≪偉人の思いを勝手に詮索するのは失礼≫
拙著読者や当ブログ閲覧者の中には、私が坂本龍馬その他の志士、偉人を解説する時、「思い」や人間性より、関連史跡や遺構、街道を主体的に綴っていることに疑問を抱いている方がいるかも知れない。
基本的に私は龍馬らに対しても、先日、博物館資料論のレポートで解説したように、自らの価値観を他人に押し付けたり、偉大な偉人の思いを勝手に詮索することは良しとしない。
龍馬は自らの思想や理論を示した書物を一切著していないからである。
龍馬研究家の中には、学社連携に関する知識がないにも拘わらず、龍馬の生き方を子供や若人に学ばせようとする動きもある。が、果たして自由人の龍馬がそんなことをしただろうか。
ある事象を見て、それをどう感じ、そこから何を学び取るのか、または学ぼうとしないのかは、各人が自ら決めることであり、他人から教わるようなものではない。まして、龍馬が生前、何を考え、何を成し遂げようとしていたのかは、本人にしか分からないことである。
だからこそ、私は龍馬が滞在した跡や歩いた街道を紹介し、それを追体験することにより、各人が何かを感じ取ってくれればそれでいいと思っている。
それは幕末の志士だけでなく、戦争遺跡や鉄道廃線跡、無名峰、無名景勝地等についても同じである。
戦争遺跡は決して「負の遺産」ではなく、立派な近代化遺産及び防衛の歴史遺産であり、鉄道廃線跡はただの線路跡ではなく、輸送の歴史の一部であり、無名峰登山は有名峰の入山者過多による自然後退を抑制する一助であり、無名景勝地は地域の再発見の一つである。
それらの広報活動が、これまでのガイド書やビデオの刊行、講演、写真展開催であり、これから叶えようとする博物館活動である。
もし拙著で紹介する戦跡や鉄道廃線跡が、ただの廃墟マニアの視点で捉えられ、無名峰が娯楽のためのピークハンターの視点で語られていたら、高知新聞その他のマスコミで報道されることはなかっただろう。
だからみなさんも史跡や遺跡、自然を訪れる際、なぜそれがそこに存在するのか、ということを考えて探訪・探勝して戴きたい。
ps:最近は体調がすぐれないため、あまり長文のガイド(脱藩道や各種紀行を含む)は投稿できません。
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