<二層構造で収容人数は300人以上>
以前、愛媛県にある四国一の民間防空壕を紹介したが、今回の大分県臼杵市にある「屋敷余り特殊地下壕」、通称「赤猫洞」は、それとは桁違いの大きさで、収容人数は300人以上という西日本一、或いは日本一の規模を誇る。
二層構造になっており、下層には10畳敷程の部屋が7室の他、便所、炊事場等があり、上層にはそれ以上の数の小部屋や保管庫が連なる。一層部と二層部は180度反転する斜路で結ばれている。これら全てが素掘りだが、天井の高さは軍の壕位ある。
これだけ大規模な地下壕であるにも拘わらず、記録は一切残っておらず、施工時期等、不明だが、設計は下層部がある平清水地区の民間の測量士が行い、施工は野村地区の石工が行っている。掘り出した土砂の搬出は地域の婦女子が行った。
各部屋の前と背後には廊下的通路があり、各出入口は爆風を逃がす施工がされているため、戦争末期、この壕は出入口(6ヶ所)付近の民家と共に陸軍に接収され、部隊の司令部として使用されることになった。しかし部隊が移ってくる前に終戦を迎えた。
そんな巨大壕だが、一般公開されるようになったのは2010年代らしく、まだ一般の認知度は低い。見学は予約制で、地権者のガイドとジュース1本が付いて1,000円。年中無休で9時~18時。因みに当方は元日の朝、訪問した。
見学時間は事前講義も含め、40分と聞いていたが、1時間以上要したと思う。懐中電灯は貸与されるが、ある程度のレベルの写真を撮るなら、300ルーメン位以上の照度のヘッドランプを持参した方がいいかも知れない。
見学用入口は、急傾斜工事がなされ、オーバーハング部が取り除かれた巨大な阿蘇溶結凝灰岩の下部にある。位置的に壕は福良天満宮の下にあたる。境内にあった深い井戸も、壕を掘削する際、掘りぬかれており、現在は天井部に円形の竪穴として名残を留めている。
入口を入った所の左手には二基の竃、右手には洗い場がある。竃の向かいの空間は食糧庫か。
鍵型通路を抜けた先の三差路から右の長い通路が、7部屋が面している廊下的メイン通路。各部屋は隣組の組単位で避難していた。
埼玉県にあった岩窟ホテルではないが、ゲジゲジさえいなければ、「防空壕旅館」として営業しても面白いかも知れない。実際、平和学習の体験メニューとして、この部屋に宿泊するプログラムもあるようだが、未だに利用者はいない模様。寝ている間に、各種虫が身体を這うと思えば、なかなか眠れない。
メイン通路の中程から右に分岐する通路は、便所から汲み取り口のある出入口に続く。便所はコンクリート造りで、手前の小さい土台が大便器のもので、ユニットバスのような箇所が小便用。
メイン通路の突き当りから右にカーブする通路は、一段高い所に出る出入口。殆どの出入口の向かいの壁は、爆風を逃がすため、斜めに掘られているが、それができない箇所は、前室付き扉を三枚連ねていた。
10畳部屋の背後の通路に抜け、戻るような形で進んでいくと、突き当りから右に急カーブする上り坂になり、二層部へと上がる。
最初の十字路の左奥地面にある円形の窪みが、前述の井戸跡で、天井を見上げると深い井戸が続いている。その先は二層部の出入口が二ヶ所ある。
十字路に戻ると、そこから西や南の空間は迷路状になっている。ここの通路はS字状になっており、12の小部屋が面している。これらの部屋は家族単位での避難用、ということだが、横になることもできない狭さ故、組単位の物資の保管庫だったことも考えられよう。
S字通路の突き当りには一段高くなった部屋があり、何か特別な利用をしていたのではないかということであった。→公式サイト
この翌日は隣県の旧車の展示館に行ったのだが、機会があればその記事も投稿したい。
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