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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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陸軍野砲トーチカと門型トーチカ(南国市)

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(1)  蔵福寺島トーチカ

南国市教育委員会が発行している掩体やトーチカ等戦争遺跡のリーフレット「掩体は語る」は何年かおきに改訂されているもようで、最新版には物部川沿いの蔵福寺島に残る「蔵福寺島トーチカ」が掲載されている。

 

南北に長く、南面に砲口、北面に出入口があり、側面は川石を貼り付けて偽装している。南北に長いのは、中に野砲を据えていたため。これは米軍が舟艇で物部川を遡ってきた時のために築造したもの。

 

戦後は農作業倉庫として使用されていたが、今は入口付近にクモの巣が張る等しているから、元の地権者は他界しているのかも知れない。

現在、数匹の野良猫が根城にしているが、人馴れはしていない。

トーチカの前に駐車スペースあり。

 

(2)  峰寺トーチカ

四国八十八ヶ所第32番札所・禅師峰寺(ぜんじぶじ)に上がる車道沿いに「峰寺(みねんじ)トーチカ」はある。道路に対して斜めに設置されてあり、東側は斜面に埋もれている。横幅3m少々、奥行1.5m、高さは2m半ほどの規模で南面に銃眼があるが、門のようになっており、銃眼から裏へ通り抜けられる構造になっている。

 

ここに展開していた部隊はブログや著書でも解説した、十市の栗山トーチカ群や片山鏡岩の片山トーチカ群で防備についていた陸軍第55軍第11師団43連隊。

禅師峰寺から栗山城跡、小南山にかけての尾根には夥しい数の塹壕や蛸壺壕跡があることは分かっている。

 

最新版の「掩体は語る」には他の地区にある未探訪の山中のトーチカも図示されているが、地図の縮尺が5万分の1のため、机上では同定できない。しかし丸一日かけて山中をくまなく探索すれば、探し出すことはできるだろう。が、現在、四半世紀以上確認されていないある山中の摩崖仏や新たな四国最大の滝と成り得る滝のルートを探索中である。

 

 トーチカも摩崖仏も滝も一日も早く探し出して公開してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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廃線跡上の真の四国最大の滝・赤滝は探訪不可か(本山町)

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[落差は150mを優に超える]

かつて「探訪できる」四国一の滝・高瀑(たかたる・132m)を解説したが、武市伸幸氏の著書で「落差約60m」と記述されていた高知県本山町の赤滝が、実際の落差は150~200mあることが滝の展望所に立って実感できた。高瀑を超えているのは一目瞭然で、役場に問い合わせても「見た目は100m以上ある」とのことだった。

 

滝は清流・汗見川支流、桑ノ川のそのまた支流の断崖に懸かっており、滝の展望所は対岸の桑ノ川林道にある。展望所付近も断崖で桑ノ川は峡谷と化し、一見すると対岸の滝壺付近には近づけなさそうに思えるが、滝の支流のある対岸には植林もあり、赤滝下方を林用軌道(森林鉄道)廃線跡らしきものも通っている。この軌道の鉄橋(下の写真は跡地の橋台)が残っていれば簡単に対岸に渡れるのだが、飛び石に利用できる川石もない。

 

赤滝展望所(下の地図)に一番近い民家(普段は空き家同然)70代位の女性に尋ねてみると、その方がこの家に嫁いできた昭和48年時は、対岸に架かる歩行者橋や渡渉できるルートもあったというが、後者のルートは廃道化していた。

森林管理署に問い合わせても、赤滝を含む林内で造林事業は長らく行っていないため、ルートの有無は分からないという。

 

尤も、足を濡らせば対岸に渡渉することは可能。対岸にはなだらかな箇所もある。登山靴からウォーターシューズに履き替え、膝上まで川に浸かって渡渉すればいいのである。しかしそんな「面倒な滝」を紹介しても、探訪したいと思う方は少ないだろう。もう少しルートは探ってみたい。

 

ところで汗見川沿いを車で通ったのは、拙著で「土佐のマッターホルン」と評した大登岐山(天狗岳)に登った’00年以来だが、改めて川の美しさに驚かされる。至る所で川遊びをする子供や家族連れを見かける。

 

汗見川は三波川帯の30種以上の変成岩類が存在する地質学上で貴重な場所。中でも巨大な亀の形をした巨岩「亀岩」(上の写真と下の地図)付近は「四国のみずべ八十八ヶ所」の一つにも選ばれている景勝地。亀岩の対岸側を流れる流れと、その反対側の滝状の流れがあり、後者には滝壺のような甌穴が形成されている。

 

赤滝へ渡れる渡渉ルートを探し出して早く公開してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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発見!落差200mの四国最大の滝探訪ルート

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[ネット初公開ルート

前回の記事で述べた高知県本山町の赤滝だが、展望所からは全体像が見えない。展望所から見える範囲の滝の落差だけでも、これまで四国一と思われてきた高瀑を超えているが、まだ瀑布は下に続いており、最下段の飛瀑を合わせると高知新聞社刊の「滝をゆく」に掲載されていたように、落差は約200mとなる。

 

以前触れた西日本一ではないかと思われる奈良県の中ノ滝(245m)はロッククライミング経験者でないと探訪できないと言われているため、装備なしで探訪できる滝としては、西日本一になる可能性がある。その探訪ルートを先日、見出したのである。

 

桑ノ川の対岸への渡渉地は前回触れた林用軌道(森林鉄道)の鉄橋跡のやや手前にあった。

まず、桑ノ川林道(桑ノ川橋が起点)からその地への下り口を説明しよう。林道沿いの最奥の集落は瓜生野の桑ノ川集落だが、現在、民家は二、三軒しかなく、常時居住している人家は一軒しかない。しかしその居住者は出身や育ちは他所。

 

最奥の人家と畑を右手下に過ぎると、緩い右カーブの谷部となり、そこで舗装道は終わる。その先のカーブミラーの建つ左カーブ路肩(上の写真と下の地図)に駐車する。カーブミラー先の路面の路肩は水切り溝のようになっており、そこから下の植林帯には、ピンクのマーキングテープが点々と続いている。林道から見下ろす限りでは、踏み跡があるように思えないが、これは森林組合が利用している作業歩道なのである。尤も、廃線跡を少しでも長く歩きたければ、最奥の人家裏から下りれば良い。

 

作業歩道はピンクテープの先導がないとルートが分からなくなるほどの獣道程度だが、最初は尾根を下り、その後、西の斜面に移り、右に折り返して下り、廃線跡に下り立つ。そのやや東は桑ノ川川側が崖になっており、川面を見下ろすことができるが、そこから渡渉ルートが見えている(下の写真)。

 

廃線跡からは足場の悪い箇所を下りて行く。踏み跡はないに等しい。渡渉ルートには一応、川石が対岸へと続いているが、どれも斜めで、濡れている石も多く、普通に足を置くと滑る。そこで思案した挙句、1020㎏ほどの河原の石を二、三個、手前の方に放り込んだ。そして自然の飛び石に両手両足をつき、スパイダーマンのように渡渉して行った。これならば石が濡れていても滑ることはない。

 

トレッキンググローブは濡れたが、トレッキングシューズの上には登山スパッツ(ゲイター)を装着していたため、何とか靴の中に水が入ることはなかった。

尚、前回記したように、膝まで水に浸かってもいいのであれば、廃線跡を鉄橋跡のやや手前まで進み、そこから渡渉すれば時間を多少短縮できる。

 

対岸に渡るとやや下流側の庇状の長岩から植林帯へと這い上がった。最も川寄りには踏み跡もある。岩に突き当たると踏み跡は途絶えるが、斜面を少しだけ上がり、再び上流へと向かう。

 

踏み跡がなくとも、川寄りの所に歩き易い箇所がある。桑ノ川川は所々エメラルドグリーンに透き通っている。

記憶が定かではないが、鉄橋跡の手前かすぐ先の植林帯には土砂崩れ跡が広がっていた。そこは下方の伐採跡が残る平地に下りて進む。

 

鉄橋跡からは廃線跡を歩くことになるが、軽快に歩けるのは最初だけで、至る所で土砂崩れや路盤の崩落を起こしており、上り下りが頻繁に続き、体力が消費される。

地形図上の地形と実際の地形が異なっている箇所もあり、現在地確認がし辛い。平成18年発行の「佐々連尾山」では、鉄橋跡の北西に石旅山から伸びる支尾根が張り出しており、水線も曲線を描いているのだが、実際は直線に近い。これは昭和43年に竣工した砂防ダム工事時に、尾根が削り取られたものと思われる。地形図の測量は昭和42年である。平成18年に更新はされているものの、道路以外の部分は殆ど更新されていないのではないかと思われる。

 

そのダム手前は深い渕になっているが、ここが赤滝展望所の案内板に記されていた、高橋兵庫守という落人が京から来た追手100人を斬り捨てた「百人渕」かも知れない。

廃線跡の路盤が消失し、河原の岩場を一旦歩き、再び岸に上がると赤滝の懸かる支流はもうすぐ。

 

鉄橋跡の橋台も消失した沢の奥に赤滝最下段の瀑布が懸かっている。これが展望所からは見えなかった部分の滝である。水量は少なく、岩肌を滑るように落下しているが、滝風は吹いているから心地良い。滝壺も一応あるが狭く浅い。

東岸の袂には石段があり、石垣が築かれた平地に続いているが、ここは昭和40年代まで祀られていた「赤滝様」という祠跡だろう。歩行者橋が豪雨で流失して以降、祀るのをやめたのだろう。

 

赤滝を探訪した前日、「百神の滝(百間滝)」に似た滝を擁する愛媛の渓谷を2時間かけて登ったのだが、また機会があれば紹介したい。

愛媛の渓谷記事投稿を望む、という方は次のバナーをプリーズクリック

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龍馬の脱藩無名伝承を講演・第29回わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道

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[愛媛各地の脱藩伝承の謎を解く]

今年も愛媛県大洲市河辺町で「第29回わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」が開催される(→詳細)。河辺町(旧河辺村)は高知県と愛媛県の脱藩の道の内、最も古道が多く残る地区。そんなことから29年前、脱藩の道を歩くウォーキングイベントが開始された。

 

