像できるはず」と記したことによる。

 

しかし以前述べたように、信吾は実際に自分が脱藩したルートを書簡に記すと関わった者らに迷惑がかかると考え、偽ルートを記し、実際は津野町の旧東津野村芳生野枝ヶ谷から猪伏経由で伊予に入り、岩川に行ったことが、信吾が滞在した芳生野の長山家に伝わっている。更に「竜馬がゆく」連載終了後、梼原から城川に抜ける九十九曲峠脱藩説が浮上し、定着していった(韮ヶ峠ルート説が発表されるまで)

 

が、龍馬が岩川の板屋(亀井家)に滞在した、という逸話は司馬遼太郎が高知県教育委員会に依頼して調べて貰ったことで、実際、板屋には龍馬に出した湯呑や盆が伝わっていたことも以前、解説した通り。文久元年初頭、藩の御留山・佐川山から脱藩して宇和島に向かった時もそうだが、龍馬は本格脱藩前に短期脱藩を繰り返し、各藩の情勢を探っていた。

 

土佐から岩川に入るには、旧吾川村橘(当時は菜ノ川村の枝村・橘村)から入ることになるが、この橘で仁淀川南岸を走る街道(信吾の書簡に記されていたルート)と北岸北方の山並みを走る街道が合流する。因みに後者のルートは国道33号線沿いに懸かる「見残しの滝」(上の写真)上流を通っている。だから弘法大師空海がその街道を通った際、見残しの滝に気づかず、見残したのである。しかし見残しの滝は滝壺まで下りて行くことができ、休憩所(現在は廃墟)も設置されているのだが、なぜか国道から分岐する道路に国交省がフェンスを設けている。

 

橘には岩川に抜ける街道に於ける土佐国最後の番所「橘番所」(上の写真と下の写真)があったが、設置時期は詳らかではない。当初、番人は大庄屋・小野氏が治める菜ノ川村の百姓が交代であたり、「小番百姓」と呼ばれ、脇差を差すことが許されていた。

 

しかし天保137月に起こった、各村の庄屋たちが百姓たちを扇動した「名野川(菜ノ川)逃散一揆」に関わった罪で小野氏が罷免されると、代わりに菜ノ川村の枝村の一つ、森山村の峠ノ越番所番役だった東倉(とうくら)利惣太が番人となった。東倉氏の先祖は峠ノ越地区の開祖。故にそれ以降、橘番所は東倉番所とも呼ばれ、代々東倉氏が明治に至るまで番役を引き継いでいった。

 

[探訪ガイド]

(1)  見残しの滝(堀切トンネル西方)

龍馬とは直接関係ないが(龍馬が仁淀川北岸の道を辿った場合は別)、高知市方面から橘に向かう際、見残しの滝前を通過するので、立ち寄って涼を求めるといいだろう。鷲ノ巣橋手前路肩に駐車スペースあり。滝壺は浅いので水遊びができそうな位。

 

(2)  東倉氏宅(別枝大橋袂)

東倉氏は明治期、国道33号線前身の四国新道ができると現在地に移った。聖教新聞販売所でもあったようだが、現在、空き家のように見える。

 

(3)  橘番所跡(道路終点上方の三差路角)

別枝口バス停西側のY字路を北東に折れ、すぐ左手から急角度で上がるコンクリート車道に入る。また三差路に達すると左折。その先の橘橋は渡らず、谷沿いの超急勾配のコンクリート車道を上がる。この車道の終点は広場になっている。

 

その広場から上に倉庫のような建物上部が見えるが、その北向かいの石垣上が番所跡。その建物付近からは龍馬も見た景色が望まれる(上の写真)。遠景の台形の山(写真中央のやや左奥)は「袴の腰」(1020m・登山コース→「仁淀の岳人未踏千m級峰・袴の腰)。

番所跡は東倉氏が引っ越してからは茶畑になっていたが、現在は荒地。番所の西側には東倉氏の屋敷があった。

 

石垣沿いの草地はややヤブ化しているため、道には見えないかも知れないが、これが岩川へと通じる街道。少し先の植林帯を越えた所までは通行できるが、そこから先はヤブで通行困難。

 

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海軍第23突撃隊(7)司令本部と回天基地・其ノ三

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[隊員の訓練と終戦翌日の出撃待機]

串の浦の民家を宿舎としていた二隊の回天隊搭乗員の日常は、午前中、格納壕に格納されている自分の回天で操縦訓練や、整備員と共に整備具合を確認し、午後は水練や資料作成、昼寝等をして過ごし、夜間の本番訓練に臨んだ。これは夜間なら米軍機の飛行も少ないため。

 

搭乗員が本番訓練を行う前、整備員や基地要員は格納壕からの回天の引き下ろし訓練を行うが、人力で神楽棧(かぐらさん)を回すことは容易ではなく、側で見ていた搭乗員が手伝うこともしばしばあった。

 

広島、長崎への原爆投下後の812日夕刻、回天隊に「明朝〇六〇〇(まるろくまるまる=6時のこと)以降即時待機」命令が下り、第一次出撃隊として第四回天隊の坂田秀則と第七回天隊の河崎春美が指名された。二人は回天の発進準備を行った後、宿舎へ帰り、身辺整理を行い、不要物は焼却した。生きて帰ることはないからである。

 

隊では宿舎の庭でささやかな酒宴を行ったが、宿舎の主、橋本氏は何度呼んでも出てこず、家の陰から隊員たちを見守るのみだった。

しかし翌日、米軍の機動部隊は関東方面に向かった、ということで待機命令は解除された。

 

そして815日、正午に「重大放送」があるから各自必ずラジオを聴くよう指示がある。しかし皆、聞き取れなかったため、猫神社東にある衛門の番兵の制止を振り切って司令本部(下の写真が跡地)に詰めかけてみると、通信壕前で士官たちがうなだれていた。

 

その後、横山司令官が「終戦」を伝えたが、回天搭乗員たちはやりきれない思いで、拳銃を所かまわず撃つ等した。

夜にはラジオから「只今より適性音楽を放送します」というアナウンスが流れ、搭乗員たちは苛立ちながら「六段の調べ」を聴くしかなかった。

 

が、翌日、事態は一変する。以前詳細を解説した「第128震洋隊の悲劇」が起こるのである。高知海軍航空隊から第五航空艦隊司令部に「高知沖南方25キロに敵軍の戦艦又は巡洋艦のマスト3本見ゆ」の緊急電報が入り、それを受けて23突撃隊司令本部では本部基地隊や各派遣隊に「敵機動部隊は本土上陸の目的を以て、土佐沖航行中につき、直ちにこれを撃滅すべし」との伝令を発する。須崎の回天隊にも「十二時間待機」が発令される。

