お龍、土佐和食(わじき)へ(1)
慶応3年12月2日、海援隊士・佐柳高次より長府藩士・三吉慎蔵の元に龍馬の横死の報がもたらされた。12月15日、慎蔵は龍馬の遺言通り、お龍を引き取る。翌慶応4年3月初旬、慎蔵はお龍とその妹・起美を伴い、長崎へと行く。これも龍馬の遺言となった、海援隊副長・菅野覚兵衛(千屋寅之助)と起美との結婚のためである。3月20日、お龍は覚兵衛の手配で土佐藩...
View Articleお龍、土佐和食(わじき)へ(2)
土佐東街道(藩政期の呼称は阿波路)は香南市の旧赤岡町に於いて、国道55号の東から北側に並行して南下・東進しており、赤岡の商店街を通って、以前紹介した土佐勤王党結成の謀議を行った佐田屋のやや西方で旧香我美町岸本に入る。藩政期の赤岡村は商業のまちとして発展していたが、その反面、土佐有数の賤民部落として現代まで暗い影を落としてきた。以前紹介した逸話、高松順蔵が村の不良に野良犬をけしかけられたのも、そ...
View Article魚梁瀬森林鉄道西谷線(1)
[四国最大級素掘り隧道を擁す廃線跡] 魚梁瀬森林鉄道西谷線は奈半利川線本線の西谷橋南袂から分岐し、宗ノ上川沿いを遡り、途中、インクラインで高度を上げ、鐘ケ龍森(1125.5m[旧標高1125.7m])南部まで達していた総延長18,827mの軌道。昭和18年に宗ノ上集落まで開通し、昭和32年まで順次延長されてきた。昭和36年から車道...
View Article海軍第23突撃隊(3)第50震洋隊宇佐基地
第50震洋隊(通称:中平部隊)は野見の第49隊と同じく、昭和20年5月5日、長崎県大村湾の川棚で編成され、5月10日、23突付になった。総員193名の内、三重海軍航空隊乙19期と20期生の53名が搭乗員で、49隊同様、震洋Ⅰ型が52隻配備されていた。この23突宇佐分遣隊基地は土佐市宇佐町井尻(いのしり)から須崎市浦ノ内...
View Articleお龍、土佐和食(わじき)へ(4)
[龍馬も歩いた「塩の道」の起点へ] 花月楼跡側の交差点を南の国道55号に折れる。西側の赤岡郵便局や香南市赤岡支所、そして国道とその向かいの地一帯は赤岡最大の寺院・萩原山教憧院与楽寺境内跡。土佐東街道が参勤交代道だった頃、藩主の本陣(宿泊所)だった。この寺の末寺の一つの住職が坂本龍馬ら土佐勤王党と交流していた勤王僧だが、それは次回解説する。...
View Article消費電力20W以下送風機での超省エネ生活
[3個のファンとUSB・AC電源変換] ‘10年の猛暑時期、消費電力が最少(100W程)の業務用冷風扇と家庭用冷風扇の二個を使った猛暑の乗り越え方を紹介したが、現在、消費電力合計がその4分の1から5分の1による省エネ生活を送っている。複数の冷風扇を同時に使用する理由...
View Articleお龍、土佐和食(わじき)へ(5)
[龍馬と交流したキリシタン牢番人] 塩屋餅店南東向かいから舗装小径(だったと思う)の生活路に入り、南下。両側に二軒過ぎると二方向が車道の十字路に出るが、尚も南下する。更に左手に二軒過ぎると車道の十字路に出る。その十字路北西角の砂利の駐車場は、な...
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