イベントは923日から24日にかけて行われる。23日は前夜祭「龍馬を語る夕べ」で、第一部が当方の講演「脱藩の道の無名伝承地~土佐の龍馬の各滞在所と伊予各地に残る脱藩伝承の謎~」、二部が当方や全国の龍馬ファンがシャモ鍋と酒で龍馬談義を繰り広げる。

 

当方の講演内容については、拙著や当ブログ読者なら想像がつくと思う。伊予の脱藩伝承とは以前も述べた初代脱藩ルート(龍馬が板屋に向かった時のルート)である高知県旧吾川村(仁淀川町)から愛媛県旧柳谷村(久万高原町)へ抜けるルート、二代目の城川ルート、そして文久元年初頭、一時的なプチ脱藩として高知県旧大正町(四万十町)の御留山から旧日吉村(鬼北町)へ抜けて宇和島へと向かった伝承のこと。

 

24日は、当方は参加しないが、二種類の脱藩コースを歩くイベントが開催される。一つは榎ヶ峠から龍馬一行が宿泊した泉ヶ峠まで、脱藩の道を忠実に辿るコース。もう一つは最初、町内に残る屋根付き橋を巡った後、御幸の橋から脱藩の道を泉ヶ峠まで歩くコース。

 

このイベント、両日共参加費が安いのが魅力。前夜祭は講演聴講や酒肴、シャモ鍋込で3,000円。ウォーキングイベントはバス代、弁当代、保険料合わせて驚きの2,000円。いずれも参加人数が限られているため、申し込みはお早目に。

参加者の宿泊費は各自負担となり、各々が直接宿泊施設に申し込むことになるが、チラシには四つの宿泊施設が記載されている。やはり一番のお勧めは拙著でも絶賛した、脱藩の道に一番近い「民宿あまごの里」。あまごとは高知県で言うアメゴのこと。敷地に養殖場があるため、あまごはとれたて。料理はあまご尽くし。骨酒もある。

 

講演の講師はこれまで、歴ドルの美甘子氏や龍馬の手紙の朗読コンサートを行っていた小林綾子氏、村上恒夫氏等、全国区の芸能人や小説家、歴史研究家等が大半だったと思うが、当方はこれまで四国と山口県のマスコミにしか取材を受けたことがない。各著書は登山、歴史、鉄道関係の雑誌で紹介されてはいるが。

 

今回、主催者は講師の人物性よりもその研究内容を重視したものと思われる。去年のテレビアニメ「土佐のむかし話」への制作協力時もそうだったが、脱藩の道について一番詳しいのが当方であるということをネットで認識したのだろう。故に当方は先月から初代脱藩ルートの県境付近の古道踏査を行っている。

 

また、当方は講演料貰ったらハイさよなら、ということはしない。近日中に「河辺町の滝巡り」シリーズ記事を投稿予定で、市界にある展望山の河辺町からの登山ルートも今後、調査予定。

当方は持論を展開するために講演しに行くのではなく、その地域の活性化の一助にならんとするがため、講演に出向くのである。

 

講演するまでにブログで龍馬が板屋に向かったルートの愛媛県側の道を紹介してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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廃線跡随一の景勝滝と無名激流滝群(魚梁瀬森林鉄道)

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[水谷不動の滝とフォトジェニックな滝]

過去何度も触れた、鉄道廃線跡として国内初の国定文化財となった高知県中芸地方の魚梁瀬森林鉄道(二系統の本線のみの遺構)。森林鉄道としては四国一で日本屈指の総路線営業距離を誇る。戦前からこの本支線沿い随一の景勝地だったのが、北川村小島の「水谷不動の滝」。廃線跡橋梁から遊歩道があり、三つの滝が連続する。水量が多く、轟音を轟かせている。昔は修験の修行場で、仏堂や石仏が祭られてあり、’90年代までは磨崖仏も視認できた模様。

 

このやや東方にも谷があり、沢が奈半利川に注ぎ込んでいる。この谷は規模が小さくて浅く、長靴で沢登りができそうな(実際は岸を登って行ける)位だが、ここには不動の滝とは全く異なる雰囲気の無名の滝が懸かっている。まるで激流が川床の岩盤を無数に断ち割ったように大小の滝を形成しており、当方はその様から「百割滝」と名付けた(上の写真と下の地図)。若しくは「百裂滝」でもいい。アータタタッ。以前紹介した三嶺登山口近くの百間滝(百神の滝)ほどではないが、フォトジェニックな滝と言える。

 

滝の手前には影集落があり、廃線跡の国道493号と集落を、国定文化財の小島影橋(小島橋)が結んでいる。ここで一旦廃線跡は国道と分かれるのである。この橋梁は国定文化財の廃線跡橋梁の中では最大。昭和7年に竣工したもので、全長143m、幅員は2.2m、中央部の両側に待避所が設けられている。国道側はトラス橋で、集落側はプレートガーダー橋。橋脚に歴史を感じる。

 

廃線跡は橋を渡ると、集落東の山際を北上し、集落を抜けると右にカーブして奈半利川沿いを東進している。いずれも狭いアスファルト道路だが、当時の擁壁が残る等、雰囲気はある。

カーブが終わった地点には現在、鹿除けネットが張られているため、車での通行は不可。故にその前に駐車し、ネットをくぐって徒歩で進む。最初は切通しになっており、廃線跡の風情がある。

 

水谷渓谷を橋(橋台は鉄道時代のもの)で渡ると舗装が終わり、滝の案内板が建っており、ここから300mの遊歩道が整備されている。この広場がかつて滝観光者のための駐車場だったが、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線開業時に製作された「沿線市町村ガイド」には、「車の移行ができない」と記されている。

 

「水谷不動尊」の扁額の鳥居をくぐると不動堂らしきものがある。この下の渓谷は堰が設けられている。最初の三の滝(丸淵滝・落差15m)には気づかず、二段になって落ちる二の滝(大タビ滝・落差24m)横に出る。轟音が唸り、滝壺(下段の)はどす黒く神秘的。滝壺に下りて行く道もある。

不動明王の磨崖仏がある筈の滝左手の岩盤を凝視して見るが、風化とシダや苔で全く視認できない。

 

二の滝上段の滝壺上に水谷不動尊の石仏が祭られている。石仏は平成に建立されたかのように新しいが、かつては祠が建てられていた。旧石仏は過去の豪雨で流されたのだろう。

祠の中に祭られていた頃、石仏に悪さをした者がいたらしいが、その者は急に身体に変調を来し、ここから一歩も動けなくなったという。

明確な道はないが、この石仏の下から上段の滝壺(上の写真)に行ける。

 

遊歩道の終点には、座るとズボンが泥だらけになるベンチが設けられており、一の滝(赤タビ滝・落差18m・上の写真と下の地図)の滝見台となっている。滝壺は広く、形がいい。旧案内板には滝の幅が6mと記されていたと思うが、瀑布は三条になって落下している。残念ながら滝壺に下りて行く道はない。

 

尚、この遊歩道、道に倒れ掛かった木を潜り抜ける箇所が複数ある。対岸にも石仏が祭られているのだが、水量が多いため、渡渉できない。

遊歩道入口まで戻ると廃線跡の東進を再開するが、ここからは未舗装となるため、更に廃線跡の風情が出てくる。

木の間越しに見える奈半利川は雨が続く梅雨にも拘わらず、川面は湖のように青味がかっている。

 

次の橋に来るとそこを流れる沢の上流を見てほしい。木々の間に滝が見えているのが分かる。踏み跡は不明瞭だが、ルートは左岸(西岸)にある。

踏み跡(殆ど見えないほど)の終点には倒木が折り重なって行く手を阻んでいるが、それを乗り越え、岸の岩場を適当に登る。すぐ百割滝が現れる。

 

写真では左側のメインの滝しか分からないかも知れないが、右側上流にも無数の大小の滝状激流があり、その眺めは壮観。まさに「滝の宝石箱」()。傾斜が比較的緩いため、何段になって落下しているのか分からず、滝壺は狭く浅い。

廃線跡については、平鍋ダムより先の水没具合を確認したかったが、時間切れで叶わなかった。

 

林鉄のネット未公表支線の廃線跡調査もしてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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初公開!司馬遼太郎が歩きたかった龍馬の板屋への道

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[国境付近には斬首された土佐人の墓が]

以前、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で述べた、坂本龍馬が高知県仁淀川町から愛媛県久万高原町へと抜けた松山街道(土佐街道)の内、土佐で最後の番所「橘番所」跡付近の街道を記事で紹介したが、県境から愛媛県側の街道について紹介したい。尚、「松山街道」とは、土佐から松山藩中心部へと抜ける街道の総称。「土佐街道」も同様に何種類も存在する。

 

4年ほど前、なぜ司馬遼太郎がこの街道に注目し、愛媛県側に実際に龍馬の滞在伝承のある旅籠(板屋→下の写真)跡が発見されたのか、ということについては解説したが、再度述べたい。

 

司馬は昭和中期、「竜馬がゆく」執筆にあたり、那須信吾が脱藩後に兄に宛てた書簡に記していた脱藩ルートを、龍馬の脱藩の道と推察し、高知県教育委員会に対して、そのルート沿いにある龍馬の滞在伝承地を調べるよう依頼した。しかし高知県側では伝承を採集することができなかった。

 

唯一判明したのが、土佐から伊予に入って最初の集落「岩川」(久万高原町中津岩川)にあった旅籠・板屋での止宿伝承だった。「竜馬がゆく」連載時、板屋跡には龍馬が使用した湯呑や盆が残っており、愛媛新聞も取材に訪れたという。

 

板の間が多かった板屋の当時の主人は亀井六蔵源茲平、久万山郷随一の豪商で、造り酒屋、うどん店、紺屋その他の店屋も営み、米、塩、魚、農具等も取り扱っていた。先祖には豊臣秀吉から文禄元年、琉球国を与えられ、徳川時代は鹿野藩主だった亀井茲矩や、その子で石見・津和野藩主だった政矩がいる。

 

現在残っている家屋は板屋だった建物のみで、六蔵の娘が分家してこの地の亀井家を継いでいる。しかし家自体は空き家で、住宅地図にも掲載されていない。その西の亀井家墓所を挟んだ西の家屋も空き家だが、ここは造り酒屋だった建物(上の写真)。しかし亀井家直系(本家)子孫が県外に移って以降、人手に渡った。

 