 

県下各地の陸海軍の間で誤報が飛び交う中、手結派遣隊の第128震洋隊の震洋が燃料漏れから大爆発を起こし、100名を超える爆死者を出してしまう。

しかしまたもや当日深夜、回天隊の待機命令は解除される。そして翌17日、大本営は「即時戦闘行動を中止すべし・・・中略・・・二十二日午前零時(停戦協定成立時間)以降は一切の武力行使を停止する」と発表したのである。

 

<関連地探訪>

(1)  竈戸神社防空壕

串ノ浦集落東の山際に神社があり、その背後に防空壕が掘られている(上の写真)。資料が散逸しているため、誰が掘ったものかは覚えていない。その背後の丘の中腹に兵舎や工業所があったはずだが、場所は特定していない。

 

(2)  橋本寅治氏宅と楠吉氏宅(串ノ浦バス停南方)

第四回天隊搭乗員宿舎は多ノ郷乙串ノ浦427番地の橋本寅治氏宅、第七回天隊搭乗員宿舎は串ノ浦437番地の分家の楠吉氏宅だった。寅治氏宅の庭の池やコンクリート小屋は今でも残っているが、小屋の方はグラマン等の機銃掃射があった際には防空壕として利用していた(下の写真)。

 

寅治氏はカニ漁も須崎湾で行っており、搭乗員の中には同行して手伝い、帰宅後、カニ料理を御馳走になった者もいた。カツオのタタキを初めて食べた隊員も多かった。

 

(3)  箕越の回天格納壕群

串ノ浦集落を過ぎた先のY字路から前方右の道路に入る。そのY字路から猫神社手前まで、116番の回天格納壕を始めとする横穴壕が掘られていた。何割位残っていたのか記憶にないが、いくつか残っていた。猫神社の一つ手前の壕は基地図に記載の受信所壕で、二つ手前の壕は受信電源所壕。但し、現況の記憶はない。

 

(4) 司令本部跡

猫神社先の道路終点の岸壁沿いに司令本部庁舎(下方の地図)があり、その手前に要具庫があった。庁舎の西側が船着場跡。その北の居住隧道は目視できなかった。干潮時なら分かるかも知れない。その北側は須崎鉱業所のホッパー基部跡(下の写真右端の岬)。

 

船着場南の山際にはコの字型隧道跡(6と7枚目写真)がある。基地図にある発電機室壕かも知れない。北側の入口跡(6枚目写真)はある程度分かるが、南側は完全に崩落している。進駐軍が来る前に書類等を入れて爆破したのだろう。

 

次回記事の「中に入れる回天壕」に期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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海軍第23突撃隊(8)司令本部と回天基地・其ノ四(完)

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[回天よ、永遠に]

串ノ浦南西のY字路まで引き返すと、今度は上の道路を車で移動する。三差路の谷間に来ると、そこが先日触れた、須崎鉱業所トロッコ鉱石積込場跡(2枚目写真は'07年時)。三差路南東角がその跡地だが、トロッコトンネルも鉱山遺構も跡形もなくなった。そこから北西に進む道路が拙著で解説したトロッコの軌道跡。

 

途中、三基の回天の横穴壕が看板付きで保存されている。これが公道沿いでは唯一奥まで入ることができる壕で、基地図にも記載されている。手前から弾薬壕、送電電源室壕、送信所壕。当時は奥まで壁面に電線が張られていた。

 

この三基の壕は整備・保存されるまで、地元民の不法投棄場になっていた。しかしゴミを全て撤去し、看板を設置するとゴミを投棄する者はいなくなった。「これは地元の戦争遺跡なんだ」という意識が芽生えたのだろう。

 

ゴミを捨てに来る者がいるから、というあり得ない理由で自らが発掘した戦争遺跡の場所を非公開にしている平和資料館・草の家はこの例に学び、自らが調査した戦跡にゴミがあれば清掃し(山崎鼻トーチカ等)、「憲法九条改正反対」という広告にかける予算を戦跡の案内板製作・設置費用に回し、整備して一般に公開し、戦跡の普及・啓蒙に真剣に取り組んで戴きたい。そうしないと戦跡を調査する意味はない。

 

この公道は以前触れた造船所私道入口のゲートで終わるが、平日であればゲートが開いている可能性がある。但し、当方が二回目に行った時は日曜だった。ゲート手前にあるNHKRKC須崎ラジオ中継所周辺に魚雷艇工業所や浴場、烹炊所(ほうすいしょ=炊事場)等があった。

 

ゲートが開いている際は中継所周辺に駐車し、私道を下りて行く。造船所手前の擁壁沿いの踏み跡を海側に歩いて行くと、右手に基地図にはない、入口が塞がれた横穴壕(下の写真)がある。これは元々回天隊の居住隧道として掘り進めていたものだが、尾根を貫通する前に終戦になった。その先には基地図に記載のある回天格納壕が残っている。

 

二基の壕の見学を終えると、馬詰造船所の守衛室に行き、向山の壕を探訪するため、造船所の進水レールを横切る許可を貰う。当方の場合は、須崎市の文化財保護審議委員の方に同行して戴いたが、一個人が許可を得られるかどうかは分からない。

 

満潮時は歩けないかも知れないが、磯を歩いて行くと海軍水路部の水準点標石があり、その先に以前触れた、対岸の戦前の波止場から見えていた二基の回天格納壕(基地図に記載あり)が姿を現す。こちらの壕も奥まで入ることができる。

 

手前の壕入口には穴の開いた大きなコンクリート片がある。この壕の写真に写っているのが前述の審議委員の方(下の写真)。

 

奥の方の格納壕(下の写真)に格納されていた回天は終戦時、須崎湾沖に沈められる前、基地要員や地元民が見守る中、航行を披露した。その回天の搭乗員は第七回天隊の近藤伊助一等飛行兵曹。

航行から帰投すると皆、近藤兵曹を拍手で出迎えた。

 

回天の搭乗員は誰よりも早く復員できた。それは、特攻隊員は進駐軍から何をされるか分からない、というデマが飛び交っていたからである。寅治氏は記念にと、各隊員から一筆墨書きして貰った。

 

10月中旬、GHQから「回天を水深50m以上の海で沈めよ」という指示があった。その頃には基地要員も少なくなっていたことから、漁業関係者がその作業を請負い、漁船で須崎湾沖まで回天を曳航し、沈めた。

が、それから約5年後、朝鮮戦争による金属需要があり、沈められた回天は再び引き揚げられることになる。二度と戦争をしないために沈められたはずなのに・・・・。やがて須崎市民の記憶から回天と第23突撃隊は消えて行った。

 

