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希望の党が犬猫殺処分ゼロに+観音寺市の野良猫名所(1)

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[琴弾公園・巨石付近の「笑い猫」]

希望の党は公約とは別に将来実現させる政策として「希望への道しるべ~12のゼロ~」を発表した。隠ぺいゼロや満員電車ゼロ、花粉症ゼロと共に注目すべき政策がペット殺処分ゼロ。私も前から殺処分ゼロにするための有効な方法論と施設(「完璧な」動物愛護センター)を考えており、それが高知県にあればいいと思っているが、自民党政権下と県の経済優先主義では叶うことはないだろう。

 

私の方法論は後述するとして、今回は県外、香川県観音寺市の野良猫名所を紹介したい。それは以前、江甫草山防空監視哨跡(→江甫草山防空監視哨跡(観音寺市))の記事で触れた有名観光地・琴弾公園である。

 

琴弾公園は「日本の地上絵」銭形砂絵(上の写真は真横から見た所)が有名だが、公園駐車場(下の写真)付近や園内の東屋、その駐車場と琴弾八幡宮との中間にある琴柱池北の山際等で野良猫を見かけることが多い。公園駐車場は結婚式場を擁するホテル前にあることから、餌場は設けていないにしろ、野良猫は周辺住民に可愛がられているのだろう。

 

防空監視哨跡の記事でも紹介した琴弾山の天狗山展望台へ到る九十九曲道登山口北側にも東屋風の「山口井戸」があり、一才未満と思われるキジトラ(下の写真)がいた。山口井戸は大同年間(806~810)、弘法大師空海が観音寺の住職時、地域住民が旱(ひでり)続きで水不足に悩んでいたため、掘ったもの。

 

山口井戸から西側の芝生区域にも白猫がおり、餌をあげている間は触らせてくれた。

住宅地図には山口井戸方面への道と駐車場への道との三差路のやや手前に「獅子の口岩」が表記されているが、道路が二車線化された際、消滅した模様。以前紹介した三重県の「東洋のスフィンクス」のようなものだったのだろうか。

 

琴柱池は中央の島が両岸の橋で繋がれた景観の優れた場所だが、ここに顔が常に笑っているように見える猫がいた。当初は当方のことを警戒していたが、その北側の山際にいた猫たちに餌をやっていると近寄ってきて、撫でさせてくれた。やはり笑顔の似合う猫に悪い猫はいない?岩合光昭氏に撮りに来て欲しい。

 

ところで、その猫たちが歩いていた山際のコンクリート縁の東方には巨石「問答石」がある。複数の大石や岩からなるもので、ピラミダルな岩塔がある他、注連縄が掛けられている石は岩から分離して立岩となっている。

琴の音を出す小船に乗った宇佐大神と神宮寺の日證住職が問答を行った石だと言われている。

 

巨石はこれだけではない。問答石東の琴弾八幡宮境内に建つ山之神神社社殿右側にも屋根ほどの高さの立石がある。この石、不思議なことに下部に穴が貫通している。この石は見る角度によって形が変わるが、背後に回るとガメラに出てくる怪獣・ギロンのように見える。

 

また、前述の記事では源義経が琴弾八幡宮に奉納した「木乃鳥居」も触れたが、それは次のようなことによるもの。寿永4年の屋島合戦時、平家軍の総大将・平教経は劣勢を挽回すべく、伊予の大洲城主・田口教能が率いる一千騎が到着すると源氏軍を海と陸から挟み撃ちにする作戦を企てていた。

 

しかし義経は夢での暗示からこの作戦計画を知る。そこで側近の伊勢三郎義盛に、教能が屋島に到着する前に接触し、進軍をやめるよう説得させることにする。三郎は万が一説得に失敗した際は討死する覚悟で、鎧の下に死に装束を着込んで浜沿いを走った。

 

三郎は琴弾山で教能軍と出会い、教能と十王堂で会談し、平家軍は大敗し、教能の父・重能も降参した旨、説いた。この嘘を真に受けた教能は軍を解き、源氏の軍門に下った。このことにより、屋島合戦は源氏軍の勝利となったのである。三郎が説得に失敗していたなら、歴史が変わっていたかも知れない。上の写真と下の地図が木乃鳥居。

 

前述記事では琴弾山と東麓の四国霊場を回遊する独自に見出したコースを紹介したが、69番札所・観音寺から道路を北西に進み、根上り松から興昌寺山(山上に古墳)と興昌寺を回遊後、観音寺中学校から銭絵に出ると歩き甲斐のあるコースになる。根上り松は根元が男根(包茎)のようになっている。

 

さて、冒頭で触れた殺処分ゼロにするための方策だが、高知県には動物愛護センターがないので、まずそれを造る。現存の施設では乳飲み子猫は即日殺処分しているが、そういう子猫を育てるため、小動物看護士資格を持つ職員を常駐させると共に動物保護のNPOやボランティア等と協力し、乳飲み子猫を育てる体制を作る。ボランティアの取り纏めはNPOに委託してもいいだろう。生後二ヶ月位まで育てるのは重労働となるため、ボランティアは有償として費用は県が支出する。

 

野良猫犬を増やさないため、ペットを捨てた飼い主には罰金として15千円支払わせる。支払いを拒めば預金等を差し押さえる。そして密告通報制度を取り、ペットを捨てた飼い主情報を報告した者にはその15千円の内、5千円を謝礼金として支払う。

当方が望むのは、この世から野良猫スポットがなくなり、全てのペットが幸せな生涯を送ることができる世界である。

 

PS:最近、観音寺市内で第二、第三の「香川のウユニ塩湖」(幻想的な鏡面の水面)を見出した。しかし大潮や中潮の干潮時は不適のため、どのような引き潮時が適しているのか考察中。正月に何日か泊って確認しようと思う。適期が判明すれば観音寺市の観光の目玉になることだろう。

 

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大洲市河辺町の滝巡り(2)三久保の滝

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[巨大岩壁下流の滝]

蛇渕から県道56号を2キロ少々上がると谷を渡る右急カーブになるが、この谷の上流に三久保地区の滝「三久保の滝」が懸かっているので、カーブ路肩に駐車する。

 

谷の右岸(西岸)の踏み跡を辿る。6月時にはユキノシタの群落があった。

数分から10分ほどだったと思うが、谷に段々の滝が懸かっているのが見える。滝と言えるのは二つほどだが、上の滝には沢登り装備がないと厳しかったと思う。この辺りの沢幅は狭く、どの滝も落差は10m未満だが、木漏れ日の差す沢は気持ちいい。滝壺も猫の額ほど。

 

滝より上流沿いの踏み跡は薄い箇所もあったかも知れないが、渡渉地(左岸に渡る箇所)付近に大岩があり、対岸を登って行くと見上げるほどの巨岩群や岩盤が現れる。

踏み跡を登り詰めると県道をショートカットする形となり、大師堂に着く。

 

滝や巨岩群の上に堂宇が建立されていることは多々あるので、ここの大師堂もそういう山岳修行に適した環境だったため、建立されたのだろう。因みに大師堂は谷を挟んだ向かいの市道沿いにもある。

 

蛇渕南の出合地区の三差路まで引き返し、対岸に植松滝、県道沿いに大洲市役所河辺支所を過ぎ、緩い右カーブを越えると河辺町植松と大洲市肱川町山鳥坂との境界に到るが、そのやや手前の対岸に橡の木瀬滝が懸かっている。崖に懸かっており、上部は木々が邪魔で見えないため、どれ位の落差なのかは分からない。

 

河辺支所では探訪ルートは未調査だが、下流の本願寺から対岸に渡り、川沿いの道を遡り、途中から木々に掴まりながら下りることができるかも知れない。

この日は地元観光協会と共に沢山の滝を観光資源として活用できるか否か、ということで見て回ったが、次回からもある程度の見応えのある滝のみ、紹介して行きたい。

 

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高知海軍第三飛行場・前編~龍馬関係者宅が本部に~

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[脱藩須崎説根拠者関係者と佐々木高行の妹]

以前、高知市の才谷屋分家「吹井才谷屋」の坂本家が戦時中、陸軍第43連隊長宿舎となっていたということを述べたが、かつて少し触れたように、高知海軍航空基地(高知龍馬空港の前身)の第三飛行場(宮内飛行場)基地本部も坂本龍馬と間接的に関係のある人物宅に置かれていた。それが、龍馬が脱藩時、須崎にいたということを後世に伝えた安田たまきに明治期、「梯子灸」の施術を行っていた谷民衛の叔父・谷孝成の後妻、才(さい)の実家・市川家である。

 

因みに孝成の死別した前妻は龍馬や海援隊と深く関わった藩の大監察・佐々木高行の妹だった。高行は長崎出張時の慶応3年、イギリスの水夫殺人事件の嫌疑が海援隊にかけられた際、この処理を担当した他、同年9月、龍馬が帰国して藩に新式銃一千丁を売却した際も協力している。余談だが、高知市佐々木町の町名は、高行の屋敷跡があったことから名付けられたもの。残念ながら屋敷跡は’00年代に入り、宅地開発で消滅してしまった。

 

民衛が親戚となった市川家を訪ねたこともあったが、逆に市川家の子が高知市内の学校に入学すると、民衛の家に下宿していたという。

孝成・才夫妻には子供がおらず、養子も取らなかったため、二人の墓は並んで市川家墓所にある。孝成は明治27年、58歳で没しており、才はその7年後に亡くなっている。

 

市川家墓所は元々近くの墓地山にあったが、墓参が不便ということもあり、平成20年代に入り、家の南方に移された(下の地図)。そこは高知海軍第三飛行場の航空機格納庫跡の一つである。恐らく、背後に擁壁ができるまではそこに格納壕(素掘り掩体壕)があり、その前に偽装の小屋が建てられてあったことだろう。

 

市川家はその地、宮内に昭和20710日開隊した高知海軍第三飛行場基地の本部になったのである。豪家であった市川家の屋敷は強制接収され、家の者は隣の部落(四国では「地区」の意味)に移らざるを得なかった。

家の石垣は二ヶ所の石が外され、銃眼となり、その背後の地面を掘って壕と成し、入るようになっていた。

背後の山際には防空壕が掘られ、その山には手榴弾を投げつける広場が造成された。

 

滑走路の建設は昭和20年春から始められ、呉海軍第5113設営隊が担当し、宮内周辺集落の者が勤労奉仕に駆り出された。田畑が接収され、延長1180m、幅150mの砂利敷きの滑走路が造られた。砂利の上には丸木をシュロで編んで簾のようにし、木走路とした。