以前も述べたように、龍馬は宇和島等、短期脱藩を繰り返していたので、この岩川行きも他藩の情勢を探るためだったのかも知れない。若しくは、宇和島のケースとは違い、岩川は脱藩ではなく、藩に届けた正式な御庭番的密偵行為だったのか。東京空襲で「福岡家御用日記」が焼失されて以降、それを確認する術はないが。

 

松山街道上り口は板屋跡のやや南東にある(三枚目写真)が、辿ったとしてもすぐ畑の柵で通行不可となり、道も消滅する。故に国境まで達する街道が残るルートの登山口を解説する。国道33号のバス停「岩川」から歩けない距離ではない。高知方面から向かう場合、そのバス停西の谷を越えると入口に「民泊・天辺」の看板のあるY字路があるので、その狭い道路を上がる。天辺側にある富田神社は後述する同名神社を下ろしてきたもの。天辺を過ぎて以降、適当な路肩に駐車する。

 

すぐ三差路に至るが、ここを西に行った、最初に現れる家屋が板屋跡。松山街道へは逆の南東へ進む。左上に二軒の小屋が現れるが、恐らく松山街道上に建てられているものと思われる。そのため、前述のように柵が設けられているのである。

 

二軒の小屋を過ぎると右手に林道が分岐しているが、これが街道である。林道に入るとすぐ左手に四国電力の鉄塔巡視路が分かれるが、これは街道をそのまま利用している。

そこからほどなくして、なぜか巡視路道標が本道ではない左手の道に建てられている。山手を見ると巨大岩盤が見えているが、この岩盤沿いは「岩川地四国(ミニ四国霊場)」(4枚目写真)の参拝道。

 

その参拝道は帰路辿ることにし、急勾配の本道をそのまま辿る。

最初の鉄塔下が伊予と土佐との国境だが、峠らしくない。街道の最高所は557m峰南東の鉄塔下である。街道は地形図(柳井川)には、橘からその最高所付近までは描かれているが、そこから愛媛側の登山口までは描かれていない。

 

県境の東の谷(上の地図とその上の写真)には前述の富田神社の元の社が未だ鎮座している。名称は神社だが、これは墓に祠を被せたもの。祭神は土佐市宇佐の行商人・吉田富太郎。富太郎は弘化4年、愛媛県旧美川村の庄屋の分家の未亡人、船田以恵に結婚を申し込んだが、本家庄屋の船田氏が身分不相応としてこれを許さなかったため、富太郎は逆上して以恵とそこの家人を殺害してしまう。

しかし富太郎は逃走中に捕縛され、両国200人余りの見物人のいる中、現在の神社が建つ地で斬首されたのである。

 

街道は最高所を越えると巡視路ではなくなるため、道がやや荒れてくる。途中、折れた木が倒れ掛かっている所に石仏が祭られている(下の写真)。「七社神社」と刻字された手水鉢があることから、かつてその北にその名の祠があったのかも知れない。

植林帯が途絶えると街道はヤブに覆われ、通行不可になる。

 

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龍馬は何のために土佐市の新居坂(宇佐坂)を通ったのか

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[ジョン万次郎が通った記録はあるが]

高知県土佐市新居の本村トンネル北口東側には、宇佐坂(新居坂)津波避難所の看板があり、その先のY字路の古道入口には、この古道を坂本龍馬やジョン万次郎が通ったと言われている旨の朽ちた看板が立てかけられている。万次郎がハワイで暮らしていた宇佐出身の仲間と共に嘉永5101日、ここを通ったことは河田小龍の『漂巽紀略』から読み取れるが、龍馬が通った記録はない。

 

宇佐坂は遍路道でもある塚地峠の別称でもあるため、混同されがちだが、こちらの宇佐坂は古文書等に「新居坂」と記されている坂道の方。以前、「再否定!坂本龍馬脱藩の道須崎廻り説」(左サイドバーにリンク[須崎廻り説の徹底考察])の記事で解説した、高知市春野町を走る土佐西街道から分岐して弘岡番所(下の写真が跡地)、十文字の渡し、上ノ村、山ノ神集落を経由して取付く峠道。最高所の峠は「土佐のマイナー山part2」で解説した、黒岩山北の切通し部。

 

ジョン万次郎自身は帰国後、土佐藩での取り調べを終えて故郷の土佐清水へ帰るなら、土佐西街道を西進するのが最短ルートだが、共に難破してアメリカへ渡った宇佐出身の森田筆之丞・五右衛門兄弟が一緒だったため、こちらのルートを選んだのである。新居坂は新居と宇佐を結ぶ往還である。故にこの峠道を高知方面から辿るとしたら、宇佐か横浪半島方面に用事がある、ということになる。

 

例えば「郷士年譜」によると、宇佐には海防のための駆付郷士が3人いた。龍馬も種﨑砲台で訓練した経験があることや、勤王思想を説くために彼らその他の郷士らと交流したのだろうか。

 

或いは新居坂の峠から黒岩山を経て、立石集落に下りる道があったことから、立石隣の台場地区にあった新居砲台(「四国の戦争遺跡ハイキング」参照)を見学しに行ったのだろうか。

それとも、山陽や関西、東海地方等で修行を重ね、博学でもあった宇佐の真覚寺の井上静照住職に京の政治情勢等を伺ったのだろうか。

 

前述の津波避難所(上の地図は古道入口)は本村トンネル上部を通り過ぎてから、左手の階段を上がった先にあり、土佐湾方面に展望が開けている。

土佐の幕末史ファンなら、本村トンネル近くの山に、ある志士の墓が建っていることはご存知のことと思うが、その志士の墓碑銘は、山口市嘉川の明正寺で窪田真吉 (真田四郎)を見殺しにし、後に海援隊士となった志士の妻によるもの。先月、四万十町教育委員会で講演した窪田真吉列伝はいずれ記事として投稿したい。真吉を明正寺で見殺しにした他の土佐浪士全員の関連地も探訪済。

 

ところでなぜか前述の森田筆之丞・五右衛門兄弟の墓は看板が設置されているにも拘らず、ネットでは出てこない。場所は以前摩崖仏を紹介した、塚地峠の萩谷登山口に近い所。探訪時、車は安政地震碑のある広場に駐車する。そこから萩谷川沿いを下って二つ目の橋を北に渡る。前方には墓地が見えているが、そこは常楽寺跡。上って行くと左手に看板が現れるから分かる(下の地図)。

 

難破してジョン万次郎と共にハワイへ渡った森田兄弟だが、渡航した当初は「森田三兄弟」だった。重助という兄弟もいたが、鳥島での足の怪我が元でハワイの地で亡くなった。筆之丞と五右衛門はホイットフィールド船長の友人である宣教師の計らいで小さな住居や当面の生活費、耕地を与えられ、万次郎が迎えに来るまで暮らしていた。

 

『漂巽紀略』によると、筆之丞と五右衛門が宇佐へ帰ってきた際、既に住居は朽ち果ててなくなり、跡地も分からないほどだったという。それでも親類の家に寄宿し、これまでの艱難辛苦を集まった親族一同に語ったという。が、二人は他国へ出ることを禁じられたばかりか、漁をすることまで禁止され、藩から扶持を受けて細々と暮らしたという。筆之丞は元治2年、五右衛門は安政6年に没している。

 

ところで万次郎ら5人が「運命の」延縄漁に出るため、天保1215日、出航した地についてだが、以前は萩岬西の土佐のかつお節発祥の地碑横に案内板が出ていたと思う(案内板の場所は当方の勘違いかも知れないが)。現在はその西方の宇佐しおかぜ公園下り口に石柱が建つのみ。しかし正確な船出の地は、そこより北西の宇佐漁港内(上の写真)だったと言われる。

 

土佐での逸話や長州での活躍を語る「窪田真吉列伝」に期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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真実のよさこい伝説紀行(10・特別編)

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純信、お馬、慶全による幕末の恋愛スキャンダル「よさこい物語」を取り上げた本シリーズは4年前、完結したが、その時のシリーズで取り上げなかった香美市の二ヶ所の史跡を紹介したい。

 

(1)  吉祥寺跡(土佐山田町楠目談議所)

純信は五台山竹林寺脇坊・南ノ坊住職になる前の弘化年間頃、浦照山成就院吉祥寺の住職になっていた。この寺には純信の弟・松蔵(江渕六弥)が寺男として勤めていたから、その縁もあってのことかも知れない。が、松蔵は嘉永元年7月、物部川で泳いでいて溺死している。

 

松蔵の墓は平成初期頃発見されたが、その墓石に「戸波郷市野々村江渕要作躮(みわけ=せがれのこと)吉祥寺現住純心

 

 

 

 

ママ)松蔵字されてあったことから、なくとも嘉永元年には吉祥寺住職だったことかる

 

安政2519日、純信はお馬と共に脱藩する際、この吉祥寺に寄って、人夫兼道案内として地元の安右衛門を雇っている。

吉祥寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、境内の西隅に辛うじて観音堂だけが残っている。その下に松蔵の墓がある。吉祥寺本堂跡(下の地図)は田圃になっている。

 

ところで、寺跡の探訪だけでは物足らないため、そこから北東にある雪ヶ峰城跡を徒歩で回遊してみた。この城跡は昭和期の文献では土佐山田町指定史跡と掲載されていたが、各郭はヤブに覆われている。それでも深さ5m以上の堀切が残っており、それについては見応えがある。

 

雪ヶ峰(86m)に築かれたこの城の城主は山田元義の家臣・山田監物。主君に代わって長宗我部軍と戦い、討死した。

詰ノ段の北と南に郭を擁し、北端に轟神社が建ち、その北に前述の堀切がある。

 

コースとしては、本堂跡田圃の畦を北東に辿って道路に出て南東に下る。すぐの三差路は北東に折れる。次の三差路は右折、その次の三差路は左折し、廃墟化しつつある研究棟沿いを北東に進む。

 

次の三差路に突き当たると、下にカーブを描くコンクリート歩道が見えるので、これを辿る。

道はすぐ轟神社の参道に出るので、これを上がる。

左手に水路道が分岐する所の少々手前に、南東に上がる踏み跡が現れるが、これを上がると詰ノ段に登ることができる。

 

詰ノ段と周辺の郭を確認すると参道に戻る。

水路道分岐の少々先には水路隧道「神泉隧道」が開口している。

参道の最高所が前述の堀切で、その先に下ると神泉隧道の出口がある。

 