<探訪ガイド>

(1)  三基の回天壕

周囲は薄暗い樹林帯。

 

(2)  居住隧道跡と回天格納壕

 踏み跡はヤブ化している可能性もあるが、植林帯とヤブの間の境界杭を辿って行くと到達できる。

 

(3)  向山の二基の回天格納壕

現在、奥の格納壕から向山造船所までは行けないかも知れないが、もし磯を歩けるか、途中から山中に上がる踏み跡があれば、以前紹介した山崎鼻トーチカに寄ると良い。

尚、壕の見学申請は、事前に電話で馬詰造船所に問い合わせるよりも直接守衛(口頭申請)と交渉した方が早いだろう。

 

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ネット初公開!巨岩地下掘下げ隧道と獅子岩と無名滝(大洲市河辺町)

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[ドルメン隧道とライオン岩と樽落しの滝]

これまで各種素掘り隧道・トンネルを紹介してきたが、100トンを超える巨岩の底の地面を掘り下げて造った水路隧道は極めて珍しい。掘下げた結果、隧道の両端は大石と岩のため、類を見ないような「ドルメン隧道」が誕生したのである。

 

工事時期は詳らかではないが、水路パイプがまだ日本(四国)になかった頃なので、明治か大正時代ではないだろうか。全長は十数メートルほどか。

 

周囲の地形からすると、水田横の沢が大雨等で増水した際、それを逃すための処置ではなかったかと思われる。但し、現在は隧道内に水路パイプが通っているため、隧道自体には水が流れていない。

 

この隧道沿い沢のやや下流には落差20m弱ほどの無名滝「樽落しの滝」が懸かっている。写真では木々が邪魔になり、滝の規模が小さく見えるが、実際は見応えがある。

 

河辺町(旧河辺村)には愛媛県大洲市の旧市域のように巨石や巨岩が多いが、隧道西の水田にも二つの巨岩がある。二つ共特に名称は付いていないようだが、仮に一つ目を「猪捕岩(ししとりいわ)」と呼ぶ。この岩には割れ目があり、昔、田畑を荒らす猪がこの割れ目に挟まり、駆除されたという。

 

もう一つの巨岩は大洲市河辺支所では「ライオン岩」と仮称している。隧道へ向かう小径からも見えているが、水田西沿いの農作業車道を南下して行くと近い。南下して向かう際はただの四角い巨岩にしか見えないが(人が上にいる岩)、裏に回って巨岩のやや南東地点に立つと、ライオンたる姿になる。

 

以前紹介した三重県熊野市の獅子岩ほどではないが、頭部や前足、口の歯等がはっきり分かる。河辺支所の観光部署職員の方には「獅子岩」という呼称の方がしっくりくるのではないかとアドバイスさせて戴いた。

 

因みに樽落しの滝下流の秋知川には用の谷渓谷(役所が今後遊歩道を整備する可能性あり)があるが、ここにも滝(支流)や岩門のような巨大岩盤がある。岩門は長靴を履かないと探訪できないが、来年度以降、遊歩道が整備されることを期待したい。

 

≪探訪ガイド≫

(1)  ドルメン隧道(筆者による仮称)

水田東沿いの野良道を南下して行き、右手の茅のヤブ奥にある祠を過ぎた先から東下の段になった所に下りる。目の前に隧道がある。懐中電灯がなくても通り抜けられる。

 

(2)  樽落しの滝

隧道を抜けて尾根を下って行くと左手に現れる。下流から滝壺まで石伝いに行くことができる。

 

(3)  獅子岩(ライオン岩)

樽落しの滝を鑑賞すると一旦県道55号まで引き返し、滝上流の沢の西方にある沢に懸かる橋(暗渠だったかも)を渡った所から未舗装農道を南下する。東方奥の猪捕岩は行きにくいが、獅子岩は農道の側にあるからすぐ分かる。猪除け柵の扉の針金を外し、畦道を歩いて行ける。探訪を終えると必ず扉の針金は元通りにしておくように。

 

河辺町の他のマイナー滝や巨石も紹介してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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私が講演で語った土佐浪士の新事実等

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[窪田真吉(真田四郎)の謎や佐々木高行の妹の夫]

昨日、高知県高岡地区(戦前の旧高岡郡エリア)文化財保護連絡協議会総会に於いて講演を行った。内容は次の通り(当日の配布資料)

 

演題:窪田真吉や龍馬等幕末の人物と街道

[A・窪川の志士・窪田真吉(真田四郎)

(1)真吉が土佐を出るまで

(2)忠勇隊での真吉

(3)高杉晋作と共に長州藩海軍局を急襲する真吉

(4)明正寺での切腹の謎と墓の向きの謎

 

[B・谷干城の遠戚の谷氏]

(1)佐々木高行の妹と結婚

(2)谷氏の後妻の実家が海軍の飛行場基地本部に

(3)谷氏と龍馬脱藩の道須崎ルート説との関係

 

[C・那須信吾脱藩ルートの謎]

(1)なぜ信吾は嘘の脱藩ルートを手紙に書いたのか

(2)信吾が手紙に記した宿に龍馬も宿泊

 

[D・龍馬の脱藩を助けた人々]

(1)なぜ山口彦作は龍馬たちにレンゲ汁を提供したのか。

(2)なぜ中岡利吉は龍馬らを土佐最後の番所まで道案内したのか。

 

窪田真吉については当ブログでも二回、記事を投稿したが、講演では真吉の四万十町在住時代の各逸話や、長州三田尻御茶屋招賢閣(龍馬の脱藩時の宿泊所)での、中岡慎太郎の指導の下での日々、参戦した長州での各戦、明正寺で他の土佐浪士(後に海援隊士になる者も含む)らにも見捨てられ、誤解を受けたまま切腹するに至った経緯等、一生を詳細に解説した。

 

谷干城の遠戚の谷氏(上の写真は後妻の実家)とは、過去何度も記事で取り上げた、龍馬の脱藩の道須崎廻り説の根源となった安田たまき(旧姓・濱田好→兄は龍馬の親友)が、明治期に通っていた灸師の谷民衛の傍系谷氏のこと。

 

「海軍の飛行場」とは高知海軍第三飛行場のことで、前述の傍系の谷氏の墓は近年、航空機格納庫跡の一つに移設された。この飛行場跡にも多数の掩体壕跡があるが、南国市の第一飛行場の掩体とは違い、皆、素掘り壕(下の写真)。

 