基地には特攻隊員や整備要員等、150~200人を擁し、通称「丸岡隊」と呼ばれた。戦後、記された市川氏の手記には、四軒の民家が接収された旨、記述されているが、これは誤りでその倍以上の民家が接収されている(当方による聞き取り調査)。その一部は民家背後に防空壕が掘られた。

 

この基地に、特攻に使用される偵察練習機・白菊が27機配備され、山の斜面を削った素掘り掩体が三つの谷を中心に39基造られている。

この基地では第一飛行場(龍馬空港の箇所)同様、練習機の墜落事故も起こっている。84日、旋回飛行中、エンジンの不具合が起き、同時に谷風に煽られ、山腹の牛小屋上に墜落したのである(添付写真は高知県老人クラブ連合会発行「平和への祈り」より)。しかし幸いにも搭乗していた二人は、骨折等はしたものの、命に別状はなかった。

 

現在、滑走路跡は田畑に復し、その面影はない。滑走路跡のすぐ前にある市川家(上の地図)については、石垣は当時のままだが、当然銃眼箇所は元通りに塞がれ、入口の壕も埋められている。石垣の二ヶ所の石の積み方がやや歪になっているため、そこが銃眼跡だろう。

屋敷背後の防空壕も擁壁ができてなくなった。

 

家屋は母屋等、戦後建て直されたが、北側の建物は当時からのもので、便所棟も残っている。便所の壁板には隊員が「丸岡」と落書きしていたが、これも張り替えられている。

が、母屋南の納屋の中には、隊員が使用していた風呂場が残っている。風呂場と言っても木枠だけで、恐らくこの中に五右衛門風呂桶を入れていたものと思われる。戦後は扉を付け、縦に置き、棚として使用していた(下の写真)。

 

母屋の北側の倉庫の中には、白菊の部品と言われるものがあるが、戦後、市川家ではこれを鍋として利用していたそうである。何かの機器のカバーかも知れない。

部品と言えば、拙著でも紹介したこの基地の白菊機のタイヤが平和資料館・草の家に保管されている。これは地元宮内の方が四万十町役場隣にあった引揚事務所から貰い受けたもの。

次回の後編では三つの谷に残る素掘り掩体壕や燃料タンク置き場跡等を紹介する。

 

PS:来月18日、三たび(‘12年以降)、高知市立春野公民館分館で講演を行うことが決まった。演題は「滅びゆく長宗我部盛親と龍馬との因縁的関係」。関ヶ原の戦いから処刑されるまでの盛親の生涯や「大坂城五人衆」の毛利勝永や明石全登の土佐での足跡、盛親を京都の八幡市で捕縛した蜂須賀家家臣の幕末時の子孫の家臣宅に龍馬が滞在していたこと等を解説する。

 

この講演は地区(大字に於ける)最大のイベントである文化祭で開催され、毎年、県内の著名人が招聘される。講演終了後は会場が居酒屋と化す。文化祭の広報は回覧板等によるが、毎年満席になるので、ここで紹介しても地区外の者は席に座れない可能性が高いので、詳細は割愛する。

しかし今年は書籍出版や写真展を開催していないにも拘らず、初夏から約二ヶ月おきに県内外から講演に呼ばれ、それらとは別件で新聞取材も複数回あった。何故?

 

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高知海軍第三飛行場・後編~素掘り掩体壕群~

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四万十町宮内の集落は南北に長く、その中央部に前編で解説した基地本部跡がある。戦争遺跡の探訪は南の宮内に隣接する仕出原地区から。ここの五社神社(高岡神社)境内の複数箇所に航空燃料のドラム缶が保管されていた。

 

「高岡神社」という社名を冠する神社が近接して五社あることから、五社神社と総称されるが、創始由来は詳らかでないほど古い。創建当初は一社のみで、弘法大師空海が境内に神宮寺として福円満寺を開き、四国霊場第37番札所(現在は他所の岩本寺)に指定したことをきっかけに五社に分かれた。南から森宮、今宮、中宮、今大神宮、東大宮と続く。

 

この内、今宮と東大宮はすぐ背後に山が迫っており、それぞれその斜面を縦に掘り込んだ跡がある(下の写真)。これらがドラム缶保管跡と思われる。各保管場所前では海軍兵が24時間監視していた。中宮の子安神社を挟んだ北の民家も海軍兵の宿舎となっていた。

高岡神社の駐車場は中宮前T字路の東方にある。

 

東大宮の北側には払川が流れているが、この西岸に並行する農業用水路があり、その水路沿いに三基の素掘り掩体壕が残っている。竹藪の中にある直径十数mほどの斜面の掘り込みがそれである。水路は戦後造られたものと思うが、この水路と払川に挟まれた小径が誘導路跡だろう。白菊はバックから壕に入れていた。

 

五社川橋を北に渡った先の民家が宮内南端の人家で、この前に衛門があり、例え宮内集落の住民でも通行札を衛兵に見せないと通行できなかった。

最初に右手に現れる民家も宿舎になっていた。

「中宮内」バス停手前のT字路を西に入った突き当たり、現在貸家の旧岡林家裏の斜面に防空壕が掘られていたが、擁壁により消滅している。その旧岡林家か、その南の掛水家に無線機が置かれていたものと思われる。

 

「中宮内」バス停北のT字路を西に入った突き当たりの小原家(現、空き家)は航空機の誘導路造成のため、昭和20年に壊されていた。その背後の山際を小径が伝っているが、南西隅に掩体壕が一基確認できる(下の写真)。北側の墓地の下も壕跡のように見受けられる。

 

次は前述のT字路北の十字路を西に入る。突き当たりの民家裏、三嶋神社下の山際には透明のトタン板で封鎖された横穴壕らしきものがある(一枚目の写真)。

三嶋神社前から谷沿いの農作業道を北西に進んで行くと、左手に柵があり、その内側が長方形に窪んでいる。これは竪穴壕跡か。

 

そこを過ぎると左手に一軒の倉庫が現れるが、この倉庫内の斜面側にはドアがある(上の写真)ため、その奥に横穴壕が残っているものと思われる。

農作業道はその先で、猪除けネットのため、通行できない。が、対岸のネット奥に目をやると掩体壕が見えている(下の写真)。

 

畑の畦道を伝って対岸の小径に移り、下って行くと複数の掩体壕跡が確認できる。

左手上に現れる畑も掩体壕跡を利用したもの(下の写真)。

その先の道沿いの小さな穴は、海軍のものか生姜の保管庫か見分けがつかない。

ここから次の掩体壕群までは少し距離があるため、車で移動した方が良い。

 

宮内集落を北に抜けると東川角地区に入る。最初の人家は朴ノ木谷にあるが、そこから少し引き返し、ヤブが薄い所をかき分けて山際に行くと周辺に掩体壕跡がある。

一旦県道に戻り、畑跡を適当に歩いて朴ノ木谷南の山際を探ると掩体壕がある。

また県道に戻り、人家の北側から北西に入る水路沿いの野良道を辿り、畑の畦道を歩かせて貰い、山際に到るとまた複数の掩体壕が現れる。

 

水路沿い野良道は途中でヤブ化して進めないが、この道はかつて丸山国民学校(後の旧丸山小学校)に繋がっており、学校前にも衛門が設置され、脇に歩哨舎が建てられていた。学校跡は現在、資材置き場になっている(下の写真)。

 

今回の戦争遺跡は皆、斜面の掘り込み程度のもので、見応えはさほどないかも知れないが、この四万十町の旧窪川町地域には、以前紹介した茶臼山城跡防空監視哨跡(→茶臼山城跡防空監視哨聴音壕 )もあるので、未探訪の方は合わせて探訪するといいだろう。

 

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悲劇の志士・窪田真吉列伝(1)~与津地屋跡と土佐西街道~

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[窪田真吉(真田四郎)邸跡と坂本龍馬の西街道]

過去、何度か触れた、山口市の浪士隊屯所で無実の罪により、後に海援隊士になる浪士たちに見殺しにされた変名・真田四郎、通称・与津地屋清次こと本名・窪田真吉は現在の高知県四万十町与津地に天保3年、生を受けた。

与津地は現在でも窪田姓が多いが、真吉の生家は窪田宗家だったと言われる。しかし残念ながら、生家跡は地元の古老でも分からない。

 

真吉が幼少の頃、一家は柿の木村、現在の四万十町仁井田のJR土讃線仁井田駅南東に転居した(上と下の写真が跡地)。転居した理由は家の西方に土佐四大街道の一つ、土佐西街道が走っており、与津地村よりも人口が多かったことが考えられる。ここで窪田家は魚行商・与津地屋を始めた。

因みにこれまで何度も述べてきたように、嘉永3年、坂本龍馬は四万十市の四万十川堤普請のための出張時、この土佐西街道を歩いている。

 

真吉も父・助次の行商を手伝っていたが、父の死後は行商の傍ら、土佐各地の相撲大会に「岩ヶ嶽」という四股名で出かけて参加し、怪力で名を馳せた。

相撲だけでなく、剣術にも興味があり、行商中でも郷士らが剣術の稽古をしているのを見かけると、それに加わった。これは勤王の志があったからでもある。

 

そんな頃の真吉の人柄が偲ばれるエピソードがある。真吉はある日、地元村内で、子供嫌いで有名なある男が道端で子供をいじめている所に出くわした。真吉は無言で男の襟首を掴み、殴り飛ばした。そして何事もなかったかのように、スタスタと自宅(上の地図)へ帰って行った。

 

男は怒って一旦自宅に帰ると火縄銃を持ち出し、真吉邸に乗り込んできた。そして玄関先(上の写真左側)で「こらぁ!真吉、出てこい!!」と怒鳴った。真吉はおもむろに家の中から出てくると、男の前に立って睨みつけ、「ちゃんと狙うて(狙って)撃てぇよ!絶対外すなよ!」と二度、凄んだ。するとその気迫に恐れをなした男は銃を下ろし、謝罪したという。

 

文久3年、真吉は交流していた郷士らのつてで藩の夫卒となり、上京することになる。真吉は家を出る際、お国のため、身を捧げる覚悟を妻・セイに伝え、離縁を申し渡した。これに対してセイは泣きながら引き留めようとしたが、真吉の意志は固かった。

 

セイは泣きながら乳飲み子の政恵を背負ったまま、久礼坂の登り口まで真吉の後を追ってきたが、真吉は「そればぁ(それ位)別れが辛い言うがじゃったら(言うのなら)、門出の血祭りに政恵から。」と、政恵の首に短刀を突き立てた。