帰路は前述の水路道を行く。この道は大きくカーブを繰り返して道路に出る。これを下って行くと往路の研究棟沿いの三差路に戻りつく。

尚、吉祥寺跡の最寄りのバス停は「山田堰」。

 

(2)  笹番所跡(物部町笹土居番)

純信とお馬が讃岐・金刀比羅宮一の坂の旅籠・高知屋で捕縛され、土佐に護送後、城下の山田橋番所で取り調べを受け、山田町奉行・松岡毅軒から判決を言い渡されるが、その判決文書の中に「笹口御境目潜出」という記述がある。これは二人が笹村の境目番所「笹番所」を抜けて阿波方面へ脱藩したことを意味している。

 

笹番所は藩政時代初期、仮番所として設置され、寛永6(1629)、本番所となり、明治4年に廃止されるまで代々西尾氏が番役を務めた。西尾氏は昭和末頃までこの地に在住していたが、現在、廃屋となった家屋や便所、井戸等が残る中、一際目を引くのが白壁の蔵。かつてはこの中に刀や槍、鉄砲、弓矢、サス又等が収納されていたことだろう。

 

屋敷跡の石垣沿いの小径を北に進めば、左手に両側が高い石垣で覆われた道が分岐するが、この道の北側に、平成13年に屋根の葺き替え工事が行われた観音堂が建つ。県の文化財に指定されても可笑しくないほど貴重で重厚なものだが、完全に忘れ去られた観がある。

 

笹番所跡(下の地図)については県道49号沿いに案内板が建っているが、現在、それは錆び付いて文字が見えない。目印になるのは「笹休暇村直売所」。この斜め向かいの入口に掲示板が建つ、コンクリート車道を上って行った終点に番所跡がある。

因みに直売所の少々手前の南側に、茶色い斜めの屋根が印象的な建物があるが、これは廃業した「笹渓谷温泉」。

 

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私の唯一の自作演歌歌詞

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昨夜、テレビ番組「あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル」で作詞家・阿久悠を特集していた。いつもながら、昭和には情感豊かな歌が多かったなと思う。

当方も昭和60年代から平成初期、「日本レコード制作協会」会員として、会誌に毎号、自作の自由詩や歌謡詩、童謡詩を投稿していたが、その中で唯一、演歌詩があった。昨夜の番組にも出演していた八代亜紀をイメージして作った歌詞である。

 

【海は荒波恋模様】(昭和62年作)

(1)  岬の明かりゆらゆら

悲しく揺れて 海を照らします

波は荒れています あのように

私の心熱くして

二人で歩いた 白い砂浜

思い出だけが埋もれてます

忘れることがなんてことね

想いは募ります 海深く

 

(2)  叶わぬ恋と知って

悲しみくれて 海を見つめます

波は荒れています いつの日も

私の涙 飛び散って

二人で語った 明日の幸せ

語り切れない 未来の夢

信じていたのが辛くなる

想いは捨てます 海の底

 

(3)  我慢できなくなって

悲しみ増して 海に向かいます

波は荒れています いつまでも

私の中に残ります

二人の愛したこの海までも

二人の心を包めません

帰りたいのに帰れない

想いは砕かれて 海の泡

 

当協会の会長が演歌のプロの作詞家だったため、寄稿される歌謡詩や曲は演歌が多かったように思う。しかし今思うとこの歌詞のタイトルはダサい。

 

阿久悠は昭和のナンバー1作詞家だが、番組で彼の著書に書かれていたことを紹介されるのを聞く限りでは、大御所とは言え、他ジャンルの歌詞と自身の歌詞との比較は客観性に欠いているように思えた。

 

阿久は著書でフォーク界のシンガーソングライターや女性の作詞家に「嫉妬」(阿久自身の表現)していたということだが、作詞しか行わない作詞家の歌詞はいい意味でも悪い意味でも「作り上げられた歌詞」。それに対してシンガーソングライターの歌詞は自身の「感性の歌詞」。歌い手や曲にもよるが、聴く側に共感を呼ぶのは、後者の方が多いのではないだろうか。それは歌謡曲とフォークとの違いでもある。

 

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番組で紹介された歌の中で当方が最も好きだったのは、かつて「自分のテーマソング」とも思え、カラオケで必ず歌っていた河島英五の「時代おくれ」。英五自身はシンガーソングライターだが、歌自体は哀愁のある「フォーク歌謡」。

 

また、番組で紹介され、歌手がその場で歌った歌の中で一番気分的に盛り上がったのはささきいさおの「宇宙戦艦ヤマト」。編曲がオーケストラ風だが、作曲者は現代クラシックや合唱曲を手掛けるオーケストラ畑の者。

番組の最後に紹介された沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」は、唯一、私と母(大正生まれ)が共に好きだった歌。母は私のレコードをよく聞いていた。

 

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陸軍野砲トーチカと門型トーチカ(南国市)

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(1)  蔵福寺島トーチカ

南国市教育委員会が発行している掩体やトーチカ等戦争遺跡のリーフレット「掩体は語る」は何年かおきに改訂されているもようで、最新版には物部川沿いの蔵福寺島に残る「蔵福寺島トーチカ」が掲載されている。

 

南北に長く、南面に砲口、北面に出入口があり、側面は川石を貼り付けて偽装している。南北に長いのは、中に野砲を据えていたため。これは米軍が舟艇で物部川を遡ってきた時のために築造したもの。

 

戦後は農作業倉庫として使用されていたが、今は入口付近にクモの巣が張る等しているから、元の地権者は他界しているのかも知れない。

現在、数匹の野良猫が根城にしているが、人馴れはしていない。

トーチカの前に駐車スペースあり。

 

(2)  峰寺トーチカ

四国八十八ヶ所第32番札所・禅師峰寺(ぜんじぶじ)に上がる車道沿いに「峰寺(みねんじ)トーチカ」はある。道路に対して斜めに設置されてあり、東側は斜面に埋もれている。横幅3m少々、奥行1.5m、高さは2m半ほどの規模で南面に銃眼があるが、門のようになっており、銃眼から裏へ通り抜けられる構造になっている。

 

ここに展開していた部隊はブログや著書でも解説した、十市の栗山トーチカ群や片山鏡岩の片山トーチカ群で防備についていた陸軍第55軍第11師団43連隊。

禅師峰寺から栗山城跡、小南山にかけての尾根には夥しい数の塹壕や蛸壺壕跡があることは分かっている。

 

最新版の「掩体は語る」には他の地区にある未探訪の山中のトーチカも図示されているが、地図の縮尺が5万分の1のため、机上では同定できない。しかし丸一日かけて山中をくまなく探索すれば、探し出すことはできるだろう。が、現在、四半世紀以上確認されていないある山中の摩崖仏や新たな四国最大の滝と成り得る滝のルートを探索中である。

 

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廃線跡上の真の四国最大の滝・赤滝は探訪不可か(本山町)

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[落差は150mを優に超える]

かつて「探訪できる」四国一の滝・高瀑(たかたる・132m)を解説したが、武市伸幸氏の著書で「落差約60m」と記述されていた高知県本山町の赤滝が、実際の落差は150~200mあることが滝の展望所に立って実感できた。高瀑を超えているのは一目瞭然で、役場に問い合わせても「見た目は100m以上ある」とのことだった。

 

滝は清流・汗見川支流、桑ノ川のそのまた支流の断崖に懸かっており、滝の展望所は対岸の桑ノ川林道にある。展望所付近も断崖で桑ノ川は峡谷と化し、一見すると対岸の滝壺付近には近づけなさそうに思えるが、滝の支流のある対岸には植林もあり、赤滝下方を林用軌道(森林鉄道)廃線跡らしきものも通っている。この軌道の鉄橋(下の写真は跡地の橋台)が残っていれば簡単に対岸に渡れるのだが、飛び石に利用できる川石もない。

 

赤滝展望所(下の地図)に一番近い民家(普段は空き家同然)70代位の女性に尋ねてみると、その方がこの家に嫁いできた昭和48年時は、対岸に架かる歩行者橋や渡渉できるルートもあったというが、後者のルートは廃道化していた。

森林管理署に問い合わせても、赤滝を含む林内で造林事業は長らく行っていないため、ルートの有無は分からないという。

 

尤も、足を濡らせば対岸に渡渉することは可能。対岸にはなだらかな箇所もある。登山靴からウォーターシューズに履き替え、膝上まで川に浸かって渡渉すればいいのである。しかしそんな「面倒な滝」を紹介しても、探訪したいと思う方は少ないだろう。もう少しルートは探ってみたい。

 

ところで汗見川沿いを車で通ったのは、拙著で「土佐のマッターホルン」と評した大登岐山(天狗岳)に登った’00年以来だが、改めて川の美しさに驚かされる。至る所で川遊びをする子供や家族連れを見かける。

 

汗見川は三波川帯の30種以上の変成岩類が存在する地質学上で貴重な場所。中でも巨大な亀の形をした巨岩「亀岩」(上の写真と下の地図)付近は「四国のみずべ八十八ヶ所」の一つにも選ばれている景勝地。亀岩の対岸側を流れる流れと、その反対側の滝状の流れがあり、後者には滝壺のような甌穴が形成されている。

 

赤滝へ渡れる渡渉ルートを探し出して早く公開してほしい、と言う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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発見!落差200mの四国最大の滝探訪ルート

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[ネット初公開ルート

前回の記事で述べた高知県本山町の赤滝だが、展望所からは全体像が見えない。展望所から見える範囲の滝の落差だけでも、これまで四国一と思われてきた高瀑を超えているが、まだ瀑布は下に続いており、最下段の飛瀑を合わせると高知新聞社刊の「滝をゆく」に掲載されていたように、落差は約200mとなる。

 

以前触れた西日本一ではないかと思われる奈良県の中ノ滝(245m)はロッククライミング経験者でないと探訪できないと言われているため、装備なしで探訪できる滝としては、西日本一になる可能性がある。その探訪ルートを先日、見出したのである。

 

桑ノ川の対岸への渡渉地は前回触れた林用軌道(森林鉄道)の鉄橋跡のやや手前にあった。

まず、桑ノ川林道(桑ノ川橋が起点)からその地への下り口を説明しよう。林道沿いの最奥の集落は瓜生野の桑ノ川集落だが、現在、民家は二、三軒しかなく、常時居住している人家は一軒しかない。しかしその居住者は出身や育ちは他所。

