≪今も続く店と脱藩要因事象の番所≫
坂本龍馬が武市瑞山の道場に出かけた帰り、よく天明元年(1781)創業の「丹 吉釣具屋」へ立ち寄っていたことは去年、龍馬の無名史跡一覧で解説しました。その時、今に続く店舗の写真を掲載しなかったので、今日、貼付します。
この釣具屋は寛政4年(1792)の高知城下町家図には、「鍛冶丹吉」と記載されており、また、昭和12年の南国土佐大博覧会を記念して制作された「高知街立体図」にも「たんきち釣具」として図示されており、藩政期から昭和前期まで、高知を代表する釣具店だったことが分かります。
龍馬はここで釣り針等を求めるだけで
なく、近くの堀で泳いだ後、昼寝させて貰っていた ことも当主・広瀬氏に代々伝わっています。四万十市の「龍馬昼寝の松」と言い、思案橋番所南東の「龍馬
居眠りの堤」と言い、龍馬は昼寝が日課だったのかも知れません。
堀と言えば、現在でも藩政期からの堀川 と新堀川 がありますが、貼付絵図のように、両堀川が交差する周辺は藩船等が毎日航行していたので、泳いだとすれば新堀川の北方辺りではないでしょうか。新堀川沿いは、武市瑞山道場から釣具屋へ行く通り道でもあります。
また、堀川の北や新堀川東に並行する堀や、それらの堀から分岐する堀も複数あ ったため、そこらで釣りや水泳を行って
いたのかも知れません。
さて、肝心の丹吉釣具店ですが、土佐電鉄菜園場町電停から徒歩数十秒の所、 かるぽーとの北東にあります。電車通りの北で、大きなロゴマークもあるのですぐ分かります。但し、建物は現代の店舗です。尚、休日は休業していることが多々あります(定休かも)。
ところで堀川と言えば、明治30年3月、龍馬の甥、坂本直寛が北海道への移民団を
出航させた跡を記念する碑があることで有名ですが、そこから更に堀川沿いを下って行けば、三つ頭番所跡に行き着きます。解説板がある所は番所の関門があった辺りで、番所の建物はその北東の駐車場辺りにあ りました。
この関門には文久2年3月2日、つまり、龍馬が讃岐や長州を旅し、阿波の鎌村熊太に活動資金を付与されて帰国した数日後、龍馬の脱藩の原因を作った人物の姿がありました。土佐勤王四天王の一人、吉村虎太郎です。
虎太郎は文久2年早々、国を抜けて長州や九州に渡り、久坂玄瑞や平野国臣と会い、薩摩の島津久光公が近々上京して倒幕の烽火を上げる、という情報を得ます。
2月27日、虎太郎は帰国し、武市瑞山に
土佐勤王党もこれに加わるよう、説得しよ うとしますが、瑞山は藩論統一を第一に考えていたため、首をたてに振りません。
そこで虎太郎は同郷の土佐勤王党員・宮地宜蔵や勤王党員でありながら藩監察吏であった曽和伝左衛門と共に脱藩すべく、三人は3月2日、三つ頭番所側の船着き場(関門を抜けた所)から舟を漕ぎ出します。
が、その瞬間、武市瑞山が岸壁に走り寄って来て、伝左衛門に、勤王党に監察吏がいなくなると藩内の重要な情報を得られなくなるから戻るよう、叫んだのです。
伝左衛門は瑞山の言うことを聞き入れ、虎太郎には 偽の通行手形を渡しました。そして虎太郎は大洲長浜の冨屋邸で宜蔵と落ち合う約束をし、脱藩、長州を目指します。
3月15日、虎太郎たちは下関の白石正一郎邸で長州藩や薩摩藩、久留米藩の志士たちと挙兵の決議をするのですが、その場に土佐の沢村惣之丞もいました。惣之丞はこのことを土佐勤王党に知らせるべく帰国、日数をおかず、3月24日、龍馬を連れ、再び脱藩することになるのです。
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