セイは涙にくれながら、真吉の背中を見送るしかなかった。が、真吉を京で待ち受けていたのは、「八月十八日の政変」だったのである。

 

真吉の住居、与津地屋跡には昭和50年代まで、それを示す看板が建っていたが、跡地に建つ家が新築される際、地面がコンクリートで固められたため、看板は撤去され、真吉の存在は忘れ去られていった。しかし今年春に解説したように、四万十町観光協会では今年から真吉の顕彰を行うようになった。その一助に拙著「長州・龍馬脱藩道」がなったことは以前も述べた。

 

真吉や龍馬が通った与津地屋跡周辺の土佐西街道は今でも残っている。まず、仁井田の神有バス停の十字路を東に折れる。すぐ道路は南に向きを変え、田の中に突入して野良道に変わる。道端には地蔵も残っている(4枚目の写真とその下方の地図)。

 

ほどなく、古道は一旦また車道に変わり、国道56号に吸収されるが、JRの第四神有踏切を渡るとまた狭い車道となって道筋が蘇り、その後、仁井田小学校に阻まれる。そこで一旦国道に回って仁井田駅ホームに上がった後、校庭の南沿いを東西に走る水路沿いを歩き、校庭から南下する街道(コンクリート歩道)に出る(上の地図とその上の写真)。

ここからまた畑の中を通るが、ほどなくコンクリート舗装は終わり、刈り分け道となった後、JRの線路に吸収される。

 

高杉晋作が募った決死隊に入り、長州の佐幕派と戦う真吉の活躍に期待する、という方は次のバナーをプリーズクリック。

消えた宿毛市の架橋島の海軍戦争遺跡群

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[大島の高角砲台跡と丸島の横穴壕]

過去何度も述べたように米軍は昭和205月、その年の111日に鹿児島県の志布志湾とその周辺海岸から上陸するオリンピック作戦、1030日にその陽動作戦として高知県の土佐湾から上陸するパステル作戦の計画を立て、翌月、大統領の決裁を受けた。

 

大本営ではこれを予測し、九州南部や四国西南地方、高知海岸周辺に大量の陸海軍を投入した。四国西南地方には宿毛湾があるが、湾の片島港が昭和16年、連合艦隊の寄港基地になり、山本五十六元帥も上陸する等、特に重要視された。宿毛では陸軍は歩兵第354連隊や独立山砲兵16連隊等、海軍は呉海軍第二陸戦隊第15大隊が防備に就いた。この第15大隊は松山海軍航空隊解隊後の予科練生を中心とした部隊である。

 

大東亜戦史編纂室資料の宿毛湾防備概要図を見ると、宿毛市では小筑紫や大藤島、大島に8センチ高角砲マークが記載されている。この中でその砲台跡を比較的同定し易く、アプローチが便利なのが、片島から大島橋で結ばれた大島の二門の高角砲台跡である。

 

前述とは別の図を見ると、大島の東寄りに二門の高角砲マークがあり、二門の内、西側の大砲(上の写真)は南西方向に向けられ、東側の大砲は南東方向に向けられている。これはまず西側の高角砲で遠くの敵を攻撃し、撃ち漏らしたものを東側の高角砲で撃つ、ということだろう。

 

いずれも宿毛湾に進入して来る敵艦隊を狙うもので、湾外や豊後水道を北上しようとする敵に対しては海軍佐伯防備隊鵜来島防備衛所や高茂崎防備衛所、由良崎防備衛所、愛南町外泊等の大砲が狙うことになっていた。

 

戦争末期の大砲は敵機に発見されにくい、谷の斜面に設置されることが多い。大島の二門の高角砲台の内、東側のものも同様である。仮に「大島東高角砲台」と呼ぶことにするが、これは素掘りの竪穴壕の中に高角砲を設置し、背後に素掘りの弾薬壕を掘ったもの。残念ながら昭和後期の土砂崩れで、その斜め下にあった恵比須神社諸共土砂に埋まってしまった。恵比須神社はその後、「大島西高角砲台」(仮称・上の写真と下の地図)寄りの道路沿いに再建された。

 

大島東高角砲台跡地(2枚目写真と下の地図)への登り口には、「恵比須神社跡避難所」の標識が建てられている。龍王神社のやや南西である。路面のコンクリート舗装は谷の上で終わるが、その先一帯がヤブ化した土砂に覆われている。

 

西砲台跡は再建された恵比須神社の南西の小岬風になった所。道路が大岩を貫通し、切通しになっているが、この道路上から西側にかけて岩を掘下げた大島西高角砲台があったのである。弾薬は背後の谷沿いの斜面にでも横穴壕を掘って保管していたのかも知れないが、ヤブで確認は難しい。因みにこの道路は戦後、自衛隊が整備したもので、元々は浜だった。それまで皆、山越えの道を利用していたのである。

 

片島から架橋で繋がる島はもう一つある。片島地区の北西から丸島大橋で繋がる丸島(上の写真)である。当方はこの島を199012日、訪れたことがある。それは当日の「宿毛マラソン」に参加してそれが終了した後、友人と岸壁を歩いていた際、対岸の丸島に洞窟か横穴壕らしきものが開口しているのが見えたからである。

 

当時はまだ「戦争遺跡」という言葉自体、一般に使用されることがなく、当方も戦跡探訪経験はなかったのだが、その洞穴は素掘りで、立って歩ける高さがあり、奥行が数十メートルあった。丸島は無人島のため、今考えればあれは確実に第15大隊が掘った壕であることは間違いない。

 

当時島には砂利置き場と渡船施設しかなかったため、壕の見学も自由だった。丸島は南北に長いため、島の東側斜面にほかにも横穴壕があるのではないかと、先日27年ぶりに探訪したのだが、壕があった斜面一帯がヤブ化しており、且つ、立入禁止ロープや柵が設置されていた。現在は「片島マリーナ」が進出しているため、見学ができなくなっていたのである。

 

片島には他にも戦跡があった。当時、当方は片島の清家旅館(下の地図)に宿泊したのだが、旅館の天井等、何ヶ所かにグラマンの機銃掃射跡が残っていたのである。旅館は2010年発行の住宅地図には載っていたが、現在、ネット検索してもヒットしない。

 

PS:先日高知市内で中世随一の勤王武将・楠木正成の曽孫(武将で城主)の子孫宅を発見した。しかしその曽孫や子孫・末裔については全国的に伝承が錯綜している観がある。

 

その子孫宅がある地区の史跡ウォーキング記事の投稿を望む、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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新旧の海援隊長が駆け抜けた越知町の街(1)

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[番所跡と松山街道]

以前、坂本龍馬が勤王活動に於いて、高知県越知町の松山街道の焼坂にあった西ノ向茶屋で休憩した伝承があることを述べた。また、龍馬亡き後の新海援隊長として香川県の中讃地方の本土や島嶼部の統治にあたり、その後、坂本乙女を龍馬の墓参に案内した長岡謙吉も安政6年、この土佐四大街道の一つ、松山街道を通って脱藩している。嘉永57月にはジョン万次郎も帰国時に通った。

 

焼坂の登り口は横畠にあるが、そこに行くまでには越知の中心街(旧越知村)と今成を通過する。越知の中心街は藩政期、佐川土居の家老・深尾氏の政策により、商業が禁じられていたため、明治から昭和期のような活気はなかったが、松山街道と田中光顕らが脱藩時に通った赤土峠から北上する往還、仁淀川町の旧仁淀村中心地へと向かう森往還とが交差する交通の要衝でもあるため、複数の番所が設置されていた。森往還は以前解説した、那須信吾が脱藩後、兄に宛てた書状に記してあった脱藩ルート(偽の)の一部でもある。

 

郷土書や古文献を見ると越知中心街の松山街道には、「越知番所」と「仁淀川赤尾津之口番所」があったことが分かる。前者は元越知史談会長によると、松山街道・下渡通り(しもわたしどおり)沿いの武家・西家(上の写真と下方の地図)ということだったが、そこはあまりにも仁淀川赤尾津之口番所に近接しているため、位置的に可笑しい。西家は番所の番頭だったのではないだろうか。

 

位置的に考えられるのは、赤土峠から北上してきた往還が松山街道に合流した地点の西側、森往還が分岐する下渡通り入口の三差路である。越知郵便局(片岡商店跡)か、その向かいの岡邸(人力車の立場跡)、若しくは南側の佐野屋本店かその隣の居酒屋・たけ村の地が自然である。

 

仁淀川赤尾津之口番所については各文献に、松山街道の仁淀川の渡しである「三ツ尾の渡し」にあった旨、述べられている。渡し付近に番所が建てられていたとすれば、渡し跡碑が建立されている広場の地しかない(下方の写真とその下方の地図)。建立したのは越知史談会創設メンバーでもある前述の武家子孫・西氏である。

 

それら番所の総責任者は番頭で、通行人をチェックする番人を任命していた。番人の指示の下、周辺の村々で組織された番役組合から送足や伝馬を出し、越知番所から仁淀川町の池川口番所まで荷物や書簡を運搬していた。

 

西氏は元、黒岩郷中野に居住し、長宗我部元親の家臣だったが、山内氏入国後は場所柄、自動的に家老・深尾氏の家臣となった。越知村に西家が移った理由は当主が早世し、その妻が享和元年(1801)、長男・西右衛門を連れて当地の森家に嫁いだため。森西右衛門は森家当主になった後、姓を「西」に戻し、越知村西家の宗家となった。

 

幕末の深尾氏は拙著でも述べたように、高岡郡奉行所での家中裁判権の裁定を巡り、藩政・吉田東洋と対立したことにより、勤王思想に深く傾倒していた。龍馬が勤王活動の一環として松山街道を探索していたとしても、西氏も特に咎めるようなことはなかっただろう。

 

松山街道は慶応41月、松山征討のため、土佐軍1610人が通過した。征討軍の総督は深尾家分家の深尾左馬之助だったが、この左馬之助が行軍時の123日、西家(下の写真)に宿泊したのである。当時の屋敷は長州大工によって建てられ、特に欄間は豪華だったという。

 

大正6年に西家当主となった俊治氏(三ツ尾の渡し跡碑建立者)は、脱藩の道の拙著でも触れた佐川町と津野町との境界・朽木峠(下方の写真は峠道)での陸軍陣地構築作業に於ける食糧調達の命を町長から受け、昭和20815日、斗賀野村役場に向かったところ、玉音放送を聴くことになる。

