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Channel: 次世代に遺したい自然や史跡
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私が投稿する民放の社長の龍馬との関連

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[坂本権平が西郷に龍馬の愛刀を渡した地]

昨日、三たび「高知さんさんテレビ」から連絡があり、先日投稿した写真「巨人の手水鉢」(越知町の小日浦川上流の奇観)116日、番組内で紹介したい旨の連絡があった。連絡者は正木麻由アナ。正木アナは徳島市出身の入社2年目なので、当然私の新聞報道記事等は目にしたことがない。



これまで、あまり投稿頻度が多いと迷惑だろうと思い、10日に一回ほどの投稿に抑えていたのだが、三回連続採魚梁瀬森林鉄道東川線終点手前 用されたので、これから毎週投稿させて戴くことにした。だから、これまで撮ってきた素晴らしい景観や奇観の写真の一部も改めて撮り直し、投稿しようと思っている。その中にはこれまで何度か触れた、終点に線路が残る魚梁瀬森林鉄道東川線廃線跡の巨大橋脚も含まれる。



ところで、高知さんさんテレビの元副会長(拙著では元社長と記したが、当時の参考資料が散逸しているため、確認が取れる「元副会長」という記述にした)・川崎氏については、拙著「龍馬が辿った道」で少し触れたが、その先祖は河田小龍に画を習い、西郷隆盛や坂本権平にも会っている。こう聞けば、龍馬研究家ならピンと来るだろう。そう、土佐で三本の指に入る豪商・田村屋の主人、川崎源右衛門である。この名は当主が代々、現代まで引き継いでいる。



初代源右衛門は生国こそ、私の母方の宗家始祖とは違うが、宗家同様、藩主・山内公を頼り、土佐に入国している。いや、宗家は「一豊公に従い入国」したのだから、厳密には同様では海軍掩体壕上から遠望する田村地区 ない。因みに最近、私の父方の宗家(地元地区で一番多い苗字だが、戦後我が家は母方の苗字に変わった)先祖も山内一豊公の家臣ではないかと思われることを地区の老人から聞いた。



が、源右衛門は望みが叶うことはなく、南国市田村で帰農した。その後、享保13(1728)、高知城下に出て丁稚となり、商いの経験を積み、延享2(1745)に独立。藩士の仕送屋として財を築き、御用商人となった。



慶応3216日、西郷隆盛は、山内容堂公に京での四賢侯会議に出席して貰うため、土佐を訪れ、翌日、容堂公の散田屋敷敷地内の此君亭(跡地は拙著等で解説)で謁見する。西郷は22燕雀楼跡 まで土佐に滞在していたのだが、その時の宿舎が源右衛門邸別宅・燕雀楼(えんじゃくろう)だったのである。現在、ファミリーマート高知南はりまや町店の建つ地周辺である。

尚、22日に西郷は宇和島に向けて発つのだが、宇和島藩主と謁見した場所も伝えられている。来年はその記事も投稿したい。



西郷が燕雀楼に滞在中、訪ねてきたのが坂本権平で、西郷に銘刀・吉行を預け、龍馬に渡してくれるよう、頼んだ。吉行はその後、鹿児島で中岡慎太郎に預けられた後、龍馬に渡された。しかしその甲斐もなく、吉行は龍馬の命を守ることができなかったのである。



ps:長らく「お龍、土佐和食へ」シ神輿巡幸 リーズや戦跡の記事を投稿してないが、それは地元鎮守の大祭準備で忙しかったため。龍馬関係や戦跡記事については、複数の文献や資料を見ながら文章を作らないといけないので時間がかかる。短い時間(1時間半以内)で済む魚梁瀬森林鉄道東川線の記事を先に投稿するかも知れない。

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