那須信吾脱藩ルートとは以前も解説した、信吾が脱藩後、兄に送った手紙に記したルートのことで、司馬遼太郎は「竜馬がゆく」で龍馬と沢村惣之丞をこのルートで脱藩させている。このルートの土佐最後の番所が以前、解説した橘番所(仁淀川町)。このルートが「嘘」ということも以前解説したと思うが、信吾は旧仁淀川村から旧東津野村に入り、遠戚の長山家に宿泊した後、長山氏が国境番所の役人に酒を振舞っている間に、信吾は伊予へと入っている(長山家に伝わる伝承)

 

山口彦作(下の写真が屋敷の崩壊した母屋)は文久2324日、数十キロも高知城下から歩いてきた龍馬と沢村惣之丞に、なぜ腹持ちのいい食事を出さずにレンゲ汁を出したのか、ということも以前解説したと思うが、それは土佐市宇佐の僧が記した「真覚寺日記」に、この日は午後から雨が降り出し、夜半には大雨になった旨、記されているから。つまり、雨に濡れて冷えた身体を温めるため。

 

中岡利吉についても以前、詳しく解説した。梼原からは龍馬らに那須信吾と俊平が同行していたため、本来なら利吉による土佐最後の番所・松ヶ峠番所への道案内は不要。しかし番所番人を説得するには、番所の地権者であり、地元の四万川村庄屋とも親交のある利吉の協力が不可欠だったため。

 

また、演題とは直接関係ないが、須崎市も旧高岡郡であるため、以前記事を投稿した、海軍第23突撃隊司令官・横山喜一郎(漫画家・横山隆一の兄)の司令公室兼宿舎(下の写真)についても触れた。

 

次の講演は以前も述べた通り、923日、愛媛県大洲市河辺町でのものだが、演題は「脱藩の道の龍馬の無名伝承地~土佐の龍馬の各滞在所と伊予各地に残る脱藩伝承の謎~」。来月にはチラシも刷り上がることだろう。

 

ところで以前解説した、龍馬が嘉永3年に、その屋敷前を通ったドランクドラゴン塚地武雅氏の先祖邸跡についてだが、その屋敷は中世の重要な遺跡側(広義では遺跡内)に立地していたことが分かった。そして今年初頭、その遺跡から類を見ないほどの出土品が発掘されていたことが分かり、先日、出土品展示施設(既に展示期間は終了)の館長から教員委員会に撮影の許可を取って貰い、撮影した。今週末、その遺跡を探訪予定。

 

来週、遺跡と出土物についての記事を投稿してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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ドランクドラゴン塚地氏先祖邸跡が城跡と共に消える

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[先祖邸は入野城の縄張か]

以前、高知県黒潮町に残る塚地武雅氏の先祖や祖父母関連地を紹介し、先祖邸前を走っていた土佐西街道を坂本龍馬が16歳時に歩いていたことについて解説したが(→ドランクドラゴン塚地の先祖と龍馬 )、最近、その先祖邸跡が背後の中世の入野城跡と共に、今後開発で消滅することが分かった。

 

先祖邸跡(上の写真)にはバイパス道路が通り、入野城跡は宅地として開発される予定。入野城跡南方に「本番ヤシキ」や「大木戸」という地名があることから、塚地先祖邸跡周辺の平地には中世、侍屋敷が建ち並んでいたのではないだろうか。

 

入野城は平山城で城山(元々は「じょうやま」だが、最近は「しろやま」とも呼ばれる)に築城されているが、標高が26mと低いことから地形図にはピークとしては描かれていない。

城跡は平成22年に埋蔵文化財試掘確認調査が実施された際、大量の埋蔵物があることが分かったため、昨年10月中旬から今年2月にかけて、本格的な発掘調査が行われた。

 

その際、段畑跡のヤブに覆われていた城跡の地面を露にし、郭等が現れ、往時の展望も蘇った。ただ、段畑の造成により、元々の地形や遺構の形状は正確には分からない。

 

入野城はかつて大方郷を領した入野氏の本拠だっただけに規模は大きい。橘川古道跡道路を挟んだ東にある入野小学校の地も縄張だったことだろう。

入野氏は藤原氏の末裔だったため、元々藤原姓を名乗る豪族で、加持地区を本拠としていたが、鎌倉時代初期、幡多郡が一条氏の荘園に組み込まれた際、加持に荘官として赴任してきたのではないかとも言われている。

 

藤原(入野)氏はその後、各河川や海岸沿いの湿地を干拓する等して財力を蓄え、大方郷全域を領し、室町時代初期、入野に入野城を築城して本拠としたことを機に入野姓を名乗るようになった。入野氏は一条氏の家臣団でもあったのだが、円満院の過去帳に、永正17(1512)、城主父子が同日の死亡として記載されていることから、一条氏の上意討ちで入野氏は滅ぼされたものと見られている。

しかし分家の伊田入野氏は免れ、一条氏が長宗我部元親に滅ぼされると長宗我部家に仕え、土佐の領主が山内一豊公に変わるとまた家臣に取り立てられている。

 

発掘遺構や出土品としては、詰の段から土坑や礎石、風炉、その下方では築城時の作業跡の整地層や野鍛冶跡、二の段から礎石、その斜面から貿易陶磁器類や土師質土器等が発掘されている。小さなものでは笄(こうがい)や松葉かんざし(上の写真)等も。大量の出土物の中で最も注目されたものの一つが風炉。これは茶釜で茶の湯を沸かす際の、炭と灰で火を起こすもの。

出土品の展示は先月まで入野のあかつき館で行われていたが、どこかの施設で恒久的に展示してほしいもの。塚地家コーナーも作って戴きたい。そして武雅氏を黒潮町の観光大使に。

 

城跡の上り口は塚地先祖邸跡のやや後方、電柱の建っている所。車は休日なら、入野小学校の来客用駐車場に駐車していい模様。コンクリートの小径を上るが、一部ヤブに覆われている箇所があるため、鎌を持参した方が良い。

下草の雑草のヤブが薄くなると、右手下に段々の郭のようなものが現れるが、後世の畑跡か否か判然としない。

ヤブで分かり辛いが、左後方に折り返す腰曲輪の先には矢竹が生えている。

南西隅の十字の畔がある台地が二の段跡(上の写真)か。その下方の帯曲輪のような箇所の一角が野鍛冶跡。

 

詰の段北西角には天守に相当するような建物跡を彷彿させる一段高い箇所(下の写真)があるが、発掘調査現地説明会資料には触れられていないため、後世のものかも知れない。その資料には二種類の山城構造想像図が掲載されているのだが、方角の記載がなく、現在の地図や写真との対比がされていないため、どこに何が残っているのか読み取れない。また、現存地形とあまりにも異なる部分が多い。

 