 

最奥の人家と畑を右手下に過ぎると、緩い右カーブの谷部となり、そこで舗装道は終わる。その先のカーブミラーの建つ左カーブ路肩(上の写真と下の地図)に駐車する。カーブミラー先の路面の路肩は水切り溝のようになっており、そこから下の植林帯には、ピンクのマーキングテープが点々と続いている。林道から見下ろす限りでは、踏み跡があるように思えないが、これは森林組合が利用している作業歩道なのである。尤も、廃線跡を少しでも長く歩きたければ、最奥の人家裏から下りれば良い。

 

作業歩道はピンクテープの先導がないとルートが分からなくなるほどの獣道程度だが、最初は尾根を下り、その後、西の斜面に移り、右に折り返して下り、廃線跡に下り立つ。そのやや東は桑ノ川川側が崖になっており、川面を見下ろすことができるが、そこから渡渉ルートが見えている(下の写真)。

 

廃線跡からは足場の悪い箇所を下りて行く。踏み跡はないに等しい。渡渉ルートには一応、川石が対岸へと続いているが、どれも斜めで、濡れている石も多く、普通に足を置くと滑る。そこで思案した挙句、1020㎏ほどの河原の石を二、三個、手前の方に放り込んだ。そして自然の飛び石に両手両足をつき、スパイダーマンのように渡渉して行った。これならば石が濡れていても滑ることはない。

 

トレッキンググローブは濡れたが、トレッキングシューズの上には登山スパッツ(ゲイター)を装着していたため、何とか靴の中に水が入ることはなかった。

尚、前回記したように、膝まで水に浸かってもいいのであれば、廃線跡を鉄橋跡のやや手前まで進み、そこから渡渉すれば時間を多少短縮できる。

 

対岸に渡るとやや下流側の庇状の長岩から植林帯へと這い上がった。最も川寄りには踏み跡もある。岩に突き当たると踏み跡は途絶えるが、斜面を少しだけ上がり、再び上流へと向かう。

 

踏み跡がなくとも、川寄りの所に歩き易い箇所がある。桑ノ川川は所々エメラルドグリーンに透き通っている。

記憶が定かではないが、鉄橋跡の手前かすぐ先の植林帯には土砂崩れ跡が広がっていた。そこは下方の伐採跡が残る平地に下りて進む。

 

鉄橋跡からは廃線跡を歩くことになるが、軽快に歩けるのは最初だけで、至る所で土砂崩れや路盤の崩落を起こしており、上り下りが頻繁に続き、体力が消費される。

地形図上の地形と実際の地形が異なっている箇所もあり、現在地確認がし辛い。平成18年発行の「佐々連尾山」では、鉄橋跡の北西に石旅山から伸びる支尾根が張り出しており、水線も曲線を描いているのだが、実際は直線に近い。これは昭和43年に竣工した砂防ダム工事時に、尾根が削り取られたものと思われる。地形図の測量は昭和42年である。平成18年に更新はされているものの、道路以外の部分は殆ど更新されていないのではないかと思われる。

 

そのダム手前は深い渕になっているが、ここが赤滝展望所の案内板に記されていた、高橋兵庫守という落人が京から来た追手100人を斬り捨てた「百人渕」かも知れない。

廃線跡の路盤が消失し、河原の岩場を一旦歩き、再び岸に上がると赤滝の懸かる支流はもうすぐ。

 

鉄橋跡の橋台も消失した沢の奥に赤滝最下段の瀑布が懸かっている。これが展望所からは見えなかった部分の滝である。水量は少なく、岩肌を滑るように落下しているが、滝風は吹いているから心地良い。滝壺も一応あるが狭く浅い。

東岸の袂には石段があり、石垣が築かれた平地に続いているが、ここは昭和40年代まで祀られていた「赤滝様」という祠跡だろう。歩行者橋が豪雨で流失して以降、祀るのをやめたのだろう。

 

赤滝を探訪した前日、「百神の滝(百間滝)」に似た滝を擁する愛媛の渓谷を2時間かけて登ったのだが、また機会があれば紹介したい。

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愛媛県一フォトジェニックな滝・機滝と皇子渓谷

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[百神滝と酷似した機滝]

以前紹介した四国一記念撮影に適した滝・百間滝(百神滝)に酷似した滝が愛媛県四国中央市の赤星山(1453.2m)登山道の一つにある皇子渓谷に懸かっている。この渓谷は伊予風土記によると、斉明天皇が道後温泉に行幸された際、天皇の皇子で後の天智天皇が訪れたとされている。

 

渓谷は結晶片岩からなり、所々岸は切り立っており、無数の滝を懸けている。その中に六つほどの顕著な滝があり、最上部の滝は大雨時には三ヶ所の瀑布が一つになり、落差70mほど(高度計での計測)の大滝となる。その70m時の天辺の高度(標高970mほど)と登山口との高度差は650mほど故、全ての滝を巡るには2時間以上要する本格登山となる。

 

この渓谷は松山自動車道土居ICからのアクセスが良い。ICを降りた所の信号交差点を西に折れて一つ目の信号交差点を南に折れるだけ。後は一直線に進むと四国のみちの道標等が登山口まで案内してくれる。ただ、登山口駐車場にはトイレがないので、女性はどこかで済ませておく必要がある。

 

駐車場に至るまでの間、渓谷を整備した方の顕彰碑から数百メートルほど南下した所の大地川(上流が皇子渓谷)に小さな滝が連続する樋瀉渕があるはずだが、特に案内板は建っていなかった。

 

登山口(上の地図)には赤星山登山者用の登山ポスト(登山届投函箱)があるが、ここから赤星山に登ろうと思えば3時間半以上かかることだろう。因みに当方は鋸山から七々木山、豊受山を縦走して赤星山に登頂したことがある。(東部法皇山脈縦走)そのコースでは二ヶ所にカタクリの花の群落がある。

 

大地川は登山口から既に渓谷状になっており、何度も丸太を組んだ木橋で左右岸に渡る。滝状の流れも多く、水は澄み切っており、標高が低い割に涼しい。かつて標高400数十メートルの中千本と呼ばれる所にトイレがあったようである。

 

最初に現れる滝は無名の滑滝で案内板の設置はなく、標高490mほどの左カーブ奥に懸かっている。

二番目の滝が渓谷随一の美しい滝で、百神の滝に酷似した愛媛県一フォトジェニックな滝・機滝。落差も百神滝と大差ない17m。右側の瀑布が幅広で、左側の瀑布(下の写真は天辺)がスリムという所や、両滝の形状、滝の懸かる岩盤の形も殆ど同じ。

 

百神滝と異なる点と言えば、左右の滝間の距離が短く、谷の幅も狭く、広い河原状の箇所がない、という所。滝壺付近の岩石が濡れて滑り易いため、記念写真を撮りにくい点も百神滝とは異なる。

また、百神滝が左右それぞれの瀑布の天辺の川床に簡単に立つことができるのに対し、機滝は右側の瀑布天辺には立ち辛い。ただ、左側の瀑布の形状は機滝の方が優れている。それは上部で4条の流れが一つになっているから。

 

機滝のすぐ上流には紅葉滝(上の写真)が懸かっているが、こちらは落差、水量とも機滝よりあり、迫力の飛沫を上げている。

地形図(東予土居)には唯一、標高580m地点に滝マークが記載されているが、ここに懸かっているのは滑るように流れる布引滝。こちらも落差は20m弱ほど。

 

コースは布引滝横の岩盤を、鎖を掴みながら登るが、帰路は滑り易い。もし足を滑らせ、自重に耐え切れず、鎖を放した場合は落命する可能性がある。

滝の天辺(上の写真)横辺りだったと思うが、山側の岩が苔に覆われ、無数の雫が落ちている。これを「玉簾」(下の写真)と言う。

布引滝上流左岸の岩盤は不動大岳という。その上流辺りの稲妻滝には気づかなかったが、恐らく落差が10m未満のため、滝と認識しなかったのだろう。

 

地形図の破線が渓谷を離れる地点は道標の建つ三差路となっている。渓谷沿いの道は踏み跡程度になる。ここから次の千丈滝までは距離がある。眠剤の副作用で足に力が入り辛い当方にとっては辛い上りである。

 

標高900mほどの地点に案内板が建つ最後の滝・千丈滝が懸かっている。落差は渓谷中、最もあり、20数m位だろうか。そのやや上流と最上流の標高970m地点にも小ぶりの滝(下の写真)が懸かっているが、大雨時はこの三つの滝が一つになる。

当方は薬の副作用もあり、ここから引き返したが、帰路は苔等で滑り易い箇所が多いため、一旦更に登って赤星山登山道に合流後、その道を下りた方が良い。

尚、この皇子渓谷はこの夏(8)の探訪地の中ではベスト1

 

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日本一の水質・面河川源流の落差102mの御来光の滝へ

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愛媛県久万高原町から高知市へと流れる四国屈指の大河・面河川(仁淀川)が国の検査で日本一の水質に認定されたことは以前述べた。面河川は愛媛・高知県境からやや西方の河川管轄が変わる箇所で仁淀川と名を変える。

 

一般観光客が探勝できる面河川の最上流部は四国一の渓谷・面河渓だが、登山愛好家や沢登り愛好家は源流域に懸かる愛媛県第三位の落差を誇る巨瀑・御来光の滝まで行くことができる。現在は降雨が少ない日が続いているため、水量は少なく、滝の真下に立つとミストシャワーを浴びることができ、気持ちいい。

因みに昭和期、御来光の滝の落差は87mとされていたが、「日本の滝百選」選定時、計測し直されたのかも知れない。

 

御来光の滝探勝路は面河渓の上流にあるため、当然そこに至る川は渓谷状となり、甌穴や複数の滝もあり、水は「仁淀ブルー」ならぬ「面河ブルー」で美しい。ただ、現在の9月上旬は日差しが強く、且つ、木陰が川面に映っているため、きれいな写真は撮り辛い。

 

そんな滝だが、昭和後期までは面河渓から探勝路が続いており、ハイカーや体力のある行楽客でも探勝することができた。が、その後、度重なる台風や砂防ダムの建設等で2kmほどの区間の探勝路が消滅や廃道となっている模様。現在の探勝路起点は石鎚スカイライン沿いの御来光の滝展望所(長尾尾根展望所=上の写真はそこから見た御来光の滝)で、そこから北東約200mの地点の右カーブに建つカーブミラー部(下の地図)が川への下り口になっている。そこから高度に於いて300m急下降する訳だが、帰路は身体に堪える。

