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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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坂本龍馬の天神大橋逸話を伝えた者

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脱藩の道須崎説の根源となる人物に施術した者

以前投稿した、高知県内の坂本龍馬のマイナー史跡一覧の天神大橋についてだが、その時、記したように、龍馬が橋の欄干に腰掛けて夕涼みをしていた、という伝承を後世に伝えたのは、脱藩の道須崎ルート説誕生の根源となった証言をした龍馬の友人の妹、安田たまきの掛かり付けの灸師である。子孫である現当主はその記事で触れたように、元高知新聞記者の谷氏。



この谷家の先祖は、藩政時代前期の土佐自然、戦跡、ときどき龍馬-要法寺を正面に谷家(右手)と西本家 の有名な朱子学者、谷秦山と親戚関係にあった。谷家三代目中庵布教(ふきょう)の祖父は、秦山の長子、垣守である。



谷家の始祖は長宗我部元親の家臣だったが、山内氏入国後、帰農しており、中庵三的(さんてき)の時、医学に秀でているということで、藩医に登用された。この三的が「潮江の谷家」初代とされる。



龍馬の時代の当主は、五代・中庵惟和(文久2年死去)から六代・玄宣克定であるが、その頃、住居は土佐勤王党員・小南五郎(屋敷跡の道路を挟んだ南に碑あり)の五軒東、現在の愛宕病院本院の建つ地にあった。



克定ははしご灸を開発、創始者となっ自然、戦跡、ときどき龍馬-谷家当主邸 た。この灸は、背骨を挟んで両側にもぐさを首から腰にかけてすえるもので、血行が促進され、新陳代謝が活発化する。「高知の三灸」の一つに数えられ、近代、その評判は更に高まり、四国一円にまで轟いていたという。



余談だが克定の弟・孝成は、当初、龍馬とも慶応期、親交のあった佐々木高行の妹と結婚していた。が、後に離婚(死別か否かは不明)し、市川才と再婚している。


またまた余談だが、その四万十町宮内にある才の実家、市川家は戦時中、高知海軍第三飛行場(通称・宮内飛行場)配属の高知海軍航空隊隊員の宿舎の一つになっていた。



安田たまきに施術していたのは明治元年生まれの七代・民衛(たみえ)である。民自然、戦跡、ときどき龍馬-南側の谷氏邸 衛が4歳か5歳頃、江ノ口(旧村)から天神大橋南西、妙修寺跡東側敷地に移転した。

かのライオン宰相・浜口雄幸も学生時代、脚気を治すため、民衛の元へ六日間通ったことが雄幸の次女・北田悌による回顧録に記述されている。



尚、民衛は、龍馬の脱藩時、食事を出した佐川の藩士・山口彦作の親類、山口正徳とも交流があった節がある。正徳と同様、俳句も嗜んでいたのであるが、若尾瀾水の著した書物の中に、正徳と共に民衛のことが記されているのである。



民衛は一時期、自由民権運動にも参加していた。隣家の士族・西本直太郎(子孫は現在も現地に在住)が立志社の下位団体・発陽社社員だったことも影響しているだろう。


明治後期から大正初期にかけては潮江村長を務めた他、大正13年には高知市との合併を検討する合併委員にも選出される等、社会的地位も高かったようである。



龍馬のことを調べていくと、知られざる土佐の歴史が見えてくる・・・。

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