≪松山街道の坂本龍馬を見た人物≫
松山街道は以前触れたように、坂本龍馬の脱藩の道(「真実」の方)の日高村旧日下大橋(藩政期は城下から西で唯一の永久橋)から分かれて、橋の西袂、観音堂番所を基点とし、加茂番所を経て佐川町から越知町に入り、下山道、焼坂、朽木峠(脱藩の道の峠とは同名別所)で仁淀川町に入り、鈴ケ峠(すずがとう)、池川番所、用居番所を通り、伊予国境・境野(されの)峠に至る街道で、土佐藩軍が松山藩追討時、行軍した街道である。
その街道の越知町横畠東堂岡の「西ノ向茶屋」に龍馬が立ち寄った伝承がある。これは今月の越知町広報紙にも記載されている(情報を提供したことで当方の名も載ってる)、信憑性の高い伝承。
ただの口碑とは違い、龍馬を見た人物が特定されているのである。それは越知平家会の某会員の、小学校時代の同級生の祖
母。その祖母が西ノ向茶屋で働いていたのである。
松山街道は近藤長次郎の脱藩の道でもあり、ジョン万次郎の帰国道でもあり、、よさこい節の純信の「最後の脱藩の道」でもある。今でいう、二桁国道並の主要往還だった。
松山街道は所々ヤブ化しながら、車道をショートカットする形で残っており、西ノ向茶屋跡まで、車でも行ける。
但し、茶屋跡は車道の開通により、当時とは様変わりしている。今、倉庫が立っている所から車道を挟んで東側の法面までが茶屋跡で、茶屋は広場の一角にあり、倉庫を挟んだ車道の東側法面の箇所には、松の巨木があった。低い箇所にあ
る枝には、腰掛けられるほどだったという。
また、倉庫横の道標から続く歩道と路盤の石垣は近代に造成されたもので、藩政期の街道は倉庫の背後から、石垣道の左カーブ部へと上がっていた。
龍馬がいつ、何のためにここを通ったのかは分からないが、最適の脱藩ルートを探していたのかも知れない。また、かなり遠回りになるが、茶屋から更に登った箇所から脇道があり、それは仁淀川北沿いの往還に繋がっており、それを辿ると、旧吾川村橘に至る。
そう、橘で久万街道と合流するのである。橘は伊予に隣接した集落で、伊予に入って最初の集落が、前回解説した岩川。つまり、龍馬が立ち寄った西ノ向茶屋と、龍馬が滞在した旅籠・板屋は、一本の道で結ばれているのである。そのルートも明治期の地形図で確認済。
「龍馬の街道」はまだまだ続く。
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