[ネット初公開ルート]
前回の記事で述べた高知県本山町の赤滝だが、展望所からは全体像が見えない。展望所から見える範囲の滝の落差だけでも、これまで四国一と思われてきた高瀑を超えているが、まだ瀑布は下に続いており、最下段の飛瀑を合わせると高知新聞社刊の「滝をゆく」に掲載されていたように、落差は約200mとなる。
以前触れた西日本一ではないかと思われる奈良県の中ノ滝(245m)はロッククライミング経験者でないと探訪できないと言われているため、装備なしで探訪できる滝としては、西日本一になる可能性がある。その探訪ルートを先日、見出したのである。
桑ノ川の対岸への渡渉地は前回触れた林用軌道(森林鉄道)の鉄橋跡のやや手前にあった。
まず、桑ノ川林道(桑ノ川橋が起点)からその地への下り口を説明しよう。林道沿いの最奥の集落は瓜生野の桑ノ川集落だが、現在、民家は二、三軒しかなく、常時居住している人家は一軒しかない。しかしその居住者は出身や育ちは他所。
最奥の人家と畑を右手下に過ぎると、緩い右カーブの谷部となり、そこで舗装道は終わる。その先のカーブミラーの建つ左カーブ路肩(上の写真と下の地図)に駐車する。カーブミラー先の路面の路肩は水切り溝のようになっており、そこから下の植林帯には、ピンクのマーキングテープが点々と続いている。林道から見下ろす限りでは、踏み跡があるように思えないが、これは森林組合が利用している作業歩道なのである。尤も、廃線跡を少しでも長く歩きたければ、最奥の人家裏から下りれば良い。
作業歩道はピンクテープの先導がないとルートが分からなくなるほどの獣道程度だが、最初は尾根を下り、その後、西の斜面に移り、右に折り返して下り、廃線跡に下り立つ。そのやや東は桑ノ川川側が崖になっており、川面を見下ろすことができるが、そこから渡渉ルートが見えている(下の写真)。
廃線跡からは足場の悪い箇所を下りて行く。踏み跡はないに等しい。渡渉ルートには一応、川石が対岸へと続いているが、どれも斜めで、濡れている石も多く、普通に足を置くと滑る。そこで思案した挙句、10~20㎏ほどの河原の石を二、三個、手前の方に放り込んだ。そして自然の飛び石に両手両足をつき、スパイダーマンのように渡渉して行った。これならば石が濡れていても滑ることはない。
トレッキンググローブは濡れたが、トレッキングシューズの上には登山スパッツ(ゲイター)を装着していたため、何とか靴の中に水が入ることはなかった。
尚、前回記したように、膝まで水に浸かってもいいのであれば、廃線跡を鉄橋跡のやや手前まで進み、そこから渡渉すれば時間を多少短縮できる。
対岸に渡るとやや下流側の庇状の長岩から植林帯へと這い上がった。最も川寄りには踏み跡もある。岩に突き当たると踏み跡は途絶えるが、斜面を少しだけ上がり、再び上流へと向かう。
踏み跡がなくとも、川寄りの所に歩き易い箇所がある。桑ノ川川は所々エメラルドグリーンに透き通っている。
記憶が定かではないが、鉄橋跡の手前かすぐ先の植林帯には土砂崩れ跡が広がっていた。そこは下方の伐採跡が残る平地に下りて進む。
鉄橋跡からは廃線跡を歩くことになるが、軽快に歩けるのは最初だけで、至る所で土砂崩れや路盤の崩落を起こしており、上り下りが頻繁に続き、体力が消費される。
地形図上の地形と実際の地形が異なっている箇所もあり、現在地確認がし辛い。平成18年発行の「佐々連尾山」では、鉄橋跡の北西に石旅山から伸びる支尾根が張り出しており、水線も曲線を描いているのだが、実際は直線に近い。これは昭和43年に竣工した砂防ダム工事時に、尾根が削り取られたものと思われる。地形図の測量は昭和42年である。平成18年に更新はされているものの、道路以外の部分は殆ど更新されていないのではないかと思われる。
そのダム手前は深い渕になっているが、ここが赤滝展望所の案内板に記されていた、高橋兵庫守という落人が京から来た追手100人を斬り捨てた「百人渕」かも知れない。
廃線跡の路盤が消失し、河原の岩場を一旦歩き、再び岸に上がると赤滝の懸かる支流はもうすぐ。
鉄橋跡の橋台も消失した沢の奥に赤滝最下段の瀑布が懸かっている。これが展望所からは見えなかった部分の滝である。水量は少なく、岩肌を滑るように落下しているが、滝風は吹いているから心地良い。滝壺も一応あるが狭く浅い。
東岸の袂には石段があり、石垣が築かれた平地に続いているが、ここは昭和40年代まで祀られていた「赤滝様」という祠跡だろう。歩行者橋が豪雨で流失して以降、祀るのをやめたのだろう。
赤滝を探訪した前日、「百神の滝(百間滝)」に似た滝を擁する愛媛の渓谷を2時間かけて登ったのだが、また機会があれば紹介したい。
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