ところで塚地先祖邸跡(下の地図)だが、現在はヤブに覆われ、基礎の土台すら分からないほどになっている。但し、塀と門跡はまだ壊されずに残っている。邸跡の北と南側にあった小屋は基礎のみを残して撤去されている。南の小屋跡が古文献にある土佐西街道と橘川古道の合流地にあった入野本村一里塚跡である。龍馬も一里塚の榎の大木下で休憩したかも知れない。

バイパスが通った後、町は塚地先祖邸跡と一里塚跡の案内板を設置してくれないものだろうか。

 兎に角武雅氏を黒潮町に呼びたい、と言う方は次のバナーをプリーズクリック。

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龍馬の脱藩無名伝承を講演・第29回わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道

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[愛媛各地の脱藩伝承の謎を解く]

今年も愛媛県大洲市河辺町で「第29回わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」が開催される(→詳細)。河辺町(旧河辺村)は高知県と愛媛県の脱藩の道の内、最も古道が多く残る地区。そんなことから29年前、脱藩の道を歩くウォーキングイベントが開始された。

 

イベントは923日から24日にかけて行われる。23日は前夜祭「龍馬を語る夕べ」で、第一部が当方の講演「脱藩の道の無名伝承地~土佐の龍馬の各滞在所と伊予各地に残る脱藩伝承の謎~」、二部が当方や全国の龍馬ファンがシャモ鍋と酒で龍馬談義を繰り広げる。

 

当方の講演内容については、拙著や当ブログ読者なら想像がつくと思う。伊予の脱藩伝承とは以前も述べた初代脱藩ルート(龍馬が板屋に向かった時のルート)である高知県旧吾川村(仁淀川町)から愛媛県旧柳谷村(久万高原町)へ抜けるルート、二代目の城川ルート、そして文久元年初頭、一時的なプチ脱藩として高知県旧大正町(四万十町)の御留山から旧日吉村(鬼北町)へ抜けて宇和島へと向かった伝承のこと。

 

24日は、当方は参加しないが、二種類の脱藩コースを歩くイベントが開催される。一つは榎ヶ峠から龍馬一行が宿泊した泉ヶ峠まで、脱藩の道を忠実に辿るコース。もう一つは最初、町内に残る屋根付き橋を巡った後、御幸の橋から脱藩の道を泉ヶ峠まで歩くコース。

 

このイベント、両日共参加費が安いのが魅力。前夜祭は講演聴講や酒肴、シャモ鍋込で3,000円。ウォーキングイベントはバス代、弁当代、保険料合わせて驚きの2,000円。いずれも参加人数が限られているため、申し込みはお早目に。

参加者の宿泊費は各自負担となり、各々が直接宿泊施設に申し込むことになるが、チラシには四つの宿泊施設が記載されている。やはり一番のお勧めは拙著でも絶賛した、脱藩の道に一番近い「民宿あまごの里」。あまごとは高知県で言うアメゴのこと。敷地に養殖場があるため、あまごはとれたて。料理はあまご尽くし。骨酒もある。

 

講演の講師はこれまで、歴ドルの美甘子氏や龍馬の手紙の朗読コンサートを行っていた小林綾子氏、村上恒夫氏等、全国区の芸能人や小説家、歴史研究家等が大半だったと思うが、当方はこれまで四国と山口県のマスコミにしか取材を受けたことがない。各著書は登山、歴史、鉄道関係の雑誌で紹介されてはいるが。

 

今回、主催者は講師の人物性よりもその研究内容を重視したものと思われる。去年のテレビアニメ「土佐のむかし話」への制作協力時もそうだったが、脱藩の道について一番詳しいのが当方であるということをネットで認識したのだろう。故に当方は先月から初代脱藩ルートの県境付近の古道踏査を行っている。

 

また、当方は講演料貰ったらハイさよなら、ということはしない。近日中に「河辺町の滝巡り」シリーズ記事を投稿予定で、市界にある展望山の河辺町からの登山ルートも今後、調査予定。

当方は持論を展開するために講演しに行くのではなく、その地域の活性化の一助にならんとするがため、講演に出向くのである。

 

講演するまでにブログで龍馬が板屋に向かったルートの愛媛県側の道を紹介してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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廃線跡随一の景勝滝と無名激流滝群(魚梁瀬森林鉄道)

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[水谷不動の滝とフォトジェニックな滝]

過去何度も触れた国内初の国定文化財となった高知県中芸地方の廃線跡(二系統の本線のみ) 魚梁瀬森林鉄道。森林鉄道としては四国一で日本屈指の総路線営業距離を誇る。戦前からこの本支線沿い随一の景勝地だったのが、北川村小島の「水谷不動の滝」。廃線跡橋梁から遊歩道があり、三つの滝が連続する。水量が多く、轟音を轟かせている。昔は修験の修行場で、仏堂や石仏が祭られてあり、’90年代までは磨崖仏も視認できた模様。

 

このやや東方にも谷があり、沢が奈半利川に注ぎ込んでいる。この谷は規模が小さくて浅く、長靴で沢登りができそうな(実際は岸を登って行ける)位だが、ここには不動の滝とは全く異なる雰囲気の無名の滝が懸かっている。まるで激流が川床の岩盤を無数に断ち割ったように大小の滝を形成しており、当方はその様から「百割滝」と名付けた(上の写真と下の地図)。若しくは「百裂滝」でもいい。アータタタッ。以前紹介した三嶺登山口近くの百間滝(百神の滝)ほどではないが、フォトジェニックな滝と言える。

 

滝の手前には影集落があり、廃線跡の国道493号と集落を、国定文化財の小島影橋(小島橋)が結んでいる。ここで一旦廃線跡は国道と分かれるのである。この橋梁は国定文化財の廃線跡橋梁の中では最大。昭和7年に竣工したもので、全長143m、幅員は2.2m、中央部の両側に待避所が設けられている。国道側はトラス橋で、集落側はプレートガーダー橋。橋脚に歴史を感じる。

 

廃線跡は橋を渡ると、集落東の山際を北上し、集落を抜けると右にカーブして奈半利川沿いを東進している。いずれも狭いアスファルト道路だが、当時の擁壁が残る等、雰囲気はある。

カーブが終わった地点には現在、鹿除けネットが張られているため、車での通行は不可。故にその前に駐車し、ネットをくぐって徒歩で進む。最初は切通しになっており、廃線跡の風情がある。

 

水谷渓谷を橋(橋台は鉄道時代のもの)で渡ると舗装が終わり、滝の案内板が建っており、ここから300mの遊歩道が整備されている。この広場がかつて滝観光者のための駐車場だったが、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線開業時に製作された「沿線市町村ガイド」には、「車の移行ができない」と記されている。

 