 

そんな俊治氏は昭和22年、戦後初の公選町長となり、まず仁淀川の改修を行った。しかし翌年、町民税不払い問題が起こり、24年、町長不信任案が議会に提出されたことにより、俊治氏は辞表を提出、受理された。

俊治氏は郷土愛も強く、昭和30年、越知史談会を結成し、昭和54年には越知町史編纂委員長にもなり、5年後、1200ページを超える町史を完成させた。

 

越知の街中から横畠南までの松山街道沿いの史跡等の記事は次回以降、投稿したい。街道沿いには戦跡の拙著では遺構を掲載できなかった大日本飛行協会・今成滑空訓練所施設跡の遺構も確認できた。

脱藩の道との分岐から西ノ向茶屋跡までの松山街道も踏査してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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道が復旧!市原隼人氏も絶賛した神秘のにこ淵

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[自治体が把握していない復旧と新・高知県一の滝]

映画「サムライせんせい」のロケで先々月頃、高知県を訪れていた市原隼人氏はクランクアップ後も一日、プライベートで高知に宿泊し、いの町のにこ淵や県境に広がる四国カルストを探勝後、愛媛県に抜けて帰路に着いた。隼人氏は写真が趣味のため、太陽光の当たり具合によっては、水面が神秘的なエメラルドグリーンに輝くにこ渕を訪れたのだろう。

 

近年、滝を擁すにこ渕は全国放送のテレビ番組等で取り上げられたことにより、県内外から観光客が押し寄せるようになり、今日(11/12)も渕への下り口に近い駐車スペースとその斜め向かいの広場は満車となっていた。これはフィンガー5の晃や仮面ライダー・ドライブのショーが行れた「グリーンパークほどの」でのもみじ祭りも影響しているものと思われる。

 

当方はにこ渕がどんな番組で放送されたのか、いつ、探勝路が整備されたのかは知らないが、崖下にあることや大蛇の神が棲む伝説があることから、元々地元民が訪れることは殆どなかった。

 

大蛇の神とは元々、高知城下の商家の娘で、父親があくどい儲け方をしていたため、神罰が娘に当たって肌がウロコのようになったという。

年頃だった娘は城下を離れ、にこ渕近くまで来た際、民家に一夜の宿を乞うたのだが、「就寝時、絶対覗かないで下さい」という娘の言葉を無視して主人が覗くと、大蛇がとぐろを巻いていた。

翌朝、娘は民家を後にする際、主人に「あれほど約束したのに」と言い残し、にこ渕に入水してそこの主になったという。

 

公的サイトではにこ渕での飲食、入水、トイレを禁じる注意書きをしてあるが、以前、述べたように過去、この禁止事項を破った若者のグループが事故に遭っている。ここはレジャー地ではなく、神聖なる場所であることを肝に銘じた上で探訪して戴きたい。神が住まうからこその美しさ、とも言える。

 

そんな幻想的なにこ渕だが、11/12は探勝路下り口に警備員が終日立って、観光客が立ち入らないようにしていた。これは先月下旬の台風21号によって道沿いで土砂崩れが起こったため。普段、警備員が立つことはなく、ただ単に立入禁止バーが設置されているだけなのだが、もみじ祭りで観光客が倍増することによる措置だったようである。

 

しかし事前にいの町観光協会に問い合わせると、立ち入る観光客もたまにいるようなので、警備員の立つ正規コースではなく、その下り口の谷を挟んだ北側から斜面を下る踏み跡を辿ってみた。

 

踏み跡はやや下ると三差路に達し、そこを左折すると前述の谷に突き当たって終わっていた。が、対岸には国土調査のテープが巻き付けられていたため、歩き易そうな箇所に立ってみると、そこはにこ渕に落下する滝の横の崖だった(2枚目写真)。

 

木々に掴まりながらヤブ漕ぎして崖を下流に進むと探勝路の左急カーブ下方に出た。そこから土砂や倒木を乗り越え、足を泥だらけにしながら探勝路に出ると、土砂崩れ箇所は皆無だった。どうやら土砂は撤去されているようである。

 

しかし数日前、いの町観光協会に問い合わせると復旧は未定、グリーンパークほどのでは復旧は12月以降になるだろうとのことだった。と、いうことは、土砂は地元有志が撤去したのだろうか。ただ、鎖場やロープ、梯子は土砂の影響か泥だらけなのでハイキンググローブや軍手は必須。

 

神秘的なエメラルドグリーンを見るには、午後より午前の方が良さそうである。早朝も不向きだろう。適切な時間帯は前述の機関に照会されたい。

ところで、前述の踏み跡の下り口を過ぎると道路からかつて「吾北のナイアガラ」と呼ばれた、程野滝(四つの滝の総称)が懸かる断崖を仰ぐことができるが、高倍率のカメラズームで程野滝の一つ、西滝(地形図では「程野滝」と表記)の一部を捉えることができる。

 

程野滝は’90年代半ば、戸中山へ登った際、探訪したのだが、全景の写真は撮ってなかった。故に滝の落差の記憶もなかったのだが、先日、改めて西滝展望所から西滝の全景を見てみると、落差は明らかに愛媛県一の滝・高瀑(132m)を超えている。以前紹介した県内の赤滝は大雨が連日続くと落差は200m近くになり、西又東谷は200数十m以上になるが、常時ある水量の落差で言えば、この西滝が高知県一だろう。尤も、探訪地点の景観で言えば、程野滝では西滝より東滝(別称:トトロ滝)の方が見応えがある。

 

にこ渕のように、実際には探勝路が通れるにも拘らず、土砂や落石により通行を禁止する旨の看板やロープが設置されてある滝が黒潮町にもある。「朝鍋轟の滝」(上の地図。その上の写真は滝の天辺。更に上の写真は全景)である。流石にハイヒールでは歩くことができないが、革靴なら歩ける。

 

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高知県のエンジェルロード(海面出現道)三景

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[海上に現れる海底道を歩く]

エンジェルロード(天使の散歩道)とは香川県小豆島の前島から沖に浮かぶ中余島を経て大余島へと続く、干潮時に出現する海底の道。このような道は全国各地にあり、同じ瀬戸内では岡山県黒島のヴィーナスロードが有名。

 

高知県では三ヶ所の海面出現道が知られている。しかしその内、比較的距離が長い二ヶ所の道は6~7月の大潮の干潮時でないと渡渉できない。年中大潮でも小潮でも干潮時に出現する道は高知市にあるが、距離は極めて短い。

 

(1)  衣ヶ島[続島と長続島] (高知市横浜東町)

谷時中の墓のある箕越山から横浜病院リハビリ棟を経て、北東に伸びる尾根の岬から朱色の衣ヶ島橋で繋がる続島(つづきじま)があり、そのすぐ沖に長続島(ながつづきじま)、そして少し距離を置いて玉島(巣島)が浦戸湾に浮かんでいる。

一般には続島を衣ヶ島、長続島を続島と呼ぶきらいがあるが、本来、衣ヶ島とは続島と長続島を合わせた総称である。

 

戦前の「浦戸湾十景」(十景碑現存)の一つに選出されていた衣ヶ島の続島には大宝年間(701~704)、創建された古社、仁井田神社があるが、ここには長宗我部元親が鎧と兜を奉納している。

 

神社左手奥からは島の外周に沿ってコンクリートの歩道陸橋が半周しており、その終点が長続島への渡り口となっている。但し、「衣ヶ島エンジェルロード」は極めて短く、僅か約1分で渡り切ってしまう。

 

長続島は何もない細長い島だが、干潮時には一周できるため、散策には良い。また、横浜病院と衣ヶ島はジブリアニメ「海がきこえる」にも描かれている。

 

(2)咸陽島(宿毛市大島)

高知県内の海面出現道の内、最も有名で距離が長い道のあるのが、以前海軍高角砲台跡を紹介した大島の約300m沖に浮かぶ咸陽島(かんようとう)

島名は宿毛が対明貿易で栄えていた頃、大島に漂着した唐船に乗っていた明の商人が故郷を偲んで「咸陽島」と呼んだことが由来。

 

大小二つの島からなり、大きい島の方に出現道が現れる。道はS字カーブを描く独特のものだが、夏場の大潮の干潮時でも水深が膝位まであることが多く、滅多に渡れる日はないという。普通の靴で渡れなくなったのは、地球温暖化のせいかも知れない。

 

滅多に渡ることができないため、近年この道を「幸運を呼ぶ道」とも呼ぶが、終戦頃まで咸陽島は大島に流れ着いた水死体の簡易火葬場だった。

 

咸陽島への渡り口は咸陽島公園側の浜にあるが、この公園には平成初期まで海洋博物館があり、水族館のような回遊水槽が見ものだった。現在、公園ではキャンプができる。

 

(3)弁天島(大月町樫ノ浦)

樫ノ浦と西泊地区西方の海岸を樫西海岸と言い、「樫西海域公園」に指定されている。海中には120種以上のサンゴが生息しており、その珊瑚礁の美しさは沖縄やミクロネシアにも引けを取らないという。

また一帯は奇岩乱礁や沖合の小島群が点景となり、昔から景勝地として知られていた。

 

小島群の中に巨大な海蝕洞門を擁する弁天島(前の島)があり、尾根の西のピークに市杵島姫大神を祭る厳島神社がある。昔は女人禁制で、神仏分離令が発令されるまでは「弁天小宮」と称し、弁財天が祭神だった。現在でも大祭時は神輿が漁船で島に渡る。

 

こちらの海面出現道の幅員は咸陽島エンジェルロードより広く、水深も浅いが、夏場でも長靴が必要かも知れない。尤も夏場ならマリンシューズを履いた方が気持ちいいだろう。夏場以外の干潮時の水深は膝上ほど。

 

昭和51年、この景勝の地を一望できる「樫西園地」ができた。夏には「樫西海水浴場」が開かれ、シュノーケリングで熱帯魚を見ることもできる。

近くのオートキャンプ場ではボートやシーカヤックのレンタルも行っていたが、現在も営業しているか否かは不明。

 

(番外)ゴウシ山(高知市長浜)

以前紹介した、戦後最も首吊り自殺者数が多い深浦神社の北西に島のようなゴウシ山がある。精神病院・精華園のすぐ前である。地形図等では離島のように描かれているが、満潮時以外なら堤防下から「道」が続いていたと思う。「山麓」のコンクリートの残骸は真珠養殖施設跡のものである。

 