 

急勾配の尾根には「踏み跡」というよりは立派な登山道がついており、スズタケのヤブはきれいに刈られ、所々ロープも張られる等、完璧に整備されている。

登山道は川の砂防ダム側に下り、そこから左岸沿いを少し遡った後、渡渉する。進路には赤テープやピンクのマーキングテープが付けられているので、迷うことはない。

 

最初に現れる景勝は地形図にも記載されている七釜(上の写真)。ここは七つの甌穴が連続している所で、各甌穴は滝状の流れで繋がっていることから、「七釜滝」と呼ばれることもある。付近の川床は「千畳敷」と呼んでもいい位、平らで広大な岩肌が広がっている。

 

二番目の見所「犬吠谷出合の滝」(下の写真)と三番目の見所「魚止ノ滝」(本流の滝で地形図にも記載あり)は、探勝路からでは木々が邪魔になり、写真には収まりづらい。その付近の探勝路はやや高所を通っているため、よく見ようと思えば木々に掴まりながら斜面を下りて行かなければならないのだが、御来光の滝まではスカイラインから3時間はかかると見ていたため、横目で通り過ぎる。尚、「犬吠谷出合の滝」とその上流に懸かる「犬吠の滝」を混同しているブロガーが殆ど。

 

南沢(南尖峰南方の谷)出合の滝は斜めの岩盤を流れる落差数メートル程度のもので、そこを過ぎるとほどなく両岸が切り立ったV字峡の「石門」(下の写真)が現れるが、この手前が最後の渡渉地。

ここから先、地形図を見ても探勝路上の斜面が急峻になっていることが分かるが、いくつもの支流を渡渉する際、ロープを掴みながら傾斜のある川床岩盤を渡って行く。途中の石鎚山面河コースへ連結する道の分岐には気づかなかった。

 

展望所駐車場から弁当やドリンク休憩を入れて約3時間で御来光の滝に到着。てっきりかなり手前から轟音が轟いているだろうと思っていたものの、今の時期、水量は少なく、視認するまで滝の存在に気づかなかった。

 

巨大な安山岩を斜めに走る柱状節理の岩盤から滝は落下しているが、展望所から遠望できた全景は拝めず、下段の滝しか見えない。滝壺もなく、周辺にミストシャワーとなって飛散している。それでも巨瀑であることには変わりないので、3時間かけて来る価値はある。

 

当方はよく滝の下付近の岩に寝そべることがあるが、帰路もコースは起伏があり、最後には高低差300mの上りがあり、且つ、石鎚スカイラインのゲートが18(9月からの時間)に閉門されることから、長居はできない。その高低差300mは帰路、何とか1時間で登り切ることができた。

 

因みにこの翌日は土佐清水市の波打ち際に落ちる滝を探訪した。規模は武市伸幸氏が著書で紹介している市内の同様の滝の半分以下だが、その滝よりも波打ち際に近いため、その意味では探訪のし甲斐がある。そして四国のみちを繋ぐ回遊ルートも見出した。来週以降に紹介したい。

 

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謎の隧道から滝が!土佐清水市の海岸段丘滝群

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[素掘り隧道滝から落差30mの滝まで]

以前、素掘り隧道から落下する滝として松山市の不動滝、海岸段丘滝として徳島県牟岐町の白滝等を紹介したが、海岸段丘にある素掘り隧道から落下する滝が高知県土佐清水市の足摺半島にある。武市伸幸氏の著書に掲載されている落差30mの千万滝の滝壺に向かう途中にある、砂浜に落下する滝である。隧道と滝の規模は不動滝の半分以下だが、隧道内に入ることができ、滝の天辺から海を見下ろすことができる。

 

それらの滝は大谷地区にあるのだが、そこに行く前、布地区にも小さな滝があるのでそれから紹介したい。アプローチはまず、四万十市間崎で国道321号から県道343号に左折する。尚、以前も解説したように、高知市方面から土佐清水に向かうには、黒潮町の道の駅ビオスおおがた裏の道路、若しくは下田ノ口で県道42号に左折後、広域農道を辿って四万十大橋を渡り、国道321号に出れば、信号も交通量も少なく、オービスもないので早く到達できる。

 

県道343号は途中で市道に変わる(現在は県道のままかも)が、土佐清水市に入ると再び343号となる。が、立石集落でまた市道に戻る。集落に入って右手に最初に現れる民家(立石八幡宮手前)前のY字路を左に折り返すのだが、この道は対向車が来ると退避できないので、一旦立石川橋を南に渡って適当な路肩を探して駐車し、引き返した方が良い。その道路は帰路、辿ることになるので歩きのロスにはならない。

 

前述のY字路よりの道路終点(上の地図)から浜に下り、南下して行く。立石川河口は砂浜によって堰き止められ、池のようになっている。最初の谷(立石川支流を除く)入口の岩場には雨後や長雨時期、小さな滝が懸かるが、これは通称「コウラの滝」(2枚目の写真)。

 

道路終点から30分ほど南下した地点にはコウラの滝よりも絶壁の「長谷の滝」(上の写真は下滝)が懸かっている。但しこれも落差は10m以下で水量も極めて少なく、滝壺も猫の額ほどで、水流も波打ち際に達する前に伏流になっていたと思う。

 

滝の左岸(北岸)から滝の天辺に上がれる(上の写真)が、そこに上がるとすぐ上流にもう一つの滝(下の写真)がある。先程の滝とこの滝を合わせて長谷の滝という。上段の滝は景観的にもっと滝らしい。

ここから来た道を引き返すのでは面白くないため、回遊する。上段の滝から更に上に踏み跡が続いており、沢が分岐する箇所の上方にロープが垂らされているので、それを掴んで尾根に上がる。

 

その後、作業車道に出る。いくつか分岐があるが、「上り」の道を選ぶ。しばらく進むと小屋が複数ある畑に出て、西に進んで行くと四国のみちの道標が建つ林道(地形図では破線)に出る。ここは144m三角点峰の南東にあたる。後はこれを北に下って行くと立石集落に戻りつく。途中、太平洋の展望が開ける箇所がある。

 

次は車で足摺半島東部海岸の大谷地区まで移動する。当方は武市伸幸氏が著書の千万滝の項で紹介していたコースを往路下りたが、その駐車場所(上の地図)は一台分しか駐車スペースがなかったため、お勧めできない。駐車するなら県道27号の大谷西口バス停から南方の適当な路肩が良い。

 

武市氏のコースは、田中たばこ店跡(道路縁にたばこの看板が立てかけられている)から南に二本目の車道の三差路を東に折れる。この道は更に分岐を過ぎると未舗装の悪路になる。道が左急カーブになった地点の右手に浜への小径が下りている。

 

浜に下り立った地点の南側には堤防跡があるが、ここは港跡。この堤防付け根に隧道から滝が落下している(上の写真)。落差は10m未満だが、水量は多く、水流は海へと流れ込んでいる。

当初、隧道に上がる道の存在を知らなかったため、もう一つ南の谷に懸かる千万滝へと向かった。千万滝は流石に落差が30mもあるため、見応えがある。上の写真で見るよりも水量はあり、浅い滝壺を経て水流は海へと注ぎ込んでいる。武市氏がこの滝の存在を’90年代初頭までに把握していれば、間違いなく「こうち滝100選」に収録していたであろう名瀑である。

 

ここより南方にも滝はないものかと、浜を流れる音無川(上の写真)を渡渉して行ったが、落差3mほどのものや、激流の沢(下の写真)があった位。

帰路は音無川右岸の道を登って県道27号に出たが、皆さんは前述の堤防の付け根に上がり、そこから続く道を登れば良い。

 

ほどなくその道は沢を木橋で渡るが、その橋の下に隧道が開口している。しかしなぜこんなすぐ浜の上に隧道を掘ったのかは謎。港に至る道が沢の出水で崩れないようにしたものなのか。

隧道内は増水していなければ短靴でも歩くことができ、滝の天辺から海原を望むことができる。但し、スタンス(足の置き場)とホールド(手掛かり)は慎重に。

 

道に戻って上りを再開すると、滝状の流れを経てまたもや直瀑の滝(下の写真)が現れる。落差は十数メートルで滝壺の形もしっかりしており、景観的には山中の滝と変わりない。この滝も名称がついていないようなので、「大谷の滝」と仮称したい。先程の隧道滝は「大谷隧道滝」と。

民家前の道路に出ると西進し、突き当たりは北に折れる。この道は県道の大谷バス停のやや北方に出る。

 

これらの滝を探訪した翌日、愛媛県第二位の落差120mの滝を探訪したのだが、いずれまたレポートを投稿したい。

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初公開!愛媛県第二位の落差120mの千段滝(面河渓周辺)

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[林道から15分なのに探訪者なし]

以前、愛媛県久万高原町にある四国一の渓谷・面河渓よりも水の色が美しいその支流・鉄砲石川を紹介した(『四国最高水質の大渓谷に注ぐ清流の川』及び→『四国最高水質の大渓谷に注ぐ清流の川(2)』)が、その川の更に支流の谷には愛媛県第二位の落差を誇る千段滝(せんだんのたき)が懸かっており、鉄砲石(火縄銃の形状をした石)の下方やや手前の林道沿いには看板まで建っている。更にその下の鉄砲石川キャンプ場の炊事棟横には、滝が記載された等高線入りの地図板まで設置されている。にも拘らず、ネット検索してもこの滝の探訪記事は皆無。

 

しかし実際に訪れてみると、平成に入り、廃道化したと言われていた探勝路は、取水パイプ管理道として薄いながらも現存しており、渡渉地にはマーキングテープも巻かれており、キャンプ場から僅か10分台で到達することができる。滝の形状は同じく鉄砲石川支流に懸かる布引滝(落差80m)と同じような滑滝で、川床の岩盤を滑るように流れている。その岩盤に無数の節理の段差があることから「千段滝」(下の地図)と名付けられたのだろう。

 

アプローチは過去に投稿した鉄砲石川の記事と同じで、駐車場は「国民宿舎面河」の先にある最奥の「面河渓第二駐車場」。そこから車止めチェーン手前の山道を上がって素掘りトンネル東口に出て、そのトンネルを抜ける。