「水谷不動尊」の扁額の鳥居をくぐると不動堂らしきものがある。この下の渓谷は堰が設けられている。最初の一の滝(赤タビ滝)には気づかず、二段になって落ちる二の滝(大タビ滝・落差24m)横に出る。轟音が唸り、滝壺(下段の)はどす黒く神秘的。滝壺に下りて行く道もある。

不動明王の磨崖仏がある筈の滝左手の岩盤を凝視して見るが、風化とシダや苔で全く視認できない。

 

二の滝上段の滝壺上に水谷不動尊の石仏が祭られている。石仏は平成に建立されたかのように新しいが、かつては祠が建てられていた。旧石仏は過去の豪雨で流されたのだろう。

祠の中に祭られていた頃、石仏に悪さをした者がいたらしいが、その者は急に身体に変調を来し、ここから一歩も動けなくなったという。

明確な道はないが、この石仏の下から上段の滝壺(上の写真)に行ける。

 

遊歩道の終点には、座るとズボンが泥だらけになるベンチが設けられており、三の滝(丸淵滝・落差15m・上の写真と下の地図)の滝見台となっている。滝壺は「丸淵」という位だから広く、形がいい。旧案内板には滝の幅が3mと記されていたと思うが、瀑布は三条となって落下している。「3m」というのは一条分の幅だろう。残念ながら滝壺に下りて行く道はない。

 

尚、この遊歩道、道に倒れ掛かった木を潜り抜ける箇所が複数ある。対岸にも石仏が祭られているのだが、水量が多いため、渡渉できない。

遊歩道入口まで戻ると廃線跡の東進を再開するが、ここからは未舗装となるため、更に廃線跡の風情が出てくる。

木の間越しに見える奈半利川は雨が続く梅雨にも拘わらず、川面は湖のように青味がかっている。

 

次の橋に来るとそこを流れる沢の上流を見てほしい。木々の間に滝が見えているのが分かる。踏み跡は不明瞭だが、ルートは左岸(西岸)にある。

踏み跡(殆ど見えないほど)の終点には倒木が折り重なって行く手を阻んでいるが、それを乗り越え、岸の岩場を適当に登る。すぐ百割滝が現れる。

 

写真では左側のメインの滝しか分からないかも知れないが、右側上流にも無数の大小の滝状激流があり、その眺めは壮観。まさに「滝の宝石箱」()。傾斜が比較的緩いため、何段になって落下しているのか分からず、滝壺は狭く浅い。

廃線跡については、平鍋ダムより先の水没具合を確認したかったが、時間切れで叶わなかった。

 

林鉄のネット未公表支線の廃線跡調査もしてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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初公開!司馬遼太郎が歩きたかった龍馬の板屋への道

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[国境付近には斬首された土佐人の墓が]

以前、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で述べた、坂本龍馬が高知県仁淀川町から愛媛県久万高原町へと抜けた松山街道(土佐街道)の内、土佐で最後の番所「橘番所」跡付近の街道を記事で紹介したが、県境から愛媛県側の街道について紹介したい。尚、「松山街道」とは、土佐から松山藩中心部へと抜ける街道の総称。「土佐街道」も同様に何種類も存在する。

 

4年ほど前、なぜ司馬遼太郎がこの街道に注目し、愛媛県側に実際に龍馬の滞在伝承のある旅籠(板屋→下の写真)跡が発見されたのか、ということについては解説したが、再度述べたい。

 

司馬は昭和中期、「竜馬がゆく」執筆にあたり、那須信吾が脱藩後に兄に宛てた書簡に記していた脱藩ルートを、龍馬の脱藩の道と推察し、高知県教育委員会に対して、そのルート沿いにある龍馬の滞在伝承地を調べるよう依頼した。しかし高知県側では伝承を採集することができなかった。

 

唯一判明したのが、土佐から伊予に入って最初の集落「岩川」(久万高原町中津岩川)にあった旅籠・板屋での止宿伝承だった。「竜馬がゆく」連載時、板屋跡には龍馬が使用した湯呑や盆が残っており、愛媛新聞も取材に訪れたという。

 

板の間が多かった板屋の当時の主人は亀井六蔵源茲平、久万山郷随一の豪商で、造り酒屋、うどん店、紺屋その他の店屋も営み、米、塩、魚、農具等も取り扱っていた。先祖には豊臣秀吉から文禄元年、琉球国を与えられ、徳川時代は鹿野藩主だった亀井茲矩や、その子で石見・津和野藩主だった政矩がいる。

 

現在残っている家屋は板屋だった建物のみで、六蔵の娘が分家してこの地の亀井家を継いでいる。しかし家自体は空き家で、住宅地図にも掲載されていない。その西の亀井家墓所を挟んだ西の家屋も空き家だが、ここは造り酒屋だった建物(上の写真)。しかし亀井家直系(本家)子孫が県外に移って以降、人手に渡った。

 

以前も述べたように、龍馬は宇和島等、短期脱藩を繰り返していたので、この岩川行きも他藩の情勢を探るためだったのかも知れない。若しくは、宇和島のケースとは違い、岩川は脱藩ではなく、藩に届けた正式な御庭番的密偵行為だったのか。東京空襲で「福岡家御用日記」が焼失されて以降、それを確認する術はないが。

 

松山街道上り口は板屋跡のやや南東にある(三枚目写真)が、辿ったとしてもすぐ畑の柵で通行不可となり、道も消滅する。故に国境まで達する街道が残るルートの登山口を解説する。国道33号のバス停「岩川」から歩けない距離ではない。高知方面から向かう場合、そのバス停西の谷を越えると入口に「民泊・天辺」の看板のあるY字路があるので、その狭い道路を上がる。天辺側にある富田神社は後述する同名神社を下ろしてきたもの。天辺を過ぎて以降、適当な路肩に駐車する。

 

すぐ三差路に至るが、ここを西に行った、最初に現れる家屋が板屋跡。松山街道へは逆の南東へ進む。左上に二軒の小屋が現れるが、恐らく松山街道上に建てられているものと思われる。そのため、前述のように柵が設けられているのである。

 

二軒の小屋を過ぎると右手に林道が分岐しているが、これが街道である。林道に入るとすぐ左手に四国電力の鉄塔巡視路が分かれるが、これは街道をそのまま利用している。

そこからほどなくして、なぜか巡視路道標が本道ではない左手の道に建てられている。山手を見ると巨大岩盤が見えているが、この岩盤沿いは「岩川地四国(ミニ四国霊場)」(4枚目写真)の参拝道。

 

その参拝道は帰路辿ることにし、急勾配の本道をそのまま辿る。

最初の鉄塔下が伊予と土佐との国境だが、峠らしくない。街道の最高所は557m峰南東の鉄塔下である。街道は地形図(柳井川)には、橘からその最高所付近までは描かれているが、そこから愛媛側の登山口までは描かれていない。