なぜ「島」ではなく、「山」と呼ぶのか疑問に思うかも知れないが、それは昔、ゴウシ山が岬だったからである。いつ頃島のようになったのかは資料・文献が散逸しているため、記憶にないが、昭和22年発行の地形図には完全な陸地として描かれている。堤防築造時、尾根の部分が開削されたのかも知れない。

 

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間近に見る歯朶ノ浦海蝕洞門(土佐清水市)

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[旧国道の隧道跡を抜けた先に]

これまで高知県内の海蝕洞門では室戸市や宿毛市の各複数の洞門を紹介した他、土佐清水市の以布利や松尾の陸地にある、潜り抜けられる洞門も公開してきた。が、土佐清水市史を読むとまだ複数の海蝕洞門が記載されている。

 

道路拡幅工事時に消滅した洞門もある。遠奈呂洞門やほうらい洞門である。後者は市の史跡にも指定されていた。

巨大な洞門はザイルがないと探訪できないケースが多いが、比較的規模が大きな貝ノ川歯朶(しだ)の浦にある歯朶の浦洞門は崖にロープが設置されており(下の写真)、アウトドアシューズを履いていれば、満潮時でない限り、洞門の前まで下りて行くことができる。

 

洞門は須崎層と呼ばれる砂岩や頁岩から成る地層にあるが、崖は滑りにくいため、スタンス(足掛かり)も効き、見た目よりも簡単に下りることができる。

 

場所は貝ノ川の国道321号の片粕トンネルができるまで使用されていた旧国道の下。片粕トンネルの西口と東口、どちらからでも行けるが、前者の方から行くと、大正4年に竣工した旧歯朶ノ浦隧道跡が恐ろしいまでに切り立った(上の写真は海側の岩)切通しとなっている(下の写真)ため、見応えがある。

 

旧歯朶ノ浦隧道跡を過ぎて少し行くと、左手に私道が分岐する三差路があり、旧国道側の路面には通行止め看板が倒れている。そこを過ぎると路肩の雑草の刈り払いが行われていないため、ミニバンのような大きな車両は、雑草をヤブ漕ぎ気味に走行することになる。

 

最初の左カーブ部に駐車する。すぐ洞門が見えてくる。土砂崩れ地を乗り越すとほどなく笹立橋が現れ、洞門上に出る。崖を下る前に少々先の旧国道から張り出した尾根に分け入り、洞門の北側の写真(上の写真)を撮る。

 

それが終わるといよいよ崖を下りる。洞門前は細長い磯で、崖との間が水路のようになっている。記念写真を撮る際はそこに落ちないように気を付けないといけないが、水深は浅そうなので、夏場ならマリンシューズを履いてその海水路を歩いてもいいだろう。

 

そこからアーチ橋である笹立橋下の水流のない砂浜の谷に行くこともできるが、この橋は下から見ると、拙著に収録している愛媛県西条市の加茂土工森林組合馬車軌道の迫門橋(迫戸橋)に造りが似ている。

その谷から南の海岸側には切通し風の岩の裂け目があり、通り抜けることができる。

 

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いの町の程野滝の落差は270mか!?

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[古文書に驚きの落差数値が]

先日、高知県いの町清水上分程野の「吾北のナイアガラ」こと、程野滝(総称)最大の滝である西滝の落差は確実に愛媛県一の滝・高瀑(132m)を超えている旨、述べたが、ある古文書には、西滝(1枚目と2枚目の写真)について高瀑の倍以上の落差数値が記されていることが分かった。

 

その古文書とは明治期に著された「皆山集」で、それに収録されている「瀑布調方之事」には程野滝(西滝)について「高さ九十丈許」と記されていた。これは落差約270mのことである。270mと言えば近畿最大の滝・中ノ滝を上回り、西日本一の滝となる。

 

実際に270mあるかどうかは分からないが、西滝展望所から見た感じ(1枚目の写真)では高瀑との比較で確実に150m以上あるように思われる。展望所から最下段の滝壺らしきものも見えているが、展望所からは木々で見えない下部にまだ瀑布が続いているのであれば270mもあり得るだろう。

 

ただ、残念ながら自治体では4本の程野滝の落差を計測しておらず、観光パンフレット等には適当に「50~100m」と記している。4本の滝の内、第二位の落差は東滝(別称:トトロ滝)、三位は大樽の滝、そして権現滝(下の写真)と続く。東滝(上の写真)も100m近くありそうである。

 

自治体としては西滝の落差を計測し、名実共に西滝を「四国一の滝」としてアピールし、今よりも広い駐車場を整備すれば、その上り口に到るまでの道路下方にある有名な「にこ淵」と共に観光客を呼び込むことができるだろう。

 

ところでかつて4本の程野滝は回遊することができたようだが、’00年代からは滝群が懸かる断崖上の道が整備されなくなり、荒廃し、現在では西滝と東滝しか回遊できない模様。更に西滝から東滝へと向かう遊歩道途中に以前あった、西滝の上部に出る道も不明瞭となっており、自治体ではその上り口に建ててある道標も撤去する意向。

 

尚、4本の滝の内、大樽の滝(上の写真は滝の天辺)だけは道がなく、その上流の小さな滝しか探訪できないが、最近、大樽の滝の滝壺へ到るルートを探っている。因みに下の写真は、探っている最中に見つけた大樽の滝展望地。但し、高倍率のカメラレンズでないと大きく写すことはできない。その展望地は送電大森川線の20番鉄塔の建つ地。上り口は清水上分敷槙の高岡神社横。

 

必ず大樽の滝のルートを開拓し、報告してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

高知県一雄大な水上イルミネーション(高知工科大学)

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[裏見の電飾滝と水上の光の道]

イルミネーションと言うとすぐ電飾球数が注目されるが、その美しさは球数規模だけでは測れない。香美市土佐山田町の高知工科大学の学生が開催している「KUT+illumination」は、キャンパス内の人口池内の歩道を基点に本館屋上と高さ20m以上の「シンボルタワー」を繋ぐ何条もの波型電飾線が設置されており、その光が水面に反射し、「水上の光の道」と化す。その緻密に計算された演出と電飾の配置は工業系大学の学生ならでは、と言える。

 

LED球数は県下最大規模の「水車亭クリスマスイルミネーション」の8分の1(2017年に於いて)3万球に過ぎないが、波型電飾線以外に池畔の複数の電飾並木の光も水面に映されるため、池面はまさに「光の宝石箱」。

 

水上の光の道はロマンティックだが、シンボルタワー側、若しくはその内部から波型電飾線の内側を見ると、「裏見の滝」ならぬ「裏見の電飾滝」を鑑賞でき、本館屋上からは波型電飾線が溢れ出ているように見える。

 

点灯期間は121日~翌年14日。1216日と17日はクリスマスイベントがあり、よさこい踊りやダンス、各種音楽演奏、手作りプラネタリウム等が披露される。点灯時間は18:0024:00。車で来訪時は園内の「東駐車場」を利用できるが、ここには国道から行けないので注意。南の東西に走る龍河洞へ向かう県道から北に折れなければならない。

 

来客に対するトイレ表示もないが、東駐車場北西の講義棟の東側の棟にあったように思う。観光施設ではないとは言え、やはりイルミ開催期間はトイレや駐車場、国道側への看板設置は必要だろう。

 

香美市と言えば去年は香美市香北町のやなせたかし記念館(アンパンマンミュージアム等)もイルミネーションを設置していた(上の写真から最後の写真まで)が、今年はホームページに一切、記載がない。自主開催ではなく、外部の企業が設置・管理していたことから、各種条件や日程等が今年は折り合わなかったのだろうか。

 

トナカイソリの列や針金電飾で作った機関車、電飾橋、電飾畑等があり、見応えもそこそこあったのだが。但し、何メートルもある巨大な「だだんだん像」(下の写真左奥は黄色い電飾畑)はイルミの開催がなくても夜、月をバックに目を光らせているかも知れない。

 

ところで数年前、四国最大規模のイルミネーションとして55万球の香川県の讃岐まんのう公園を取り上げたが、近年、四国にその球数の4倍以上の球数を誇る都会並みの施設が誕生し、中四国最大規模となっていることが分かった。また、その背後には縦走できる山脈や複数の滝もあるため、日中はハイキングやトレッキングを楽しむこともできる。その記事は後日投稿したい。

 

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中国・四国最大、250万球のイルミネーション&トレッキング

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[各種光のショーと6山縦走トレッキング]

数年前まで四国一の規模のイルミネーションは、前回も触れたまんのう町の国営讃岐まんのう公園のイルミだったが、近年、球数に於いて4倍以上の250万球のイルミネーションが丸亀市に誕生した。それが「四国のディズニーランド」こと、四国最大のテーマパーク、NEWレオマワールドで開催されている「レオマ光ワールド」である。

 

園内のありとあらゆる建物や橋、アトラクションに電飾が施されており、その様はまさに「光の国」。レオマは人造湖と島や岸辺周辺に広がっているため、特に各種形状の橋のイルミが湖面に映る姿が美しい。

 

また、動きのある絶景五大ライド・アトラクションの大観覧車、バードフライヤー・ギャラクシー(高速昇降マシン)、ロードトレイン、ウェストレイカー(遊覧船)、ビバーチェスター(ジェットコースター)もイルミに彩られているため、シャッタースピードを遅くして写真を撮れば、芸術的写真が撮れる。

 

土日は五種類の光のショーも開催されているが、追加料金なしで見られるのは、ホラーの3Dプロジェクションマッピング「マジカルナイト」と、焚いたスモークの中にレーザー光線を照射する「奇跡のオーロラショー」(下の写真)。

 

前者は他の光のショーと時間帯が重なったため、見られなかったが、後者は土日、閉園の30分前に開催される。湖面の上に人工オーロラが出現するのだが、本物のオーロラとは比べるまでもない。それでも一日の最後のショーだけに盛り上がりを見せていた。

 

しかし同じレーザー光線で天候の自然現象を再現するのなら、1987年、大阪城ホールで見たピンクフロイドのワールドツアー・コンサート(アルバム「鬱」の発売により)の方が優っていた(上の写真はCDボックス「シャイン・オン」より)。ホール天井にレーザー光線が照射され、緑色の流れる雲が出現したのである。尚、これが生まれて初めて見たメジャーアーティストのコンサートだった。今まで見たコンサートはチケット代が3,000円以下のものに限られるが、例外はこのピンクフロイド以外にピンクレディーと世良公則のみ。

 