 

数分でキャンプ場のトイレが現れ、すぐ千段滝の看板が現れるが、当然そこから滝は見えない。炊事棟横の地図板の所に下りる前に、以前も紹介したかも知れないが、その先のカーブ周辺の右手にある小径を登り、「こうもり石」(上の写真)と「鉄砲石」(下の写真)を見られたい。前者は以前解説したように、バットマンのロゴマークにそっくりの平たい石。後者は「鉄砲石川」の河川名の由来になったもの。

 

炊事棟近くから河原に下り、川石を跳んで渡り、斜め向かいの、上流に滝のある谷入口(下の写真)に立つ。谷の左岸(北岸)奥の木に赤いマーキングテープが巻かれた薄い踏み跡があるので、それを登るが、すぐ取水パイプの金属製桝(タンク)手前で谷に下りる。

 

谷の水量は極めて少ないが流木だらけのため、一見すると遡行し辛いように思える。が、右岸寄りが歩き易い。ほどなく岸の上の切株から細くて短い鎖とロープが垂らされている箇所に到る。そこから岸に上がるとやや下草がヤブ化した探勝路が付いている。

 

その踏み跡も土砂崩れ跡に達して消えるが、そこの斜面の岩盤には水が流れた跡があるので、雨後は滑滝が現れるのだろう。この岩盤の崖があるということは、探勝路はここで対岸に渡るはず。案の定、対岸の木にはまた赤いマーキングテープが巻き付けられている。渡渉地付近の上には、鉄砲石川の上流にある兜岩に似た崖が屹立している(上の写真)。

 

対岸の踏み跡自体は不明瞭だが、取水パイプを伝っていけばいいのでルートは誰でも分かる。取水パイプは千段滝で終わっていた。当初、滝のイメージを勝手に愛媛県一の滝・高瀑や第三位の滝・御来光の滝のようなものと思い込んでいただけに、布引滝のような滑滝だったことは意外だった。ここの標高は760m前後。

 

この滝も布引滝のように全景を拝むことはできず、下部の半分から3分の1位しか見えない。見える範囲では三段になって落下しており、三段目上には鉄砲石川上流の鎧岩のような崖が切り立っている(上の写真)。その崖の上部は人の横顔のようにも見える。三段目から上は谷筋が急カーブを描いているため、見えないのである。それを見るためには沢登り装備が必須となる。

しかし「120m」というのは落差ではなく、滝の「長さ」ではないだろうか。四国随一の滑滝である滑床渓谷の雪輪ノ滝も落差こそ80mだが、全体の長さでは300mを超える。

 

帰路は以前、鉄砲石川を探訪した時のように、谷の出合から鉄砲石川を「櫃の底」(滝壺)へと落下する滝の天辺(下の写真)まで下ったが、こちらも川床は滑らかで渓流は滑るように流れており、水は「面河ブルー(仁淀ブルー)」のエメラルドグリーン。

 

そこからは一旦林道をトンネル西口まで戻った後、再び川床へ下り、神秘的な櫃の底を鑑賞した。そこから夫婦滝(雄滝と雌滝)まで下って行こうとしたが、途中で堰堤があり、そこから下流に下るのは不可だったため、車で面河ダム第一承水堰のやや下流まで移動し、そこから川床に下り、面河川と鉄砲石川の出合「想思渓」を目指すことに。実は道路から直接想思渓に下りる小径があることを忘れていたのである。

 

想思渓も白く輝く川床が美しい渓谷だが、ここにあると言われる夫婦岩はどれがそうなのか分からなかった。一際大きな石とその横に挟まれた小さな石のことだろうか。

想思渓から鉄砲石川を遡行しようと思ったが、すぐ遡行が困難となったため、左岸の山肌の造林作業道を登って行ったが、川面から大きく外れてきたので、諦めて引き返した。前述のトンネル南方の尾根から夫婦滝や桧山出合の滝を見下ろすことができるのだろうか。

 

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この世の地獄・立山室堂血の池地獄

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[火山ガスと真っ赤な血の池群]

以前、山岳避暑地三景や黒部渓谷下ノ廊下の記事で触れた、日本最高所の温泉や最高所のトンネル(立山黒部アルペンルート)を擁す富山県・立山の登山基地、室堂(標高2450m)だが、ここは夏と秋では景色が一変する。

 

夏場は緑が眩い高原で、点在する火口跡である池も碧く鮮やかなのだが、9月末以降の秋、景観が様変わりして、室堂を取り囲む高山群の山肌は茶褐色となり、点在する池の一群、血の池群(上の写真と下の地図)は俯瞰すると池面が赤黒く映り、仏教に於ける地獄の「血の池」の様相を呈している。そしてその北西にはその名も「地獄谷」という箇所があり、至る所から火山ガスが噴出し、周辺は賽の河原をイメージさせるような荒涼とした景観で、まさしく「この世の地獄」たる光景。

 

立山周辺には「立山地獄」なる地獄群がある。平安時代末期の「本朝法華験記」や「今昔物語集」には、日本のあらゆる罪ある者は立山地獄に堕ちる旨、記されている。前述の地獄谷には昭和中期まで二体の身代わり地蔵が建っていたのだが、藩政時代中期の「立山道名所」によると、この地蔵が亡者の身代わりとして地獄の責め苦を受けてくれたため、地蔵の目や耳、鼻、手足等がそぎ落ちたのだと言う。

 

立山地獄は八大地獄に各16の別所地獄等を合わせて136の地獄があるとされるが、その一つが前述の「血の池地獄」なのである。この地獄には女性のみが堕ちるという。それは、女性は生前、月経や出産で不浄を行い、その血で穢れた衣類を川で洗濯し、その川の水や、それを使用した野菜、飲んだ魚等を神仏に供えるからである。死後、血の池地獄に落ち、毎日鬼に池の血を飲まされるという。

 

その女人救済施設もあった。芦峅姥堂がそれで、女人救済の一大霊場となっていた。しかし明治の廃仏毀釈で廃止された。その後姥堂基壇が発掘整備され、平成3年、そこに隣接して立山博物館別館・遥望館が建設され、灌頂法会等を体験できるようになった。

 

当方が室堂(室堂平)を訪れたのは’931019日の平日だったが、立山黒部アルペンルートは国際山岳観光地だけに観光客は多かった。早朝や夕方以外では登山客の姿は殆ど見られない。この時期、標高二千数百メートルの高地では冬の寒さになることは想像していたが、耳がちぎれるほどの痛みを伴う寒さだった。西日本では雪山級の極寒である。

 

この立山山系に抱かれた室堂には周回する各種遊歩道が整備されている。当方はアルペンルート東端の大町温泉郷の「酒の博物館」に寄って各地酒の試飲をしたかったため、室堂では遅い昼食後、その遊歩道の一部を駆け足で巡った。まず、最大の火口湖跡池・みくりが池かその東のミドリが池を巡ったと思う。それから血の池群北西の展望台へ登り、各池や立山山系を見渡したが、雲が低く垂れこめていたため、山系は中腹までしか望めなかった。

 

日本一高い場所にある温泉・みくりが池温泉から地獄谷へと向かった。谷周辺では鼻を押さえていないと嘔吐してしまいそうなほど、臭いのきついガスが噴出している箇所もある。荒涼とした谷周辺には尖った岩塔も聳え立ち、側からもガスが噴き出している。

 

地獄谷にはコンヤ地獄やかじや地獄等があるが、どこがそうだったのかは覚えていないし、ガスの中、ゆっくり探勝する余裕はない。遊歩道北端の雷鳥平まで行ったかどうかも記憶にないが、バスの発車時刻まで時間に余裕がなかったため、走って40分ほどで巡った。普通に歩いて回遊しようと思えば、その倍ほどの時間を見ておくといいだろう。

尚、大町温泉郷へ向かう前、大観峰(2316m)や黒部平(1828m)のケーブルカー乗り換え地点で少し展望を楽しんだ。下の写真は黒部湖。

 

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大洲市河辺町の滝巡り(1)蛇渕

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[巨大魚の淵は今・・・]

愛媛県大洲市役所河辺支所の観光部署は近年、滝の発掘に力を注いでおり、既知の滝を入れるとその数は26に及ぶ。中には滝と呼ぶことに首を傾げるようなものもあるが、職員の情熱には頭が下がる。

 

前に投稿したドルメン隧道を探訪した日、各滝の観光資源としての活用を考察するため、地元観光協会と共に町内の滝巡りをしたので、各滝を紹介していきたいが、今回紹介する蛇渕は支所側では「滝」と見做していないため、当方が個人的に郷土書を見て探訪した。

 

河辺支所の1.5km北方の河辺川と木菱川の出合付近の木菱川に蛇渕(下の地図)という淵があり、小さな滝や激流の流れがある。滝の落差だけを見ると迫力に欠けるが、昭和期まで、この蛇渕沿いには大岩が屹立しており、ここを通る県道56号は車がぎりぎり通れるほどの幅員しかなかった。目ぼしい岩盤が撤去された今でも、県道下は両岸が狭く、切り立っており、激流が岩を食んでいる。

 

その昔、大洲市肱川町にあった善通寺の法倫和尚が河辺町三嶋(かつての行政区分は河都)の龍王神社に参詣した帰途、蛇渕に差し掛かったところ、川面に体長が2mはあろうかという真っ赤な魚が現れたという。その瞬間、雷鳴が轟き、淵から龍神が出現した。

 

古文書「大洲旧記」によると、その龍は頭が牛のようで、一本の角が生えており、口は耳の下まで裂け、六寸(18cm)ほどの足があり、胴体周りは四尺(120cm)もあり、川面から四、五尺ほど頭をもたげ、和尚と対峙した。和尚が加持をし始めると渕の中に姿を消したという。

渕への下り口は出合橋南袂にあり、そこから下ると龍神を祀る祠がある。

 

出合橋南の県道56号と55号との三差路から東に55号を200数十メートルほど行った所の対岸には「鴨谷滝」が懸かっているが、木々が邪魔で全景が見られない。支所側では登路は把握してないようだが、もしかすると上流の橋から南下できるかも知れない。

 

支所の400mほど北東の対岸には「植松滝」(上の写真と下の地図)が懸かる。落差は10数メートルほどか。こちらも現地までは行かなかったが、やはり上流の橋から南下する往還の途中から下って行けるのではないと思われる。

 

[PS]