 

県境の東の谷(上の地図とその上の写真)には前述の富田神社の元の社が未だ鎮座している。名称は神社だが、これは墓に祠を被せたもの。祭神は土佐市宇佐の行商人・吉田富太郎。富太郎は弘化4年、愛媛県旧美川村の庄屋の分家の未亡人、船田以恵に結婚を申し込んだが、本家庄屋の船田氏が身分不相応としてこれを許さなかったため、富太郎は逆上して以恵とそこの家人を殺害してしまう。

しかし富太郎は逃走中に捕縛され、両国200人余りの見物人のいる中、現在の神社が建つ地で斬首されたのである。

 

街道は最高所を越えると巡視路ではなくなるため、道がやや荒れてくる。途中、折れた木が倒れ掛かっている所に石仏が祭られている(下の写真)。「七社神社」と刻字された手水鉢があることから、かつてその北にその名の祠があったのかも知れない。

植林帯が途絶えると街道はヤブに覆われ、通行不可になる。

 

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龍馬は何のために土佐市の新居坂(宇佐坂)を通ったのか

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[ジョン万次郎が通った記録はあるが]

高知県土佐市新居の本村トンネル北口東側には、宇佐坂(新居坂)津波避難所の看板があり、その先のY字路の古道入口には、この古道を坂本龍馬やジョン万次郎が通ったと言われている旨の朽ちた看板が立てかけられている。万次郎がハワイで暮らしていた宇佐出身の仲間と共に嘉永5101日、ここを通ったことは河田小龍の『漂巽紀略』から読み取れるが、龍馬が通った記録はない。

 

宇佐坂は遍路道でもある塚地峠の別称でもあるため、混同されがちだが、こちらの宇佐坂は古文書等に「新居坂」と記されている坂道の方。以前、「再否定!坂本龍馬脱藩の道須崎廻り説」(左サイドバーにリンク[須崎廻り説の徹底考察])の記事で解説した、高知市春野町を走る土佐西街道から分岐して弘岡番所(下の写真が跡地)、十文字の渡し、上ノ村、山ノ神集落を経由して取付く峠道。最高所の峠は「土佐のマイナー山part2」で解説した、黒岩山北の切通し部。

 

ジョン万次郎自身は帰国後、土佐藩での取り調べを終えて故郷の土佐清水へ帰るなら、土佐西街道を西進するのが最短ルートだが、共に難破してアメリカへ渡った宇佐出身の森田筆之丞・五右衛門兄弟が一緒だったため、こちらのルートを選んだのである。新居坂は新居と宇佐を結ぶ往還である。故にこの峠道を高知方面から辿るとしたら、宇佐か横浪半島方面に用事がある、ということになる。

 

例えば「郷士年譜」によると、宇佐には海防のための駆付郷士が3人いた。龍馬も種﨑砲台で訓練した経験があることや、勤王思想を説くために彼らその他の郷士らと交流したのだろうか。

 

或いは新居坂の峠から黒岩山を経て、立石集落に下りる道があったことから、立石隣の台場地区にあった新居砲台(「四国の戦争遺跡ハイキング」参照)を見学しに行ったのだろうか。

それとも、山陽や関西、東海地方等で修行を重ね、博学でもあった宇佐の真覚寺の井上静照住職に京の政治情勢等を伺ったのだろうか。

 

前述の津波避難所(上の地図は古道入口)は本村トンネル上部を通り過ぎてから、左手の階段を上がった先にあり、土佐湾方面に展望が開けている。

土佐の幕末史ファンなら、本村トンネル近くの山に、ある志士の墓が建っていることはご存知のことと思うが、その志士の墓碑銘は、山口市嘉川の明正寺で窪田真吉 (真田四郎)を見殺しにし、後に海援隊士となった志士の妻によるもの。先月、四万十町教育委員会で講演した窪田真吉列伝はいずれ記事として投稿したい。真吉を明正寺で見殺しにした他の土佐浪士全員の関連地も探訪済。

 

ところでなぜか前述の森田筆之丞・五右衛門兄弟の墓は看板が設置されているにも拘らず、ネットでは出てこない。場所は以前摩崖仏を紹介した、塚地峠の萩谷登山口に近い所。探訪時、車は安政地震碑のある広場に駐車する。そこから萩谷川沿いを下って二つ目の橋を北に渡る。前方には墓地が見えているが、そこは常楽寺跡。上って行くと左手に看板が現れるから分かる(下の地図)。

 

難破してジョン万次郎と共にハワイへ渡った森田兄弟だが、渡航した当初は「森田三兄弟」だった。重助という兄弟もいたが、鳥島での足の怪我が元でハワイの地で亡くなった。筆之丞と五右衛門はホイットフィールド船長の友人である宣教師の計らいで小さな住居や当面の生活費、耕地を与えられ、万次郎が迎えに来るまで暮らしていた。

 

『漂巽紀略』によると、筆之丞と五右衛門が宇佐へ帰ってきた際、既に住居は朽ち果ててなくなり、跡地も分からないほどだったという。それでも親類の家に寄宿し、これまでの艱難辛苦を集まった親族一同に語ったという。が、二人は他国へ出ることを禁じられたばかりか、漁をすることまで禁止され、藩から扶持を受けて細々と暮らしたという。筆之丞は元治2年、五右衛門は安政6年に没している。

 

ところで万次郎ら5人が「運命の」延縄漁に出るため、天保1215日、出航した地についてだが、以前は萩岬西の土佐のかつお節発祥の地碑横に案内板が出ていたと思う(案内板の場所は当方の勘違いかも知れないが)。現在はその西方の宇佐しおかぜ公園下り口に石柱が建つのみ。しかし正確な船出の地は、そこより北西の宇佐漁港内(上の写真)だったと言われる。

 

土佐での逸話や長州での活躍を語る「窪田真吉列伝」に期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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真実のよさこい伝説紀行(10・特別編)

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純信、お馬、慶全による幕末の恋愛スキャンダル「よさこい物語」を取り上げた本シリーズは4年前、完結したが、その時のシリーズで取り上げなかった香美市の二ヶ所の史跡を紹介したい。

 

(1)  吉祥寺跡(土佐山田町楠目談議所)

純信は五台山竹林寺脇坊・南ノ坊住職になる前の弘化年間頃、浦照山成就院吉祥寺の住職になっていた。この寺には純信の弟・松蔵(江渕六弥)が寺男として勤めていたから、その縁もあってのことかも知れない。が、松蔵は嘉永元年7月、物部川で泳いでいて溺死している。

 

松蔵の墓は平成初期頃発見されたが、その墓石に「戸波郷市野々村江渕要作躮(みわけ=せがれのこと)吉祥寺現住純心

 

