藤田篤治邸跡を後にすると、徒歩で南北に走る狭い道路を北上する。水道中継タンクを過ぎた先で小径になったと思うが、左手の最奥の民家北の畑が、岡上菊栄が通っていた小学校跡だと言われている。
篤治邸で夜明け前から深夜まで働かされていた菊栄にとって、学校は束の間の安らぎのひとときだったかも知れない。
私は辿らなかったから道の状態は未確
認だが、そこから北に野良道が続いていたはずで、東の道路から下りてくる農作業道に繋がっている模様。それを辿って東の方の南北に走る道路に出ると北に折れる。すぐ右手の山中に上がる小径が現れる。そこは墓地山で、ここに藤田篤治とその長男・喜全等の墓がある。
どちらも道の左手にある。喜全の墓はすぐ分かるが、篤治の墓は「晩翠 藤田先生墓」と刻字されている。晩翠というのは号で漢詩を門人らに教えていたそうである。子孫は山北にはいないが、一族子孫は県内外に散らばっている。それでも、毎年墓参に来る子孫もあるそうである。
次の伝承地は徒歩でも行けるが、車で向かった方がいいだろう。墓地沿いの道路
を北上し、角に水槽がある三叉路を西に折れる。少し先の三差路は北に折れた方が無難。
東西に走る道へ出たら左折。ヘアピンを過ぎた先のY字路は右折。右手に二軒目の家は旧家だが、その付近の邪魔にならない所に駐車する。
その旧家の東沿いの野良道の北側に石柱が建っているのが見える。これが近年、テレビ等でも取り上げられた坂本乙女宅跡碑である。跡地はかなり広い畑になっているが、この一角に「龍馬の駒繋ぎ跡」という箇所があったらしい。恐らく何十年か前まで、大木が立っていたのだろう。北側には井戸も残っている。
しかし疑問が残る。乙女と樹庵は高知城下で暮らしていたのだから、ここに住居跡があるのは腑に落ちない。しかも龍
馬まで。しかし藤田篤治や門田宇平の屋敷等乙女と直接及び間接的に関わりのある人物が複数山北にはいたのだから、何らかの事情で短期間、滞在していたとしても可笑しくはない。
再び車に乗ると、西から南へと進み、私道を含んだ十字路は西に折れる。大きく曲がる連続するカーブを過ぎて南方に来ると、備前焼の工房の南の三差路を西に折れる。西進する道路が北向きに変わる地点左手に二軒の民家が並んでいるが
、南側のS氏宅の旧母屋(今は物置代わり)が、大正初期に移築された篤治邸の母屋で、龍馬がもたれかかっていたという「龍馬の床柱」が現存する。
S家の母屋として使用されていた頃なら、内部見学できたかも知れないが、昭和後期以降は、どんな歴史研究家や文筆家、記者等が見学を申し入れても断られている。その家屋は入口を入ったすぐ右手にある。西側の納屋と連結されてい
る。
この南方にある、吉田東洋暗殺犯の一人、安岡嘉助邸跡や、乙女の一弦琴の師匠、門田宇平邸跡等は龍馬記念館や高知新聞社その他の書籍で紹介されているから、ここで詳細を述べることは控えるが、道順だけ解説しておく。
S氏邸の東方の三差路まで引き返し、南に折れる。道が東向きに変わった先のT字路は右折。県道に出ると適当な所に駐車するしかないが、嘉助の一族の屋敷「安岡家住宅」公開日には、県道
に出た所の東方、「喫茶みかん」の南向かいが臨時駐車場になる。
みかんから東に五軒過ぎると、左手に宇平邸跡の看板が現れる。
安岡家住宅はみかんから西方向、右手にすぐ現れる。嘉助邸跡へは、安岡家住宅の門前から南西に向かう小径を歩き、車道が交差する四差路は北に折れる。すぐ左手の畑に看板が現れる。
尚、三回に亘って解説した全ての伝承地は、徒歩で回遊しようと思えばできる。車は山北公民館南の広場にでも駐車すると良い。トイレもある。トイレ側のバス停は「市場通」。
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