一昨日、河辺町の「ふるさとの宿」で開催された、毎年恒例のイベント「龍馬を語る夕べ」に於ける当方の講演は無事終了した。当ブログ未投稿のものとしては、那須信吾一族子孫が経営していた旅館について解説した。

 

過去数回、愛媛新聞で拙著が取り上げられているものの、掲載スペースは高知新聞の数分の1ほどであり、愛媛県下に於ける当方の知名度は低いため、聴講人数が気になっていたが、去年の時より多かったということで一安心。やはり、どの龍馬研究家や博物館も把握していない無名伝承ばかり取り上げたため、興味を持つ方が多かったのだろう。

 

その日は支所側の手配でふるさとの宿に泊まり、翌日、松野町の滑床渓谷を探勝したが、支流の滝群と滑床林用軌道廃線跡が印象的だった。また後日、投稿したい。

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龍馬と猫島ファンに朗報!大洲市の冨屋邸が宿泊施設に

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[歴史資料ギャラリーも併設]

坂本龍馬と沢村惣之丞の脱藩時、四国最後の宿となった愛媛県大洲市長浜町の豪商・冨屋金兵衛邸が、私が同市河辺町で講演を行った923日、茶房と歴史資料ギャラリーを併設した素泊まり宿泊所としてオープンした。

 

龍馬らが旅立った長浜港からは、龍馬が脱藩後、薩長同盟締結に向けて奔走していた際、船の潮待ちで立ち寄った青島(→龍馬の滞在した海軍島)への定期船が出ていることもあり、龍馬ファンにとっては有難いが、近年、宿泊施設のない青島(下の写真は島の弁天崎)は西日本一の猫島として爆発的人気を博しているため、猫好きにとっても朗報。ただ、青島の猫は全て去勢・不妊手術をされる計画であるため、これ以上、猫が増えることはない。

 

冨屋邸が宿泊施設になった経緯は、金兵衛の子孫の当主が亡くなり、その二人の娘の内、一人も他界したため、残ったもう一人の娘の方が龍馬ファンや地域活性になればと、交流の場や宿泊施設を「株式会社冨屋金兵衛邸」(→公式ホームページ)としてスタートさせた次第。

 

建物は昭和末頃、建て直されているが、一部の建材は再利用されており、造りも幕末時とはあまり変わっていないという。

ギャラリーには恐らく、吉村虎太郎が脱藩時の文久236日、ここに止宿した際に綴った手紙も展示されていることだろう。これを機に、大洲市長浜町と高知県津野町との交流が深まれば、交流人口の拡大にもなるだろう。

 

拙著では長浜小学校前バス停を基点に、龍馬らが上陸した江湖やチェックを受けた波戸番所跡(公道からの確認不可)、浜番所跡(下の写真)、日和山や亀の首砲台跡、大洲藩の各機関跡、いろは丸を模した巨大遊具等を回遊する形で紹介。また、廃線跡の著書では愛媛鉄道の長浜駅跡から続く廃線跡を紹介したが、それらに興味のない方でも、沖ノ城砲台跡一角に建つ大洲市役所長浜支所庁舎や豪家・末永家住宅は一見に価することだろう。

 

庁舎は昭和11年、末永氏の寄付によって建てられた。入母屋造、瓦葺の面積382平方メートルの建物。外観は建築当時と殆ど変わりなく、正面玄関上部は切妻風で、ここに2本の円柱で支えられた半円形のレリーフがあり、外壁下部は御影石を貼っている。 

 

廻漕業者の末永家住宅は明治17年の建築で、470坪に旧主屋、湯殿、茶室、百帖座敷(昭和2年建築)、蔵、納屋等が建ち並ぶ。通りに面した旧主屋は、切妻平入本瓦葺の二階建てで、なまこ壁仕立て。

今後、冨屋を中心としたまち歩きコースを設定すれば、更なる活性化が期待できるだろう。

 

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山中でコンクリート壕を発見!(南国市)

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[戦争遺跡・かまぼこ型壕と素掘り壕群]

拙著等で米軍は昭和201030日、鹿児島県南部から本格上陸する(111)前の陽動作戦として、高知県に上陸する計画を立てており、日本軍もそれを察知し、高知海軍航空基地の西方の山並みに縦深に陣地を築いていたことを述べた。

 

拙著では最も海岸に近い琴平山陣地、ブログでは秋葉山の片山トーチカ群、ヤマケイサイト投稿記事では大森山から蛸ノ森(147m)周辺尾根の陣地について解説した。未探訪だが、海軍向山高角砲陣地へ通じるルート沿い北側の森にも陸軍陣地があることを机上で確認している。

 

琴平山と蛸ノ森から北東に伸びる尾根に挟まれる形で、50m(当方は勝手に「タンク山」と呼称)を中心とする山塊がある。当然この山塊にも多数の陣地が構築されていることが予想されるが、陣地構築のセオリーから言えば、横穴陣地等を掘るなら、東方に開ける谷部である。よって、二ヶ所の主要な谷を調査し、南側の谷沿いにかまぼこ型のコンクリート壕を発見した。

この壕に一番近い連隊本部は、蛸ノ森に近い御旗山で軍旗を奉焼した陸軍第12連隊である。

 

蛸ノ森トンネル工事前の公的機関による自然生態調査に於いて、調査員からかまぼこ型のコンクリート壕があった旨の報告を受けたことがあるが、トンネルが通る尾根からは離れているため、今回の壕とは別だろう。

 

[コース]

南国物流団地北端の十字路を西に折れる。突き当たりには野尻公民館があるが、この西の歩道と立入禁止の私道を合わせた四差路が上り口(下の地図)である。付近に駐車スペースがないため、当方は物流団地内の適当な路側帯に駐車した。

北方の山口団地から南下する方が近いが、駐車場所に苦慮するのではないかと思い、逆側から北上した。

 

コースは前述の歩道を北西に進む。最初の谷の分岐では北に進むが、その最初の谷にも無数の横穴壕や塹壕が掘られている。

次の谷の分岐には小屋が建てられているが、この小屋沿いの小径を西進すると支流の谷(水流はない)が左手に分かれ、そこからかまぼこ型壕が見えている。

 

因みに当方は最初、この谷にコンクート壕があることは知らなかったため、小屋の分岐のすぐ北の四差路を北西に登り、谷沿いの壕群を巡った後、稜線に上がり、タンク山のタンク前身の貯水槽跡から若宮八幡のピークへ登った後、タンク手前のY字路を南西に進み、タンク南方尾根から前述の最初の谷に下り、各所の壕を確認後、小屋から西の道に入った。勿論、コンクリート壕の存在は知らずに入山したため、支尾根の上り下りを繰り返し、3時間ほど経ってようやく「目ぼしい戦争遺跡」を発見するに至ったのである。

 

かまぼこ型壕近くの道は不明瞭だが、手前には兵舎か何かの基礎(下の写真)が残っている。壕の扉(木製か鉄製かは不明)は終戦時の需要で、地元民が持ち去ったのだろう。壕内は以前紹介した須崎市の山崎鼻トーチカ程度の広さで、西側側面上部に銃眼のような形状の小窓、天井には排気孔が開いている。四角いオイル缶のような残骸が残っているが、これが戦時中のものか否かは定かでない。物資保管壕なのか退避壕なのかも不明である。

踏み跡は奥へと続いているが、当然その奥にもいくつも素掘り壕がある。

 

ところで話は変わるが、県内の戦跡調査をしている主な施設・団体としては、平和資料館・草の家の他に、南国市の高知県立埋蔵文化財センターがあった。担当者は現在の草の家の出原副館長である。60歳で定年を迎え、草の家副館長になったのだろう。

 

実はこの人物も草の家の戦跡研究員同様、嘘の理由をつけて戦跡の場所や資料を公開しようとしない。彼と初めて会ったのは2006年の草の家での戦跡勉強会だった。当時は前述の戦跡研究員は「表」に出てきておらず、当方はその存在を知らなかったため、時折、草の家へ出向いていた。

 

その勉強会後、出原氏に土佐市の新居城跡の陸軍陣地(下の写真・拙著収録)の場所を尋ねた。幕末の新居砲台跡を調べる過程で、地元に於いてこの情報を得ていたからである。当方は当時、県森林局が立ち上げて民間に委託していたあるブログサイトのブロガーであり、戦争遺跡や廃線跡、登山等の記事を投稿していた。

 

出原氏には「県内の戦跡の詳細を公開している書籍やホームページが少ないため(当時)、当該地域の歴史を後世に伝えていくためにも、未公開の戦跡を発掘していきたい」旨、伝えたのだが、なかなか教えてくれない。

 

あまりにも頑なに答えてくれないため、三度目に尋ねた時、「詳しい場所はいいから、塹壕(上の写真)がある尾根だけでも教えて戴きたい」と言うと、出原氏は面倒臭そうに「あ~もう!ここ、ここ」と地図を指した。

 

それから8~9年後、「高知市民大学」の講義で講師だった出原氏(当時は埋蔵文化財センター勤務)に、講義での質疑応答時、宿毛市鵜来島の海軍防備衛所の資料(出原氏が東京で入手)について閲覧させて戴きたい旨、申し出ると、いきなり挙動が可笑しくなり、「し、資料はどこかに紛失して分かりません」と答えた。当方は’90年代、探偵・調査業を行っていたから、このような嘘はすぐ分かる。

 

その嘘の証拠が今年の高知新聞の記事である。防備衛所の資料を紛失したと言っていた出原副館長が鵜来島へ調査に行っていたのである。つまり、資料は紛失しておらず、きっちり保管していた訳である。

前述の戦跡研究員と言い、この副館長と言い、なぜ高知県の著名な戦跡研究家は皆、嘘までついて戦跡を公開せず、戦跡の普及を阻害するのか。なぜ後世に伝えようとしないのか。そこまでして自らが調査した戦跡を自分だけのものにしたいのだろうか。

 

その戦跡研究員は民間人だが、出原副館長は当時、県立施設の職員である。埋蔵文化財センターのような生涯学習に関わる施設は博物館や教育委員会同様、リファレンス業務は職務の一つである。それについて虚偽を言ってまで行わない、というのは職務怠慢にほかならない。

高知県の戦跡普及活動は私が一人で行わなくてはならないのだろうか。

 

高知県の全ての戦跡調査者は考えを改めるべき、と思う方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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