 

 

 

ママ)松蔵字されてあったことから、なくとも嘉永元年には吉祥寺住職だったことかる

 

安政2519日、純信はお馬と共に脱藩する際、この吉祥寺に寄って、人夫兼道案内として地元の安右衛門を雇っている。

吉祥寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、境内の西隅に辛うじて観音堂だけが残っている。その下に松蔵の墓がある。吉祥寺本堂跡(下の地図)は田圃になっている。

 

ところで、寺跡の探訪だけでは物足らないため、そこから北東にある雪ヶ峰城跡を徒歩で回遊してみた。この城跡は昭和期の文献では土佐山田町指定史跡と掲載されていたが、各郭はヤブに覆われている。それでも深さ5m以上の堀切が残っており、それについては見応えがある。

 

雪ヶ峰(86m)に築かれたこの城の城主は山田元義の家臣・山田監物。主君に代わって長宗我部軍と戦い、討死した。

詰ノ段の北と南に郭を擁し、北端に轟神社が建ち、その北に前述の堀切がある。

 

コースとしては、本堂跡田圃の畦を北東に辿って道路に出て南東に下る。すぐの三差路は北東に折れる。次の三差路は右折、その次の三差路は左折し、廃墟化しつつある研究棟沿いを北東に進む。

 

次の三差路に突き当たると、下にカーブを描くコンクリート歩道が見えるので、これを辿る。

道はすぐ轟神社の参道に出るので、これを上がる。

左手に水路道が分岐する所の少々手前に、南東に上がる踏み跡が現れるが、これを上がると詰ノ段に登ることができる。

 

詰ノ段と周辺の郭を確認すると参道に戻る。

水路道分岐の少々先には水路隧道「神泉隧道」が開口している。

参道の最高所が前述の堀切で、その先に下ると神泉隧道の出口がある。

 

帰路は前述の水路道を行く。この道は大きくカーブを繰り返して道路に出る。これを下って行くと往路の研究棟沿いの三差路に戻りつく。

尚、吉祥寺跡の最寄りのバス停は「山田堰」。

 

(2)  笹番所跡(物部町笹土居番)

純信とお馬が讃岐・金刀比羅宮一の坂の旅籠・高知屋で捕縛され、土佐に護送後、城下の山田橋番所で取り調べを受け、山田町奉行・松岡毅軒から判決を言い渡されるが、その判決文書の中に「笹口御境目潜出」という記述がある。これは二人が笹村の境目番所「笹番所」を抜けて阿波方面へ脱藩したことを意味している。

 

笹番所は藩政時代初期、仮番所として設置され、寛永6(1629)、本番所となり、明治4年に廃止されるまで代々西尾氏が番役を務めた。西尾氏は昭和末頃までこの地に在住していたが、現在、廃屋となった家屋や便所、井戸等が残る中、一際目を引くのが白壁の蔵。かつてはこの中に刀や槍、鉄砲、弓矢、サス又等が収納されていたことだろう。

 

屋敷跡の石垣沿いの小径を北に進めば、左手に両側が高い石垣で覆われた道が分岐するが、この道の北側に、平成13年に屋根の葺き替え工事が行われた観音堂が建つ。県の文化財に指定されても可笑しくないほど貴重で重厚なものだが、完全に忘れ去られた観がある。

 

笹番所跡(下の地図)については県道49号沿いに案内板が建っているが、現在、それは錆び付いて文字が見えない。目印になるのは「笹休暇村直売所」。この斜め向かいの入口に掲示板が建つ、コンクリート車道を上って行った終点に番所跡がある。

因みに直売所の少々手前の南側に、茶色い斜めの屋根が印象的な建物があるが、これは廃業した「笹渓谷温泉」。

 

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私の唯一の自作演歌歌詞

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昨夜、テレビ番組「あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル」で作詞家・阿久悠を特集していた。いつもながら、昭和には情感豊かな歌が多かったなと思う。

当方も昭和60年代から平成初期、「日本レコード制作協会」会員として、会誌に毎号、自作の自由詩や歌謡詩、童謡詩を投稿していたが、その中で唯一、演歌詩があった。昨夜の番組にも出演していた八代亜紀をイメージして作った歌詞である。

 

【海は荒波恋模様】(昭和62年作)

(1)  岬の明かりゆらゆら

悲しく揺れて 海を照らします

波は荒れています あのように

私の心熱くして

二人で歩いた 白い砂浜

思い出だけが埋もれてます

忘れることがなんてことね

想いは募ります 海深く

 

(2)  叶わぬ恋と知って

悲しみくれて 海を見つめます

波は荒れています いつの日も

私の涙 飛び散って

二人で語った 明日の幸せ

語り切れない 未来の夢

信じていたのが辛くなる

想いは捨てます 海の底

 

(3)  我慢できなくなって

悲しみ増して 海に向かいます

波は荒れています いつまでも

私の中に残ります

二人の愛したこの海までも

二人の心を包めません

帰りたいのに帰れない

想いは砕かれて 海の泡

 

当協会の会長が演歌のプロの作詞家だったため、寄稿される歌謡詩や曲は演歌が多かったように思う。しかし今思うとこの歌詞のタイトルはダサい。

 

阿久悠は昭和のナンバー1作詞家だが、番組で彼の著書に書かれていたことを紹介されるのを聞く限りでは、大御所とは言え、他ジャンルの歌詞と自身の歌詞との比較は客観性に欠いているように思えた。

 

阿久は著書でフォーク界のシンガーソングライターや女性の作詞家に「嫉妬」(阿久自身の表現)していたということだが、作詞しか行わない作詞家の歌詞はいい意味でも悪い意味でも「作り上げられた歌詞」。それに対してシンガーソングライターの歌詞は自身の「感性の歌詞」。歌い手や曲にもよるが、聴く側に共感を呼ぶのは、後者の方が多いのではないだろうか。それは歌謡曲とフォークとの違いでもある。

 

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番組で紹介された歌の中で当方が最も好きだったのは、かつて「自分のテーマソング」とも思え、カラオケで必ず歌っていた河島英五の「時代おくれ」。英五自身はシンガーソングライターだが、歌自体は哀愁のある「フォーク歌謡」。

 

また、番組で紹介され、歌手がその場で歌った歌の中で一番気分的に盛り上がったのはささきいさおの「宇宙戦艦ヤマト」。編曲がオーケストラ風だが、作曲者は現代クラシックや合唱曲を手掛けるオーケストラ畑の者。

番組の最後に紹介された沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」は、唯一、私と母(大正生まれ)が共に好きだった歌。母は私のレコードをよく聞いていた。

 

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