レオマの他の三種の光のショーは、追加料金がかかるため、入園時にワイド付チケットを購入すれば良い。そのエリアは「オリエンタルトリップ」で、ブータンやアンコール王朝の寺院等を忠実に再現している。まず、入口を入った所のモスクでプロジェクションマッピングが6分開催され、それが終わるとその先のフラワーガーデン(3枚目の写真)で、音楽に合わせてLEDの色が変わる「グランドイルミネーション」が10分、行われる。最後は階段を上がった先のアンコール王朝の寺院がライト照射により、音楽に合わせて色が変わる「スーパーライトアップショー」を5分。

 

乙女チックなものでは、一般エリアで100体の巨大ランタンによる「アリスワールド」(上の写真)が開催されている。不思議の国のアリスファンは必見だろう。

他にもイルミ期間(来年2月まで)中はダンスパーティによる仮面舞踏会や各種パレードが開催される。

 

讃岐まんのう公園とレオマは近いから一日で二ヶ所を見て回ることもできる。駐車場については以前、まんのう公園の方は西口から南に折れる道路路肩に駐車すれば、駐車料金を浮かすことができる旨、述べたが、レオマの無料駐車場は道路の北側にある。南側の有料駐車場は一回1,000円もする。

当然入園料もまんのう公園と比べるとLED球数に比例してレオマの方が高い。

 

ただ、当方はイルミを見るためのだけにわざわざ丸亀まで出向いたのではない。レオマの背後には大高見峰(504.1m)を主峰とする山脈が東西に走っており、6座を縦走するコースが整備されているのである。よく利用されている登山口はレオマ西方の綾歌森林公園から登るもの。

 

最初の山、城山(375.1m)が展望が最も優れており、丸亀平野から瀬戸内海の島々を一望できる。そこから林道南を並行する縦走路に入るが、起点に道標はない。展望の悪い「子猫山」を通過すると急登の鋭鋒・猫山(467.7m・上の写真)。この山も山頂からは僅かに木の間越しに北西方向が辛うじて望める程度。

 

駒ヶ岳(370m)山頂付近からは大小の高見峰の山容が見られたと思う(上の写真)。小高見峰(467m)は展望がなく、山頂周辺は廃道同然なので、縦走路分岐から山頂までコースサインテープを付けながら登らないと迷い兼ねない。

大高見峰も三角点のある箇所自体は展望がないが、少しヤブ漕ぎして北東の高見峰神社まで行けば展望が広がる(下の写真)。

 

帰路は猫山東方鞍部の阿弥陀越から巻き道で猫山を迂回し、トイレのある第三東屋から北西に下り、のぞみ滝(落差30m・下の写真)と琴ヶ滝(後述のレオマの道からも行ける)を経由して第一東屋下に出て、登山口に戻る。

途中二ヶ所の分岐に「レオマの道」という私設道標が出ているが、これを下ってはならない。最後はレオマワールドの柵に阻まれるからである。

 

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波の化石から山中のチャートへ・九輪森(土佐清水市)

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[九輪の滝からは意外と簡単に登頂]

足摺岬を擁す高知県土佐清水市の尾浦半島と千尋岬との中間ほどの落窪海岸から約1.2km内陸部に、ネット検索しても一件しかヒットしない超マイナー峰・九輪森(くりんのもり・294.3m)がある。マイナー峰故、展望はないが、そよぐ潮風は冬期とは言え、清々しさを感じる。

 

登山口の一つ(駐車場所及びバス停)も落窪海岸沿いにあるのだが、この海岸には太古の水流や波による水中の堆積物が地層表面に残っている「化石漣痕」群や層状チャートがある。化石漣痕は言わば「波の化石」である。チャートは地層の中でも見応えのある一つで、放散虫等が海底に堆積して層になったもので、湾曲しているものも多く、それはバウムクーヘンを切った側面のようになっている。この何メートルもある巨大バウムクーヘンが九輪森登山道沿いにも点在しているのである。

 

九輪森南側の二つの谷には「九輪の滝」或いは「落窪の滝」と総称される滝が懸かっており、西の谷の滝を西滝と通称し、東の谷の滝を東滝と呼ぶ。

武市伸幸氏の著書(こうち滝100選ではない)でも紹介されているので、たまに訪れる滝マニアもいるが、降雨の少ない今の時期は水量が極めて少なく、沢自体にも水流は殆どない。しかも東滝の登山道は途中で土砂崩れを起こし、倒木群によって塞がれていた。

 

当方は落窪バス停から二つの谷が合流した谷沿いの道を遡って行き、まず東滝を往復しようとしたが、土砂崩れ地を迂回するのには急斜面を這い上がる必要があり、これ以上体力を消費すると九輪森登山に支障をきたすと思い、引き返した。

 

因みに九輪森登山について唯一記述しているサイトは、お馴染みの四国一のピークハンター、MH2氏のものだが、掲載写真では奥方がザイルを掴んで登っている写真が掲載されていることから、最悪のルートである急峻な東滝の谷を詰めるルートを選んだ可能性が高い。

いの町旧本川村の無名峰・黒滝山もサイトの記述を見る限りでは同様に崖を這い上がる最悪のルートを取っているが、何故登り易いルートを探らないのか理解に苦しむ。

当方はより多くの方に当該山の魅力を伝えるため、道が未整備の山でもできるだけ登り易いルートや面白味があるルートを著書やブログ、ヤマケイサイト等に投稿している。

 

谷の出合に引き返し、本道を進むと、バウムクーヘン状チャートやそそり立つ崖の層状チャートが現れる。

西滝(上の写真とその上の写真)は川床が崖状になっている箇所に懸かっているからすぐ分かるが、こちらも水量が少ない。もし雨後であれば右の岩盤からも滝が落下し、二条の瀑布が出現して見応えがあることだろう。

 

途中で対岸の踏み跡に移るが、踏み跡が消えかけた所でまた右岸に渡り直す。一旦谷から離れるものの、すぐ峠道に合流し、再び谷沿いを遡るようになり、石積み群を越えて行った先に一本の大木が立つ峠跡(下の写真)に達する。西滝の谷の源流上部の鞍部である。

 

そこからは踏み跡のない幅広の斜面のような尾根を適当に登り、落ち葉に覆われた広々とした山頂(下の写真)に達する。ここにも枯死した大木がある。山頂に直登する整備されたコースがあれば一時間程度で登頂できるが、本コースでも一時間半以下で登頂可故、昼からでも登山できる。

 

復路は尾根を一旦南に下った後、国有林と民有林との境界道を西に下るが、このコースは崖に近い急勾配箇所があるため、当方のように踝付近の靭帯に爆弾を抱える者は慎重に下らなければならない。

往路の谷沿いの踏み跡に下り立てば、後は元来た道を引き返すだけ。

詳しいコースガイドとコース図は→層状チャートと滝・九輪森

 

PS:以前、触れたように、年末年始は香川県の三ヶ所(複数の市町村)の「四国のウユニ塩湖」を毎日訪れ、シャッターチャンスを伺うことにした。その三ヶ所を訪問するのに適した三豊市山本町のある安宿に大手予約サイトから予約を入れたのだが、後で宿から電話がかかってきて、旅行目的や山本町の地理に詳しい理由を何度もしつこく聞かれた。何とこの宿はネット以外の方法で予約した場合、遍路客以外が宿泊時は、客の電話番号から詳細な住所等を調べるストーカー的行為も行っていたのである。

 

この異常行動について、もしや過去、何らかのトラブルがあったのではないかとネットで調べると、この宿は元、老人ホームで、何人もの入所者に対する数々の虐待が暴かれ、行政処分が下され、運営社が介護事業から撤退していたことが分かった。そんなこともあり、予約サイトでは問合せ電話番号を携帯電話の番号にしているのだろう。

 

予約サイトの評価は高評価と最低評価が半々だが、最低評価を下した者の中には、予約サイトの部屋設備備品項目に記されていたものが備わっていなかった旨を記述しているケースもあった。それら低評価レビューへの宿側の返答は「その時言ってくれていたら、すぐに帰って貰っていたのに」というものだった。

当方は「人間、悪い所があってもいい所はある」と思う方だが、果たして今回の旅行、どうなるものだろうか。

 

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ねずみ男の屋台とトトロのバス停(土佐清水市のイルミネーション)

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[千と千尋やムーミンも]

高知県土佐清水市中心街の商店街で開催されていた「天神バックストリート・イルミネーション」が今年、3年ぶりに復活していた。数年前の公的機関のサイトでは約300mの区間(プラザパルから笹工務店迄)200万球のイルミネーションが灯っている旨の案内があったが、それだとレオマワールド並みになるので、20万球の誤りだろう。

 

各商店やスーパー、個人宅、空き地、消防屯所等がLEDイルミで飾られているのだが、イルミよりも見応えがあるのが、アニメキャラクター関連のもの。一番人気は商店街のやや西寄りにある吉本書道教室の飾りつけ。

 

「千と千尋の神隠し」の千とカオナシのパネルやゴジラ、ランドセルを背負った一つ目小僧の大きな人形の横には「妖怪ラーメン」という暖簾を掲げたねずみ男の屋台が。カウンターには目玉おやじも茶碗風呂に入っている。メニューはミイラなます1,000円、ろくろかまぼこ200円等。

 

屋台の小径を挟んだ東には「となりのトトロ」で、傘をさしてメイを背負ったサツキとトトロが立つバス停の風景を再現している。右側の電灯が実写的雰囲気を醸している。因みにバス停名は存在しない「天神町」。バス会社名は「しみず電鉄バス」という、以前、紹介した市内にかつてあった「どらねこ鉄道」を彷彿させるようなもの。バス停のデザインも忠実に再現している。

 

他のアニメキャラクターでは、通りの東側にムーミン、リトルミイ、スナフキンの三人組のランタンと庭木のLED。その東にはクマやシカのランタンも。

天神バックストリート・イルミネーション最大規模のイルミは、確かそのクマらの東の十字路を北に上がった所にあったはず。以前、未舗装の月極駐車場だった所のように思うが、小丘のようになっており、天辺にペガサスと白馬、南下に針金で作った機関車、その更に下には人間よりも大きな雪だるま(というよりスノーマンか)ランタンが微笑んでいる。

 

このイルミネーションイベントについては、当方は復活していたことを知らなかったため、土曜日に急遽行ったのだが、点灯期間は1225日までと短い。点灯時間は1721時。駐車場は土日なら7:3022:00まで市役所の駐車場を利用できる。トイレもあるから便利。

ところで今日、市街地の東側を迂回して市役所入口に出るバイパス道路が出来ていたことに気づいた。市街地全てを迂回するにはまだ何年かかかるだろう。

 

市内には正月過ぎまで点灯するイルミもあるが、それはまた後日紹介したい。そこは「逆さ〇〇」が見もの。

今月に入り当方は日中、イルミが開催される市町村でハイキングや無名峰登山(ルート開拓)を行い、夜になるとイルミへ出かける、というスタイルを取っている。

今日(12/23)はまたネットでMH2氏しか紹介してない土佐清水市内のある道のないマイナー峰に登頂したのだが、MH2氏が登頂したであろう’90年代には得られなかった太平洋の展望が開けていた。彼はいつものように熾烈なヤブ漕ぎを要する最悪のルートで登っているのだが、当方は殆ど藪のないルートを見出した。それも後日公開したい。

 

 

 

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蘇った海の展望・鷹取山と逆さ富士イルミネーション(土佐清水市)

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[ヤブ漕ぎ無しのルートを開拓]

以前紹介した高知県土佐清水市の九輪森の北東に位置し、海軍の水上特攻・震洋基地の機銃陣地があった山の北方に聳える鷹取山(307.2m)は、拙著「土佐のマイナー山part2」の岩風呂山(288.8m)の頃で触れたように、無名峰ピークハンターたちが辿る送電鉄塔からのルートでは熾烈なヤブ漕ぎをするはめになる(現況は分からないが)

 

しかし先日、ヤブ漕ぎする必要が殆どないルートを開拓した。しかも意外なことに、MH2氏が登頂した頃は展望が悪かった山頂が近年一部伐採され、土佐湾の展望が広がるようになり、はるか彼方の室戸岬方面も見通すことができるようになっていたのである。山頂直下には海軍か陸軍か分からないが、竪穴壕もある。

 

そして下山後はいつものお楽しみ、市内の二ヶ所のイルミネーションを鑑賞したのだが、先日紹介した所以外では、三崎地区の田平公園イルミネーションに出かけた。ここのイルミは3万球で最大の売りは巨大な赤富士イルミ。側の池には逆さ富士が映る。メルヘンチックでもあり、座ることができるイルミ馬車がある他、池に浮かぶイルミ船や点滅する巨大蝶々もある。

 

鷹取山のルートは最初、拙著で紹介した加久見川支流沿いを遡る岩風呂山の復路を登る。ピークハンターたちは送電鉄塔巡視路の標柱の分岐からその道を上がるが、ヤブ漕ぎなしのルートの入口は、四度目の渡渉地のすぐ先にある。そこにある涸れ沢沿いを上がるのである。勾配がきつくなってくると南岸の植林帯に上がり、更に尾根上に移り、登って行く。

 

この尾根も傾斜がきつくなると、造林作業者が付けたと思われる踏み跡が南東に逸れて行き、一つ南の尾根に移り、やがて北東にトラバースして登り、鷹取山と274mピークの中間の鞍部よりやや北側の稜線に出る。すると大岐海岸に寄せる波の音が聞こえる。この海岸は広大な砂浜を擁すことから、おだやかな波のイメージがあったが、実はサーフィンが行える波が立つのであった。

 

稜線はヤブもなく、起伏もあまりないが、260mピークで直角に右に曲がり、痩せ尾根を過ぎると傾斜が幾分きつくなり、山頂に出る。

山頂からは大岐海岸でサーフィンを楽しむ者の姿も見える。彼方に霞んで見える細長い島影のようなものが、香南市から室戸市へと続く地形で、突端が室戸岬である。

 

山頂下の壕は竪穴壕と塹壕との合いの子のような壕。戦時中は今よりもはるかに展望が開けていたはず故、見張り所でもあったのかも知れない。

詳しいガイドとコース図は→蘇る海原の展望・鷹取山と逆さ富士イルミネーション

 

下山後の田平公園だが、一般の地図には載っていない。竜串の東方、国道の三崎バス停のある信号交差点を北に折れる。確か、通学路か何かの黄色い縦長の看板のある分岐を右折した所に公園の駐車場があったように思う。

 

シンデレラが乗る馬車のような形のイルミ馬車に乗れば、インスタ映え間違いなし。他の場所では、赤富士をフレームのどこに置くかを考えながら写真を撮ると良い。但し、足元が暗いので、ヘッドランプ等を持参しないと、写真撮影に夢中になり過ぎて池に転落して溺死し兼ねない。

点灯は17日頃まで。点灯時間は17:3022:00

 

他の市町村の「無名峰登山+イルミ鑑賞」のレポートも投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをブリーズクリック。

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2017年探訪地ベスト5

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今年も去年同様、一年間で探訪した景勝地等のベスト5を発表したいが、内二ヶ所は20年以上前に訪れている。

 

5位・滑床渓谷(愛媛県松野町)

ここは関西在住時の昭和期から訪れてみたかった地の一つ。愛媛県では面河渓の次に有名な渓谷ではないだろうか。渓谷名が示すように全般的に渓谷の川床が滑らかで、渓流や各滝は滑るように流れている。

 

写真の左側の滝が過去、何度も全国放送のニュース番組で取り上げられた雪輪の滝で、落差こそ80m(昭和期の計測数値)だが、滝の長さは491mという空前絶後の瀑布。

支流の滝の中には滑らかではなく、豪快なものもある。インクラインを擁する滑床林用軌道廃線跡も両岸にあるが、奥の方や山腹を走る箇所には道標があまり整備されていない。

 

4位・雪の白髪山(香美市)

香美市物部町の白髪山(1769.7m)20年以上前、秋に登っているが、春の雪山時期は登山口を走る林道にも積雪が殆どなく、お手軽雪山ハイキングを楽しむことができる。こういうメジャー峰は雪山時期、入山者が殆どおらず、山頂を独り占めでき、三嶺周辺の山々の雪景色を楽しむことができる。

 

3位・皇子渓谷(愛媛県四国中央市)

赤星山(1453.2m)登山道沿いにあるこの渓谷は滑床とは違い、川床、滝共、様々な表情を見せる。滑床渓谷のような滑らかな滝もあれば、豪快な滝や簾のような滝もある。探勝には時間と一定の体力を要すため、観光客はおらず、登山愛好家やハイカーのみが知る景勝地。

 

2位・程野滝(いの町)

これも20年以上前、戸中山登山時に訪れたが、今年は滝をメインに探勝した。程野滝(総称)最大の滝・西滝が四国一の滝であることを今回、確認できた。時間帯によっては下部に虹が架かり、美しい。

唯一探勝路がない大樽の滝のルート開拓については数週間前、失敗したが、来年、別ルートで再チャレンジしたい。

 

1位・百神滝(香美市)

落差こそ20m弱だが、こんなに素晴らしい景観の滝をかつて見たことがない。別々の谷の渓流が交わることなく、並行して滝となって落下し、同じ滝壺に落ちるような滝は極めて稀。周辺が開けて河原も広いため、非常に気持ちいい。

 

この滝のすぐ近くに落下する別の滝の上流のさおりヶ原までコースがあり、さおりヶ原もその滝の上流の沢が半周しているため、沢風がそよいでこちらも心地良い。さおりヶ原からの下りの別コースにはまた違う魅力の渓谷があり、そちらは水の色が美しい。

 

 

今年初めは愛媛や香川の野良猫スポットとその近隣の景勝地や低山を巡っていたが、春以降は滝や渓谷を巡るようになった。

今年探訪した戦争遺跡で一番見応えがあったのは、須崎市山崎鼻トーチカ(地下壕)。四国の目ぼしい大規模の戦跡は’00年代に大体探訪しているので、今後は本州や九州に足を延ばさなければならないかも知れない。

 

ネット初公開または史上初公開となる坂本龍馬の無名伝承地については’08年から’11年までは毎年著書で公表し、’10年以降は当ブログで毎年新しいものを公開しているが、今年は板屋に到る街道や番所跡、新居坂等がネット初公開となった。来年春以降も史上初公開となる龍馬の歩いた無名街道を踏査・公開予定。

ただ今年の後半は持病が再発する頻度が多くなったため、記事作成に時間がかかる歴史関係の記事の投稿が少なくなってしまった。

 

この年末年始は以前も触れたように、香川県内の三、四ヶ所ほどの「四国のウユニ塩湖」(上の写真とその上の写真は殆ど知られていない塩湖)を毎日訪れ、シャッターチャンスを狙う予定だが、晴れており、無風に近い状態でないと奇跡の景観は拝めない。また、一ヶ所以外の地は干潮時刻を少し外す必要があるが、どれだけの時間ずらせばいいのか、ということは分からない。

そしてその数ヶ所の内、一ヶ所がある市では机上で浦島太郎の生誕地を番地単位で特定することができた。これも公開すれば「ネット初公開」となる。

来年も未公開景勝地や伝承地に期待して戴きたい。

 

必ず各所の四国のウユニ塩湖を撮影して公開してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

四国新幹線未成線跡の崖のトンネル前に立つ

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[旧遊歩道跡から行ける巨大隧道]

以前、昭和60年に完工した徳島県鳴門市と淡路島を結ぶ全長1,629mの大鳴門橋は当初、四国新幹線を通すことを前提に建設されたことを述べた(→夢の四国新幹線の鉄橋があった)。その記事では淡路島側の橋内路盤を紹介したが、鳴門市側の陸地には橋台内トンネル(未貫通のまま工事終了)と橋脚基部がそれぞれ二基、残存する。

 

一基目のトンネルは鳴門公園内施設関係者用(?)駐車場背後に開口しているため、ネットでも取り上げられているが、「渦の道」入口から後ろを振り返った時に見える二基目のトンネル口にも簡単に行けることをご存知だろうか。橋脚基部とトンネルを見学して鳴門公園内の四国のみちを回遊するコースを紹介したい。

 

最初に現れるのは橋脚基部だが、鳴門公園内は中腹や山上の有料駐車場(皆、一回500)以外、駐車可能な場所がないため、少し離れた所に駐車することになる。県道11(四国のみちにも指定)沿いの網干休憩所である。無料駐車場とトイレがある。

 

そこから県道11号を北上するが、途中にある大塚製薬の保養施設「潮騒荘」は千と千尋の神隠しに出てくるような景観で、地元では「竜宮城」と通称されている。

県道183号との合流地北側には亀浦港があるが、ここに二基の橋脚基部がある。四国新幹線は大鳴門橋の海側では高速道の真下を走り、鳴門市の陸地に入ると最初は橋台内トンネルを進み、徐々に高速道からずれて行き、単独のルートを進むことになっていた。港に下りる道路分岐にはうずしお汽船の建物がある。

 

橋脚基部の見学を終えると第四駐車場から遊歩道の石段を上がってエスカヒルへと上る道路を進む。記憶がやや曖昧だが、第二駐車場の南東向かいの駐車場背後に一基目のトンネルがあったと思う。白いフェンスの扉を開け、トンネルを覆うフェンスにカメラを付けて撮影する。新幹線建設計画が宙に浮いたため、トンネルは反対側へは貫通していない。

 

トンネル北側から階段を上がって第一駐車場から南の架橋記念館エディ前に進む。エディの東向かいに二基目のトンネル口に向かう旧遊歩道跡分岐がある。このトンネルは渦の道入口に立つと真正面に見えることから、記憶にある方も多いだろう。

旧遊歩道は’90年代発行の住宅地図に掲載されていることから、渦の道が開設されるまで、若しくは道路沿いの歩道が再整備されるまで使用されていたのではないかと思う。

 

旧遊歩道は23分歩けばトンネル手前のヤブに達する。と言ってもヤブは僅かな距離で、1分程度で通過できる。ヤブを抜けるとトンネルの下に出る。新幹線のトンネルが如何に大きいかということは一枚目の写真で一目瞭然。

 

ところで大鳴門橋の新幹線通行予定空間に設けられている「渦の道」だが、同じく明石海峡大橋の新幹線通行予定(昭和期)空間に設置されている「舞子海上プロムナード」よりも迫力がある。上の高速を走る車の振動がダイレクトに伝わる他、渦潮沿いを航行する観潮船が見もの。特に淡路島から出航する500人乗りの巨大観潮船「咸臨丸」では、大勢のデッキの客が渦の道から渦潮を見下ろしている観光客に向かって手を振っている。

 

二基目のトンネル見学後はエスカヒルか遊歩道で鳴門公園最高所の鳴門山展望台に上がって絶景を堪能し、千畳敷観潮台に下りてくると孫崎展望台と相の浜を回遊したいものだが、相の浜から孫崎への遊歩道は通行禁止になっているため、相の浜は往復し、孫崎はベイリゾートホテル鳴門海月(奥の駐車場側)を基点にミニ回遊するしかない。

 

千畳敷観潮台からは南西方向の道路沿い歩道を歩いて渦の道まで行き、そこから二基目のトンネルを望んだ後、渦の道を歩かれたい。

エディは現在、リニューアル工事中のため、旧遊歩道分岐からは南のお茶園展望台へ進んだ後、四国のみちを下って潮騒荘南東向かいに下りてくるとほぼ回遊したことになる。

 

この日、鳴門を後にすると香川県まで移動し、「四国のウユニ塩湖」に寄ったのだが、大晦日から13日までは鏡面の景観は現れなかった模様。それでも「四国一美しい日没の景観の海岸」に変わりはなかった。

 

PS:今年の正月はその海岸以外にも香川県本土のエンジェルロード(海底出現道)、浦島太郎の生家跡(番地を特定)を始めとする各伝説地、荘内半島や粟島の「機関車先生」ロケ地、磨崖仏群や鉱山跡を巡る回遊ハイキング等、様々な地を巡った。今後、レポート記事を投稿して行きたい。

 

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空海の巨大磨崖仏から鉱山跡と展望城跡を大回遊

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[岩窟の磨崖仏群や火口跡の池も]

香川県さぬき市の津田湾南に火山(259.8m)から雨滝山(あめたきさん・253.2m)に連なる山塊がある。両山共、中腹まで車道が通じているものの、そんな単純な車での移動コースでは火口跡の神秘的なパノラマを誇る池や廃墟の鉱山施設等を巡ることができない。そこで自治体が整備した道に廃れた道や鉄塔巡視路を加え、山道と車道歩きを何度も繰り返す二山を最も楽しむための回遊ルートを設定した。

 

起点は自治体が整備している「火山展望遊歩道」登山口。これは登山口の東方にある花生山蓮花院西教寺から奥の院である「穴薬師」に到る道程に整備されている西国三十三ヶ所観音霊場のミニ霊場参拝道の登山口でもある。

 

奥の院までは車道化されているが、登山口から僅か10分少々で穴薬師に達する。手前には弘法大師が一夜で彫った言われる巨大な数メートルに及ぶ磨崖仏がある。奥の院内の本尊が薬師如来の磨崖仏であることから、この磨崖仏も薬師如来ではないかと言われているが、デザインが同じく弘法大師が彫った高松市の五剣山中腹の大日如来磨崖仏に似ていることから、ここの磨崖仏も大日如来である可能性がある。しかし風化が著しいため、確かめようがない。

 

その奥の院の扉を開けると異様な光景が広がっている。以前紹介した、大泉洋が怪奇体験をした四国霊場71番札所・弥谷寺の獅子の岩屋のように、岩窟を覆う形で堂宇が建立されているのである。しかもその岩窟内は一部が鍾乳洞の石柱のようになっており、その石柱を始め、各所に薬師如来や不動明王、十二神将等が浮き彫りされている。

大師が彫った磨崖仏の上部の巨岩にも役小角等の磨崖仏が彫られているが、それや穴薬師内磨崖仏群は鎌倉時代の作だと言われている。

 

展望遊歩道は奥の院西から火山と雨滝山を結ぶ稜線に上がった後、火山分岐を過ぎ、稜線の東の突端へ出て終わっている。そこにあるのが火口跡だと言われる鬢盥(びんだらえ) という池である。広さは16m×10m程度で子供でも入水できそうな位、浅い。この北西のヤブの中にも池跡がある。

 

「鬢盥」の由来は天正11(1583)、長宗我部元親軍が雨滝城に侵攻して城主を降伏させた後、兵士がこの池で洗髪したという伝説によるもの。ここは展望所としてベンチも設置されており、眼下には鵜部鼻や陸繋島である弁天島、東かがわ市沖の島群、津田湾から瀬戸内海まで見渡すことができる(下の写真)。

 

鬢盥からは火山分岐まで引き返し、火山に登頂するが、こちらはマイナー峰だけあり、展望はない(下の写真)。

火山からは更にマイナーなルートを辿る。西に急角度で落ち込む尾根を下り、中腹で南東の斜面に折れる踏み跡を進み、東讃採石場跡のズリで踏み跡が途絶えると、ズリ沿いの涸れ沢のような廃道化した道跡を下る。この道跡は鉱山の貯鉱庫に出る。

 

貯鉱庫(下の写真)の先はヤブ化しているが、すぐ鉱山内車道に出て、これを下り、柴谷トンネル上へと向かう旧道に出る。

トンネル西方の柴谷峠手前で一旦鉄塔巡視路に折れた後、すぐ尾根直下を走る雨滝山登山道へと上がり、雨滝山へ登頂する。

 

雨滝山は中世の雨滝城跡であり、山頂部(下の写真)は広大で鬢盥に勝るとも劣らない展望が広がっている。ここからは雨滝森林浴公園に含まれている西の尾根道を下って遊歩道に指定されている道路に出て、これを柴谷トンネル南東の道路の急カーブ部まで下り、そこからまた少々起伏のある鉄塔巡視路を南下し、登山口の800mほど手前の道路に出る。

火山と雨滝山を巡るのに、このコース以上に優れたルートは存在しないだろう。コースガイドとコースマップは→磨崖仏群から火口跡池と鉱山跡とパノラマ城跡を回遊

 

PS:今年の正月旅行はこの10年間で最も優れたものだった。今回の山行は元旦に行い、前回投稿した四国新幹線未成線跡は12日に巡った。他の日は香川県本土側のエンジェルロード(海底出現道)や浦島太郎伝説地、離島の山等を探訪した。それらは今後、投稿して行きたい。

 

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海底のコンクリート歩道が出現!~荘内浦島太郎伝説(1)~

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[丸山島エンジェルロードと機関車先生ロケ地]

 

全国各地の浦島太郎伝説地の内、点在する伝承地が最も多いのが香川県三豊市の荘内半島とその周辺の島。その島の内、半島から目と鼻の先にある無人島「丸山島」には浦島太郎を祭る浦島神社こと竜王宮がある。

 

尚、「浦島」とは「荘内七浦」のことで、大浜浦、積浦、生里浦、箱浦、香田浦、粟島、志々島の総称。「竜王」は海を支配する神で、この地方では竜宮城に住む乙姫とされた。

 

丸山島の対岸、鴨之越の浜は太郎が十七、八歳時、家ノ浦の父・与作の生家に行った帰り、子供たちにいじめられていた亀を助けた場所である。

気の優しい太郎は子供らから亀を買い取り、衰弱していた亀に携行していた竹筒に入れてあったキビ酒を飲ませ、海に放してやった。

 

丸山島は干潮時、鴨之越と陸続きになるが、その時、海底からコンクリート歩道が出現する。何とも奇妙な光景だが、この道は竜王宮隣の明神社の参道なのである。

参道は大潮時だけではなく、小潮時にも出現するほど水深の浅い所を通っており、干潮時以外でも上の県道から見下ろすと、海中にはっきりと道が走っているのが見える。特に干潮間近時は潮が両側に引いて行くのが見え、神秘的光景が広がる。

 

この鴨之越の浜と丸山島は以前何度か触れた(と思う)坂口憲二初主演映画「機関車先生」のロケ地でもある。満潮に近い時間帯に撮影され(上の写真とその上の写真は同じ場所)、憲二(新任教師役)と校長役の堺正章は、小学校の教え子たちと参道を海没部手前まで歩き、浜では子供たちが写生し、憲二と正章は岩場に腰掛け、会話していた。

 

また、ラストシーンでは丸山島の波止の先端に正章が立ち、小船で旅立つ憲二を見送った。但し、憲二が旅立つシーンは別の場所で撮影されている。つまり正章はただの海面に向かって手を振っているのである。

 

全くの余談だが、当方が’03年、演劇活動に身を投じるきっかけを作ったのは顔が正章そっくりの人物だった。

半島にはあと一ヶ所、太郎伝承地のロケ地があるが、それは別の回に紹介したい。

 

鴨之越には観光客用の私設駐車場(無料)が整備されているが、参道起点にはバス停「鴨之越」(詫間町大浜鴨之越)から徒歩10分ほどで行くことができる。バス停付近に丸山島の手書きの看板が出ているが、小さいので車利用者は見逃さないように。

 

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